the cake is a Lie | ナノ
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12. 苦笑い

弥海砂の監禁が五十日を過ぎた7月終わり頃、ついに竜崎は彼女と夜神月を釈放する決断を下した。
完全に彼らが潔白だと判断したわけではないが、日本警察の皆の進言や夜神局長らの様子を鑑み、これ以上の拘束は難しいと考えたらしい。
拘束を解く前に夜神局長が一芝居打ち、そこでも夜神月と弥海砂に不審な様子はなかった。
釈然としない様子だった竜崎も、この二人が現時点ではキラではないと判断せざるを得ない状況となったのだ。

とは言え、釈放をするにしても二人を完全に自由にさせるわけにはいかない。
特に弥海砂はビデオを送った自白をしているし、一致した採取物などの物的証拠もある。
キラを捕まえて全てを解明するまでは注意深く彼女、そして夜神月を監視を続けたい、これが竜崎の考えである。




──そして現在。

無事夜神局長のテストを終え、病院で健康に異常がないか診察を終えた二人をこれから竜崎のいるホテルに呼ぶ。
私は彼らが到着するまでに、ワタリが押収していた弥海砂の自宅の荷物の中から生活に必要そうなものを選び分け、いち早くホテルへと運ぶことを任されていた。
久しぶりの高級ホテルの高潔な雰囲気に感激しつつ、そんな場に不釣り合いな台車で大きなダンボールを運んでいく。
海砂を滞在させる部屋へとたどり着き、何とかドアを開けて中へと入れば、途端に鼓膜を震わせる聞き慣れた声。

「香澄さん」

ダンボールの向こうからひょっこりと顔をのぞかせた人物──二ヶ月経ってもまったく変わりのない様子の竜崎に、驚きと高揚感で肩を跳ね上げた。

「びっくりした…こんなとこで何してるんですか竜崎…」
「一応弥海砂の荷物を一通り把握しておこうかと。今は他にやることもありませんし」
「僕もいますよ!女性ひとりじゃ荷下ろし大変かと思って!手伝います」

竜崎の向こうでニコニコしている松田さんの存在にようやく気づいて、咄嗟に愛想笑いを浮かべた。
とりあえず当たり障りない言葉をかけようと、「わざわざありがとうございます」と二人に頭を下げてみたのだが、笑みを保つ頬は無様に震えている。

弥海砂を監禁していた約二ヶ月、直接関わった人間と言えば彼女とワタリだけ。
それ以外にはたまに竜崎と事務的な通信をするだけで、その他の人間とコミュニケーションをとることとは全く無縁の日々だった。
あの陰鬱とした地下室で淡々と日々の仕事をこなし、たまにお喋りして、おしまい。
そんな代わり映えのない暗い毎日を送っていたので、人との上手な関わり方をすっかり忘れてしまった。
そんなところに心の準備もなくいきなり竜崎と松田さんに対面してしまったのだ。
愛想笑いを保つことすら難しくなっている。
笑顔という久しぶりの負荷に、小さく痙攣する頬の筋肉。
己の身が弱っていることを改めて思い知り、あまりの情けなさに呆れる。

うまく笑えない顔を二人に見られたくない。
私はそんな苦い思いに突き動かされ、不自然にならぬよう静かにダンボールの影に隠れた。

「じゃあこの上のダンボール、向こうの窓際のところに置いて頂いていいですか?」
「任せてください!」

そう言う松田さんの声は、とても明るくて耳あたりが良い。
久しぶりのその朗らかさに胸の内の苦しみが軽くなるような心地がしてぼうっとしていると、台車の傍に立ちダンボールに手をかけていた松田さんと視線がかち合った。

「あれ?香澄さん痩せました?」

普段抜けているように見えて、なんだかんだ松田さんは目ざとい。
あまり突っ込まれたくないところを指摘されてしまい、気まずさに肩を強張らせる。
ちらりと竜崎のほうを見ていれば、彼は部屋の様子を確認しているのかふらふらとリビングの奥の方へと向かっていた。
竜崎が会話に参加しないことに胸をなでおろしながらも、私はにへらとありきたりな苦笑いを浮かべ、そっと己の頬に手を添えた。

「…あ、えっと、ずっと身体動かさないで冷房にあたってばかりだったから、ちょっと体調崩しちゃって…」

二ヶ月前よりもこけているだろう頬。その触り心地は以前よりも悪く、肌の様子も依然として良くない。
ひと目でやつれたと気づかれてしまうほどの己の変わりようだが、「弥海砂の世話をしていく中で精神的にやられた」なんて理由はあまりにも情けなくて正直に話すことが憚られた。
運動不足で冷房の効いた部屋に居続けたことは事実だし、それらだって身体には良くないのだから、こう言い訳すればいいだろう。
肩を竦め困ったように笑って適当にごまかそうとするが、松田さんの表情は変わらず同情的な色を滲ませている。

「大丈夫なんですか?香澄さん、向こうでずっと弥海砂の監視続けてたんですよね?何日かのんびりできるお休みの日を取ったほうがいいんじゃ…。…何なら、僕の方から竜崎に直談判しときましょうか?」
「聞こえてますよー松田さん」

向こうにいる竜崎に聞こえないようにと小声で話しかけてきた松田さんだったが、竜崎の地獄耳を前に呆気なくも敗れている。
びくんと大袈裟に身体を震わせて、竜崎に台詞を聞かれたしまったことに驚愕しているその姿。
相変わらずどこか間抜けなそんな様がおかしくて、愛想笑いではなく自然な笑みを零していると、のそのそとこちらにやってきた竜崎が気怠げに口を開いた。

「松田さん、やっぱりそのダンボールを向こうに置いたら、捜査本部に戻ってください。あとは私と香澄さんでします」
「えー!何でですか竜崎!」
「香澄さんと二人っきりでこれからの捜査について話がしたいんです。彼女に任せたい仕事があるので」
「香澄さん体調良くなさそうなのにですか?」
「香澄さんにしか任せられない仕事ですから」

竜崎の台詞を聞き、不満げに眉根を寄せながら私を見やる松田さん。
心配の色が滲んでいるその眼差しに感謝を覚えつつも、「大丈夫」の意を込めて小さく頷く。
彼はそんな私の瞳を見て何か言いたげにしていたが、少し間を置いて「分かりました」と言い、リビングの窓際へダンボール置いた後大人しく退室していった。

バタンとドアが閉まる音がよく響く。
竜崎と私二人っきりの部屋が、途端に気まずい静寂に包まれてしまった。
松田さんがいなくなるとこうも静かになってしまうんだなとどこか感心しながらも、あまりの居心地の悪さに視線を彷徨わせる。

竜崎の意を汲んで松田さんを送り出してはみたものの、実際は竜崎と二人っきりになってしまうなんて避けたかった。
未練ったらしい恋心を自覚してからというもの、事務的な通話をするときでさえ妙に意識してしまい辛くなるというのに、こんな二人っきりの状況では尚更苦しくなってしまう。
いやな沈黙に内心狼狽えつつ、竜崎と視線を合わせぬようひたすらにダンボールを見つめ続けた。

「ちょっと横、通りますね」

ダンボールを抱えて逃げるように足早に竜崎の横を通り過ぎる。
今はとにかく作業に集中して気まずさを忘れよう。
そんな思いでコーヒーテーブルの脇に置いたダンボールをそそくさと開き、中の荷物をテーブル上に並べていると、竜崎が指を咥えながらリビングルームへやってきた。
予想はしていたが、ダンボール運びを手伝おうという気は彼にはさらさらないようで、少し呆れてしまう。

「二ヶ月間、弥海砂の世話ご苦労さまでした」
「…竜崎こそ、お疲れ様でした。その…、芳しくない結果というか、得られたものは少なかったですけど、これからも捜査頑張りましょう。私もできる限り協力させて頂きます」

荷物整理に集中している体で彼と目線を合わせないまま、淡々と当たり障りないことを言う。
誰も居ない部屋で二人っきりでいると気まずくて仕方がないので、手伝わないならさっさと出ていってほしい。
そんな不躾なことを考えて一人悶々するが、竜崎はこちらの気持ちも全くお構いなしに私の傍にしゃがみ込み、そしてはばかりなく顔を覗き込んできた。
一切の遠慮なんて感じられないその様は竜崎らしいと言えばそうだが、こんなジロジロ観察されてしまってはただただ困惑するしかない。
ぐいっと顔を近づけられた拍子に香る甘い匂いに図らずも胸が高鳴ってしまい、そんな自分を認めたくなくて慌てて顔をしかめた。

「…な、なんですか…」
「…確かに随分やつれたな、と…」

そして黒い瞳で射抜くように私を見つめながらもこちらに手を伸ばしてくる。
竜崎のほんのり温かい掌が私の頬に添えられ、形を確かめるかのように上下に滑った。

竜崎の身体が触れるなんて、甘くも厭わしいあの夜以来だ。
久方ぶりに感じる竜崎の手の感触のせいで脳裏にあの日の行為がちらつき、自然と顔を熱くしてしまう。
これ以上触れられていたら感情が抑えきれなくなってしまいそうな恐怖に、やんわりと彼から顔と身体を逸らしてダンボールへと逃げた。

───のだが。


「ひっ!」

竜崎に背中を向けた瞬間、ぐいっと力強く身体を引き寄せられた。
予想外の出来事にバランスを崩し、後ろへと身体が倒れかけるが温かい何かに受け止められる。

腹部に回られた白い腕、そして甘いお菓子の匂いと清潔な衣服の清らかな香り。
竜崎に後ろから抱きしめられていると理解するのに時間はかからず、私はあまりの出来事に驚愕で身体を強張らせながら尚一層頬を熱くした。

「…なんですか竜崎っ!」
「触って確かめているんです。身体も痩せましたね」

抑揚なくそう言いながらも腹の肉を摘むように腹部を揉もうとしている。
耳元に竜崎の低い声を感じ、そしてくすぐられるように身体を弄られて。
彼にそんな気はなくても嫌でもセクシャルなことを意識してしまい、心臓が早鐘を打ち始めた。

竜崎が突拍子もない無遠慮な行動に出るのはいつものことだが、これはあまりにも度を越している。
いくら一線を越えた経験があるとは言え、交際していない男女がして良いコミュニケーションではない。
私は身を捩って抵抗するが腹を撫でられるくすぐったさにうまく力を込めることができず、竜崎の腕を振り払うことが出来なかった。
あまりにこそばゆいその感覚に、生理的に涙が浮かび視界がぼやけていく。
これ以上は勘弁してくれ、そう訴えようとすぐ後ろの竜崎へと振り返ったその瞬間。


焦点も合わないほど至近距離にある竜崎の顔。
涙でぼやける視界の中でも、彼と視線がかち合ってしまったことは分かってしまう。
しまった、と思った。嫌な予感がした。

頭の中でけたたましく警鐘が鳴り響き、そして──。



少しの間を置いて、竜崎の唇が私のそれに重ねられた。

初めはやさしくかすめるように。
だがひと食みひと食みする度に次第にキスは深いものとなっていき、私の戦慄く唇はすっかり竜崎に捕らえれてしまう。
突然始まってしまった口づけに呆然としていた私だったが、竜崎の舌に唇を舐められたころようやく我に返った。
どうしようもない罪悪感と恋慕の気持ちを抑えきれなくなってしまいそうな恐怖。
苦悶に駆られて必死で彼の胸を押してはみるが、私よりも大きい竜崎の身体は男女の力の差もあってびくともしない。
そればかりか唇を舐められながらも私の身体をほうが押されてしまい、自ずと後ずさってしまう。
気づけばそのままコーヒーテーブルの横にあったソファに座り込まされ、竜崎の身体が覆いかぶさってきた。

「ん…んぅ、ふ、っ…」

いつの間にか熱くなってる竜崎の両手に顔を捕らえられ、強引に唇を割られ、口内に侵入してきた彼の舌に口の中を弄られる。
粘膜をくすぐられるいやらしい感触のせいで身体から力が抜けていき、抗おうという気持ちはあるのにこれ以上の抵抗ができない。

どれだけ竜崎を遠ざけようとも抵抗しようとも、簡単に手篭めにされてしまう己の身のなんと情けないことか。
嫌悪感と興奮、怒りとときめき。
胸の内で溢れて絡まり合う様々な思いに感情が高ぶってしまい、そんなつもりは微塵もなかったのに身体が小刻みに震えだす。
もはや抵抗も諦め、されるがままに唇を弄ばれていると──竜崎は突然ハッと顔をあげ、性急に身体を離した。

「…すみません、嫌でしたね」

私から視線を逸らしつつ、珍しく戸惑いがちに言葉を放った竜崎。
私が震えていたことに気づいたのだろうか。
抱きついて、キスして、こんな強引なことしておいて、私が恐怖に震えていると分かったくらいで何故易易ととどまったのか。
竜崎がなにを考えているのか全く分からず、酷い気まずさに彼から顔を背けて涙と唾液を乱暴に拭った。

「…何で急にキスなんてしたんですか」
「……出来心、ですかね。くすぐったがる香澄さんに何となく欲情しただけです」
「今、私とセックスがしたいと…?」
「…そうは思っていますが、今はやめておきます。これからすぐ夜神月と弥海砂がホテルに到着しますし、香澄さんの体調も良くないですし」

そう言って竜崎は私の上から退き、のっそりと窓際へと歩いていった。
竜崎が視界から消えていったことに安堵を覚えつつも、自ずとどこか寂しさも感じてしまう。

竜崎だって二ヶ月近く続いた監視生活に鬱憤も性欲も溜まっているだろう。
近くにいた手頃な女性にちょっとちょっかいを出して遊んでみたかったに違いない。
竜崎からすれば別に何のこともない戯れのつもりだったはずなのに、私が大袈裟に震え始めたので驚いたわけだ。
初心なわけでもないし、まして二ヶ月前とはいえ「またあなたを抱きたい」とはっきり宣言されてるのだがら、震えるほど怖がるなんて不自然もいいところである。
これでは竜崎のことを特別視していると言っているようなもの。

「いきなりのキスに吃驚して緊張で震えただけです。別に、それ以外の意味は無いですから」

苦し紛れにそう言い訳をするしかなかった。
やはり竜崎のこととなるとうまく感情を抑え込めない。
そんな自分に呆れて遣る瀬無く俯き、未だじんじんと甘く切なく疼いている唇に手を添えて背中を丸める。

竜崎はそれ以上何も話さなかった。
再び訪れてしまった沈黙は、先刻のものよりも遥かに気まずい。
キスで酸欠にでもなったのか未だぼんやりする頭で必死に思い巡らし、この重苦しい沈黙を打破しようと話題を考えた。

「…竜崎、さっき私に任せたい仕事があるって言ってましたよね?今、時間があるうちに聞かせてください」
「ああ…そうでした」

後方にいる竜崎がどんな表情をしているかはわからないが、その声は普段どおりの飄々としたものに戻っていた。
その様子にひとまず胸をなでおろし、未だ収まらない手の震えを隠すようにこっそり拳に力を込める。

「今、ワタリに手錠を用意させています。私はこれから月くんと自分を手錠でつなぎ、二十四時間行動を共にするつもりです」

竜崎が二人を解放しながらも未だ釈然としない気持ちを抱えていることを知っている。
竜崎は弥海砂を開放する旨の連絡を私に入れた時、「『現時点では』キラではないと判断しました」と言った。
つまり『以前は』キラであったに違いないと竜崎は思っているわけだ。
そんな彼らを自由に行動させるわけにはいかないし、一時も欠かさず監視したいと思うのは当然のこと。

私はそこまで考えたところで、ハッと顔を上げる。
これから竜崎が言おうとしていることに気づき、気怠い身体で彼の居る窓際へと振り返った。

「…竜崎は夜神月。そして弥海砂は…私、ということですね」
「御名答です。さすが香澄さん」

棒読みで褒められてもちっとも嬉しくないが、まあ今はそんなことはどうでもいい。
私は怪訝に眉根を寄せて竜崎を睨むが、彼は窓の外を眺めているのかこちらに背を向けたままである。

「やつれるほど体調が良くないあなたに、また負担をかけることになります。弥海砂と手錠で繋がれれば、プライバシーはありません。食事も睡眠も、風呂もトイレも全て彼女と共にすることになります。そんな生活を送るストレスは香澄さんにとって大きいはずです」
「でも私が断ったら、別の方法で彼女を監視しなければならないんですよね。例えば、彼女の行動範囲すべてに監視カメラをつけるとか」
「そうなります」

つまり風呂場にもトイレにもカメラを付けることになる。
それを監視する役目は唯一の女性である私になるだろうが、しかし私も二十四時間モニターに向き合うことは不可能だ。
捜査本部の男性の誰かに、監視を任せるときもあるはず。
まだ二十歳そこそこの女性が男性に監視される可能性を長期間抱え続けるのは酷だろう。
自ずと彼女の心情を慮って、同情の念を抱いてしまう。

「それと竜崎、きっとあなたはもうワタリに用意させているのでしょう。手錠を、ふたつ」

苦笑いしながらもそう指摘してみればようやく竜崎がこちらへと振り返った。

「私の考えをよく分かってますね」
「もう半年以上も一緒に仕事していますので」

ようやく先刻までの切なさを振り払い、平常心で竜崎と向き合うことができた。
そんな自分に安堵しつつ、彼との睦み合いで乱れた前髪を整えながらじっと考え込む。

手錠を既にふたつ用意していると言っても、私がここで嫌がれば竜崎はきっと無理強いはしない。
彼は無遠慮で無茶なように見えて、なんだかんだ部下のマネジメントには気を配っている。
少数の捜査員で信頼関係を大切に捜査していかなければならない状況下だ、貴重な駒を失わないための合理的な配慮だろう。
だがそれでも、気にかけてもらえるのはやはり嬉しいし有難い。
その気持ちだけで私は十分だ。

先日の公園での竜崎との電話を思い返して少し目を伏せ、そしていま一度竜崎と向き合ってみる。

「弥海砂と手錠で繋がれる役、私やります。最近は身体の調子も良くなってきていますし、大丈夫だと思います。自分の体調に気を配りながら、あまり煮詰めないように頑張ります」

どうせ私は弥海砂をいずれかの方法で監視し続けなくてはならないのだ。
モニターとずっとにらめっこを続けるくらいなら、いっそ二十四時間共に行動したほうがマシ。

私はソファの背もたれに手をかけながら、まっすぐに彼へとそう語りかける。
みじめな恋心を覆い隠すかのように、ひとりの部下として何とか顔に笑みをたたえ続けることが、今の私にとれる唯一の行動である。
竜崎はそんな私をしばらくじっと見つめた後、「お願いします」と一言だけ言って再び窓の外へ視線を戻した。











その後、ホテルへと無事到着した夜神月と弥海砂を交え、コネクティングルームに皆で集まることとなった。
話し合いを始める前にまずは彼らの身なりを整えてあげたい。
皆の意見でそう決まり、私はミサの着替えを準備してシャワールームへと向かった。
声をかけた後脱衣所のドアを開けてみれば、既にシャワーを終えた海砂が身体にタオルを巻いて髪を乾かしているところだった。
邪魔するのも悪いので適当なところに着替えを置き退室しようとしたところ、その大きな目が途端にキラキラと輝き始める。

「香澄ちゃん!?香澄ちゃんでしょ?」
「そ、そうだけど…」
「やっと香澄ちゃんの顔見れたー!どんなお姉さんなのかずっと気になってたの!」

いきなりの彼女のハイテンションに驚いていると、次の瞬間ガバっと勢いよく抱きつかれた。
シャワーを浴びたばかりの彼女からフローラルの心地よい香りが漂ってくる。
私は痛いほどにぎゅうぎゅうと抱きしめられながらも、少しうろたえた後、彼女に倣うようにその華奢な背中へ恐る恐る腕を回した。

そういえば──海砂とは二ヶ月間毎日共に居たわけだが、私の素顔を晒すのは今日が初めてだ。
普段身の回りの世話をし、唯一の話し相手となった私が一体どんな人物なのか、彼女はずっと気になっていたらしい。
妙に高揚しきった彼女の行動の訳がわかり、ひとり納得しながらそっと口を開く。

「今までずっと不自由な思いさせてごめんね。この後竜崎から詳しく説明されると思うんだけど、私、これからも海砂ちゃんの傍にいることになるから、よろしくね」
「監視がつくって聞いてどんな人が来るのか不安だったけど、香澄ちゃんならミサも安心できる!こちらこそよろしくね」

良い警官役として竜崎の命令通りに海砂と信頼関係を結べるように努めたわけだが、ここまで親しげにしてもらえるとは思わず、何だか照れくさい。
私は彼女を日々世話し唯一の話し相手になった人間だが、それと同時に、第二のキラと疑い監禁した側の人間でもあることも彼女は理解しているはず。
それでも私を恨んだりせずに、こんなにも明るく人懐っこく接してくれるなんて。
やはり海砂は純粋で良い子だ。
顔を上げて屈託のない笑顔を浮かべたその可愛らしさに、私も釣られて微笑んだ。



その後着替えも終え、久方ぶりに彼女らしい服装に戻ったミサと共に皆が待つ部屋へと戻れば、丁度竜崎がトレイに置かれた二組の手錠をつまみあげるところだった。
困惑しながらも左手首に手錠をかけられる月くんと、当たり前のように自分の右手首にも手錠をかける竜崎。
そんな二人を黙って眺めていると、竜崎にもう一つの手錠を差し出された。
海砂はこれからどうなるか気づいたようで咄嗟に顔をしかめたのだが、できる限り丁寧に説明して何とか納得してもらえ、無事手錠をかけることが出来た。

竜崎は月くんと。
そして私は海砂と。

それぞれの間でジャラ、と無機質な音を立てる手錠は妙に重い。

「うえー…。香澄ちゃんが監視につくとは聞いてたけど、手錠までしなきゃいけないの…」
「ミサ、わがまま言うな。ビデオを送ったのが君だというのは確定的なのに、こうして自由にしてもらえただけでもありがたいと思うべきだ」

海砂を説得してくれる月くんに感謝しつつも、四人がそれぞれ手錠に繋がれるこの異様な光景にはやはり苦笑いするしかない。
海砂ちゃんも文句くらいは言いたくなるよね、と同情しつつも、彼女に質問を始めた竜崎へと大人しく耳を傾ける。

5月22日、どういう経緯で青山へ行き、月くんに一目惚れするに至ったか。
月くんがキラだったらどうするか。

淡々と質問攻めにする竜崎だったが、全く手応えのない海砂の答えに拍子抜けのようである。
海砂の監視を始めて最初の数日間のあの悲痛な態度と、一度気を失ってからの気の抜けたような態度。
人が変わったとしか思えないようなあの豹変っぷりについては私も未だ気がかりにしているが、この問答を聞いているとやはり手がかりは掴めそうもない。

「…とにかく、ミサさんのことは香澄さんに二十四時間監視してもらいます。プライベートでも、仕事でもです。香澄さんと、あと彼女の具合を考慮して念の為松田さん、この二人をミサさんのマネージャーにしてもらえるよう事務所にお金を渡し、話を通しておきました。そのつもりでよろしくお願いします」
「…ねえ竜崎さん、プライベートでも常に手錠に繋がれるってことは、ミサはいつ月とデートすればいいの?」

不満げに口をとがらせながらそういう彼女に、竜崎は顔色一つ変えずに話し始める。

「デートをする時は必然的に私と香澄さんも付き添うことになります」
「えー!そんなのデートじゃないよー!」
「別にデートなんてする必要ないでしょう。キラでないことを証明して開放された後に存分に月くんとデートしてください」
「むりむり!ミサ、月のこと大好きだからデート出来ないと死んじゃうー」

私とプライバシーのない生活を送ることよりも、月くんとデート出来ないことのほうが辛いのか…。
変わった感性を持っている彼女の拗ねっぷりに何も言えず、二人の会話を大人しく見守っていると、突然竜崎が私の方へと顔を向けた。
私から海砂をなだめてほしいのだろうか、と小首を傾げていると、竜崎はジャラジャラと手錠の鎖を鳴らしながらこちらへやってきて──。


──私の手を包み込むように、その大きな手を重ねた。




「あなたのことが好きです香澄さん。付き合いましょう」




沈黙。
この場にいる誰もが瞠目して、言葉を失ったまま竜崎を見つめている。

竜崎から突拍子もない言葉をかけられた張本人である私も、まったく想像つかなかった展開に絶句して呆然とするしかない。


「はい、今この瞬間から私と香澄さんはお付き合いをはじめました。ってことでミサさん、デートするならダブルデートということで。これなら嫌悪感も少ないでしょう」

私の手を握ったままミサへと顔を向けてあっけらかんにそう言い放つ竜崎。
掴みどころのないその光景を目の当たりにし、彼の意図をようやく把握できた私だったが、未だ脳が混乱していて身動きが取れない。
するとそんな私の動揺を代弁するかのように、ミサが狼狽えながら声をあげた。

「はあ!?そんな取ってつけたようにダブルデートしましょうとか言われても納得できない!ていうか香澄ちゃんだって可哀想だよ、こんな変態竜崎さんにいきなりお付き合いしましょうなんて言われても!」
「香澄さん、嫌ですか」

ギョロッと大きな瞳を私へと向け、憚りもなく当たり前のようにそう尋ねてくるので、私は更に困惑してしまう。

嫌?嫌だろうか、いいや、嫌じゃない。
しかしそれはこんなあからさまな取って付けたような嘘ではなく、本心からそう言われたら、の話である。

九歳で出会ってから今日までずっと初恋を抱いていた相手。
呆気なく捨てられてしまいながらも、十年以上ずっと携え続けてきたこの恋心。

そんな竜崎に、いやエルに「好きです」と、「付き合ってください」と言われることをどれほど私が切望したか。
彼に手を取られ、熱っぽくもひたむきな眼差しでそんな告白をされたのなら、どれほど嬉しいか。

だが先刻竜崎の告白は、誰がどうみても本心からではない明らかな嘘である。
監視つきのデートを嫌がるミサへの譲歩として取る「ダブルデート」という手段のため、仕方なく告白してきたに過ぎない。
こんな投げやりな偽りの告白を、ずっと恋い慕っていた相手からぶつけられて嬉しいと思える人は、果たしてこの世にいるのだろうか──。


しかし、この状況において私の個人的な感情なんて関係ない。

竜崎は上司として私にミサを監視することを命令し、彼女の嫌悪感をへらすため仮初の交際を求めているのだ。
忠実な部下として何を求められているのか、どう答えればいいのか。

分かっている、大丈夫。
大丈夫だから、ちゃんと弁えているから、安心してね、エル。


「いいえ、嫌じゃありません。よろしくお願いします竜崎」

竜崎の突拍子もない行動に困惑しつつも素直に従う忠実な部下。
それを演出するため、自然な苦笑いを顔に貼り付けて少し困ったように、恥ずかしげに肩を竦めてみせた。

「えー!!香澄ちゃんもそれでいいの!?だって竜崎さんが彼氏になるんだよ、ありえなくない!?」
「失礼ですねミサさん。こう見えても私と香澄さんは一夜を共にしたことだってあるんですよ」
「言い方!『一夜を共にした』って、徹夜で一緒に捜査したとかそういうことでしょう!」

……。
本当にそういう意味で一夜を共にしたことがあるんだよねえ……。
何とも際どすぎる竜崎の冗談に内心酷く焦りながらも、この困惑を悟られぬよう必死で苦笑いを保ち続ける。

まさか長年恋い慕い続けた男性に、こんな形で交際を求められるだなんて。
私は間違いなく本物であるこの重い恋心をひた隠しにして、竜崎との偽りの男女交際を全うすることができるのだろうか。

夢にも思わなかった展開に気分は最悪で、胃がキリキリと痛み始めた。
途方も無い不安に内心で頭を抱えながらも、何も出来ずに目の前の状況を眺める。
甲高い声であれやこれやと竜崎への文句をぶつけるミサと、うんざりしながらも飄々とした口ぶりで反論していく竜崎。
その気の抜けたやり取りに、これからの手錠生活の困難さが垣間見えてしまい、私はぽつんと取り残されていた月くんと顔を見合わせて二人仲良くため息をついたのだった。