18. 最愛 ───酷く月の綺麗な夜。桜が散っていく様を、ただ粛々と眺め続ける。 日が暮れてから大分時間が経っていた。病院の寝台の上、眠りにつく気にもなれず、私はひたすらに窓から見える桜の木を眺めていた。本を読んだりだとかもっと有意義な時間の使い方はあるのだろうが、どうも無性に桜に惹かれてしまいそれ以外のことをする気になれなかった。かなり花びらを落とし、もう所々に緑を覗かせているその様を何となしに観察していると、突然戸をこんこんと叩く音が聞こえた。 「起きているか?」 「はい起きてます。どうぞ」 そう声をかければ慎重に戸を開けた後、ひょっこりと男が顔を覗かせた。黒く長い真っ直ぐの髪の毛。健康的な肌色。大きな体つきだが随分と優しい目をしている男は、ゆっくりと寝台の側までやってきて自分で椅子を出し腰掛けた。 「身体の具合はどうだ?」 「…悪くありません。吐き気や目眩がある時もありますが、でもここに連れてこられたころに比べれば大分良くなりました」 「そうか、良かった。…少し、話がしたいんだ。今良いだろうか?」 柔らかな物腰でそう問われ、私は素直に頷いた。随分と人柄の良さそうなこの千手柱間という男は、何でもこの忍里の頂点に立つ人物らしい。おそらく多忙なはずの彼は、私がここに連れてこられてから毎日見舞いにやって来る。昨日まではちょっと挨拶をして私の状態を確認したら短時間で帰っていったのに、今日はいつもと違うらしい。里にとって重要人物である彼が直々に私のことを見舞うその理由を察しつつも、私は千手柱間の言葉を待った。 「すまん、もういろんなやつから散々質問されただろうが、お前の記憶が残っている場面から里に連れてこられるまでのことを、オレに聞かせてくれぬか?」 もう何度も何度も説明したことをまた口にしなければならないことに面倒くささを感じる。だが、仕方がないことだと諦めに一つ息を吐いた後、声を絞り出した。 「…あなた方が求めているだろう情報を提供できず申し訳ないんですけど、でも本当にほとんど何も覚えてなくて。土の国の忍に監禁されて人体実験に使われて、そのせいなのか記憶がほとんどないんです。うちは一族の忍として育ったことも、里の一員だったことも、どんな経緯で捉えられたのかも監禁中のことも、脱走以前の記憶はありません。ただ、木の葉の里に帰りたいという望郷の気持ちだけは残ってたんです。だから隙を見て逃げ出して、何とか火の国の国境付近までやってきました。そこで力尽きて気を失って倒れていたところを、警備巡回中の木の葉の忍に見つけてもらって、失踪していたうちは一族の女ということで連れてこられました」 何度懸命に頭の中を探ってみても、私は同じ回答しか出来なかった。記憶が明瞭にならないもどかしさに苛まれて、下半身にかかっている布団を力任せに握りしめる。 脳内に残る一番古い記憶は、人体実験から逃れたくて土の国からただただ必死で木の葉の里を目指し走っていたこと。それすらもいつから走っていたのかどんな道のりを辿ったかは全く分からず靄がかかったかのように曖昧で朧な記憶だ。鮮明に思い出せるのは、気絶しているのを助けてもらって意識を取り戻して以降である。何故気絶以前の記憶がここまであやふやなのかはわからない。人体実験のあまりの酷さに脳が心を守ろうとしたため記憶喪失になった可能性があると医者は言っていたが、それか正解なのかどうかも分かる術はなかった。 自分が何者なのか、どんな人生を送ったのか、どんなことが好きでどんな風に人間関係を築いていたのか――今の私には何も残っていない。聞く話によれば私は任務中、敵を殲滅しながらも忽然と姿を消したらしい。おそらく敵を殲滅後に土の国の忍に捕らえられたのだろうが、こうして無事生きたまま故郷に帰れたというのはとても幸運なことなのだと思う。しかし、何も思い出せない空っぽな脳みそで、何も知らないこの土地で、誰も身寄りが居ないこのちっぽけな女一人どうやって生きていけばいいのだろう。 語り終えた後、これからの人生を思い漠然とした恐怖に襲われた。これ以上話すこともなく、ただ恐怖に顔をうつむかせていると、千手柱間は「そうか…」と零した後ひとつため息をついた。のっそりと椅子から立ち上がる音が聞こえる。わざわざ出向いたというのに大した情報も得られなかったから呆れているのだろう。彼を失望させてしまったことに申し訳なさを覚えはするが、今の私にこれ以上のことは出来ない。俯いたまま黙りこくって千手柱間がこの部屋から退出するのを待っていると、私の予想に反して彼は戸ではなく窓へと向かった。窓ガラスに少し寄りかかり、外の景色を感慨深そうに眺めているその様に私は小首をかしげる。 「どうしたんですか?」 「いや、月が好きだった男のことを思い出してな」 「…?」 「コマチ、お前の夫だった男のことぞ」 千手柱間はそう言って淋しげに微笑んでいた。 「記憶喪失になり、これからのことを思えばとても不安だと思う。しかし、コマチが生き延びてくれたことを、あの男、マダラはあの世で必ず喜んでいるぞ」 マダラ――その名前が心のどこかに引っかかる。私は救助されてから「うちはマダラの妻で、任務中に行方不明になったくノ一」として扱われ続けていた。私にこういう肩書が付くくらいなのだから、うちはマダラはきっと里において有名な忍なのだろう。うちはマダラのことを聞くと皆顔をしかめて「里を裏切り死んだ」と吐き捨てるので、かなり碌でもない男らしい。 しかし千手柱間の今の台詞はとても穏やかで、どこか昔を懐かしむような雰囲気を滲ませていた。皆と違うその反応を見逃すことが出来ず、私は思わず口を開いた。 「よく知っているんですか、うちはマダラを」 「……ああ、幼い頃からよく知っている。一族のしがらみで敵対していた時期も長かったが、オレの大切な友だ」 やはり淋しげに、しかし少年のようにあどけない顔で笑う千手柱間の姿に、彼と生前のうちはマダラがどれほど親しかったのかを悟る。碌でもない男だろうが夫婦だった位なのだから、きっと私にとって一番身近な人物だったのだろうし、千手柱間がここまで懐かしむというのはそれなりに良いところもあったに違いない。うちはマダラへの興味が私の中で少し顔を覗かせて、未だ遠い目で微笑んでいる千手柱間を見据えた。 「とても優しく、愛情深い男だった。厳つい見た目と態度のせいで誤解されがちだが、オレはアイツ以上に愛に満ちた男を知らない。とても弟思いで、それにコマチ、お前という妻のことをとても大事にしていた」 「…え?」 「千手とうちはが同盟を結んだ後、一度マダラに聞いたことがあるのだ。お前の妻はどんな人なのか、どういう馴れ初めなのか、と。そうしたらやつは『テメェに教える義理なんてねえ!』と照れくさそうに突っぱねたが、その後小声で『幼いことからオレを慕ってくれた大切な妻だ』と教えてくれた。あの照れた言い様は恋女房だと認めたようなものぞ」 全く想像していなかった事実を告げられて呆然とする。千手柱間の楽しげな台詞とは対称的に私の胸は動揺にかき乱されていた。 妻と言っても、きっと親族同士が決めたとか義務的な婚姻で、愛なんてものとは無縁の夫婦なのだと思っていた。うちはマダラという男は禄でもない人間なのだから、夫婦としても情なんて存在しなかっただろうと、そう思っていたからだ。 それが千手柱間が言うにはとても愛情深い男で、傍から見ても分かるくらいに私のことを愛してくれていたらしい。台詞から察するにきっと私とうちはマダラは幼少の頃からの付き合いなのだろう。私の中で出来上がりかけていた非情なうちはマダラ像が、今この瞬間容易く崩されてしまえば困惑する他ない。 私は動揺しながらも、夫婦二人の幸せそうな姿を思い浮かべてみようと試みる。が、やはり全く記憶になく、やるせなさにみぞおちの辺りがきゅっと不快に締め付けられた。 「…それなら私はきっと幸せだったんでしょうね。夫にそれだけ愛されて」 何となしに零した台詞だった。しかし千手柱間は私の言葉を聞いた瞬間、先刻とは打って変わった辛そうな色を顔に湛えた。眉根を寄せるその様に、私の中でさらにうちはマダラに対する謎が深まる。 「マダラはオレが火影になって少し後にコマチを残し里から去った。その時のお前の憔悴ぶりはオレも耳にしていた。そしてマダラが里を襲いオレがヤツを討った後、コマチは孤立してしまった。マダラに向けられた憎しみを妻の責任として被ったのだ」 「…それで、それから私はどうしたんですか」 「憔悴しきったまま、ただひたすらに里に尽くすように任務に励んでいた。本当はこの段階で早くにコマチに救いの手を差し出すべきだったのだが、夫を殺した張本人であるオレがどうコマチに信用してもらえるか悩んで躊躇しているうちに、お前は行方不明になってしまった…すまない」 そう言って頭を垂れる千手柱間に、私は慌てて首を振り彼を制止した。謝罪が欲しかったわけではない。ただ事実を知りたかっただけだ。そう伝えて頭を上げてもらったが、千手柱間の瞳に私を憐れむような色が滲んていることは変わらなかった。 「少なくともマダラが里を抜けてからのコマチは幸せとは程遠い状態だった。しかしオレはただお前に、うちはマダラという男から存分に愛されていたことを知っていて欲しいと思う。オレが知る限りのマダラの情報をコマチに授けたい。記憶を取り戻すきっかけになるかもしれんからな」 千手柱間の優しく同情してくれる物言いに感謝を感じつつも、かつての私の悲惨な姿を想像してしまう。どんな葛藤があったのだろう。どんな苦悶に溺れたのだろう。記憶を失う前の私の苦しみを思うが、しかしどんなに想像してみも、どこか他人事のように哀れむことしか今はできなかった。千手柱間は私が記憶を取り戻すことを望んでいるようだが、今の話を聞いてしまうと、何もかも忘れたままでいるほうが幸せなようにすら思えてしまう。 「うーん…これではマダラが碌でもないヤツだとしか伝わらんな。いや、アイツは本当はいいヤツなのだ。顔も中々男前でな」 「…里を抜けて襲ったのにいいヤツなんですか…?」 「…里が出来てから色々こじれてしまったが…すごく繊細で優しい男だったのは間違いない。きっとかつてのコマチも、マダラのそういう面に惹かれたのだと思うぞ」 「私が…マダラを好きだった…」 マダラが私を愛していた事実ばかり考えていたが、夫を失って憔悴したくらいなのだから私もきっと彼を愛していたのだ。その事実を頭のなかで反芻していると何故か無性に息が詰まるような、心臓を鷲掴みにされたような心地がする。理由はわからない。もしかしたらかつての私はマダラを愛することに途方も無い苦しみがあったのかもしれない。しかしどんなに頭をひねってもそれがどういうことなのかこれっぽっちも思い出せず、私はそれ以上考えることを諦めるしかなかった。頭の中で靄がかかっているようなもどかしさに瞼を震わせ、侘しさにいじいじと指を絡め合っていると、陰鬱な雰囲気を散らすかのように千手柱間は突然明るげに声を放った。 「そうだ、コマチ。ずっと病院で過ごしていても退屈だろう。体が良くなって退院の許可が下りたらお前のことは千手で預かることになっている。監視の意味も兼ねてだが、しかしうちは一族の元に帰るのも引けるだろうし、こっちでのびのび過ごしてくれ。オレの妻も、話し相手ができるのを楽しみにしているぞ」 そう言って笑みを浮かべる彼のなんと明るいことか。私の今後について強引な決定を告げられたわけだが、その笑顔があまりにも嫌味なく人懐っこいので嫌な気が全くしない。まあ行く宛てのない身分だ。よその国でどんなことをされたかもわからない厄介者を引き取ってくれる人がいるだけでも有難い。私のことをここまで気にかけてくれるのは、きっと夫が千手柱間が友だったからだろう。うちはマダラの友人の情深さ救われることになるとは。 私は大きく深呼吸をした後、千手柱間の笑顔に応えるように小さく微笑んで「お願いします」と頭を垂れた。 「ここの病室からは桜が綺麗に見えるな。散る様もなかなか見応えがあるぞ」 椅子から立ち上がって窓辺に移動した千手柱間が外の様子を伺っている。つられて私も同じように桜を眺めていると、窓を開けてもいいかと問われた。特に嫌な理由もないので頷いて、千手柱間が窓を開け放った刹那──。 ひらり、ひらり。 病室へと吹き込んだ強めの風に乗って、桜の花びらが踊るように私の元へとやってきた。下半身にかけたままの純白の布団の上に落ちた薄桃のそれを、何となく摘んで手のひらに乗せてみる。 その瞬間。 なぜか私はハッと息を飲んだ。得体の知れない胸の高鳴りを感じる。早鐘を打ち続ける己の胸元に花びらを握ったままの手を宛て、そして窓の外の桜を見上げた。 深い黒を湛えた夜空を流れるように、ひらひらと桜の木から舞い落ちる花びら。その様がただただひたすらに、どうしようもなく懐かしくて────。 つう、といつの間にか涙が一筋こぼれた。 何かを思い出したわけではない。なぜ涙が零れたのかもわからない。 ただ今この瞬間桜の存在が、美しさが、無性に恋しくてたまらなかった。 もしかしたら私は桜に何か大切な思い出があるのかもしれない。それが何なのかはさっぱり思い出せないが、夫との、うちはマダラとの淡く幸せな思い出だったら良いなと、今この瞬間自ずとそう願ってしまった。 うちはマダラと私はどんな夫婦だったのだろう。どんなに尊くかけがえのない時間を二人で過ごしていたのだろう。 つい先刻までは「記憶を取り戻さないほうが幸せなのでは」とすら思っていたというのに、今ではもうこの胸の高鳴りを抑えきれなかった。乾ききった大地に水が染み渡っていくように、空虚な私の心へ淡い望みが満ち満ちていく。こんなに感情を揺さぶられるのは木の葉の里に帰ってきてから初めてのことだった。だからきっと桜とそれに纏わる記憶こそが、かつての私にとって何よりも大切なものだったのだろう。自然とそう悟ってしまった喜びに、私は物柔らかなときめきを覚えた。 いつか叶うならば。 うちはマダラを存分に愛し、そして存分に愛されたという大切な思い出を、再びこの胸に取り戻してみたい。 幸せな記憶でも、辛い記憶でも構いやしない。喜びも悲しみも、笑顔も涙も全てを思い出すことが出来たのならば──。 記憶を失う以前の私も、きっとそれを望んでいることと思う。だから私は、懸命に生きてみよう。いつか再び愛しい桜の記憶を抱くことができるように。 今この瞬間芽吹いた生きる糧を大切に胸の内にしまい込み、未だ窓の外に目を向けている千手柱間にバレないようにこっそり涙を拭った。鼻から大きく息を吸い込み、もう泣くまいと己に言い聞かせた後、花びらを握りしめたまま笑顔で桜を愛おしく見上げた。 「マダラ…ずっと慕ってくれた愛する妻にもついに忘れられてしまって、本当に可哀想なヤツぞ」 ─終─ (あとがき) (mainにもどる) |