忍少年と隠忍自重 002

◇ ◇ ◇

―――くしゅん
と、控え目にくしゃみを一つ。

小さく身を震わせて、忍は痺れる様に痛む鼻を押さえた。
誰か噂でもしているのでは――――と、窓際の席であるため、近い窓から曇り空を見上げる。
雨は降りそうにないが、相変わらず寒い教室だったから、せめて太陽の恩恵でもないものかと考えたのだ。
年配のおじいちゃん先生がゆっくりとページを捲りながら、黒板横にある椅子に座って、古文を音読している。
ほとんどお経に近いゆったりとした語り―――それは多くの生徒に眠気を誘った。
しかし、船を漕ぎながらも必死についていこうとするのは、まもなく始まる受験に向けての熱意からなのだろう。

…まぁ一部、眠気に負けて机に伏せている生徒もむろん見かけるが。

忍も目を擦った。
眠さだけでなく、視界を覆う長い重い前髪と、あるだけ無駄な眼鏡―――それに赤目を隠すためにつけた黒いカラーコンタクトが、忍の眼に大きな負担をかけるのである。
見ているほうにも重さと暗さを与える黒い鬘と、度の入っていないレンズ。
しかしそれは忍を守るための必需品である。
今は馴染んだ着物は脱ぎ去り、慣れない中学の制服を爪先から足先まで、きっちりと着込んでいた。

成績は上々。
親しい者はなく、一人を好む。
休み時間にはただ黙々と読書し、委員会も図書委員長を務めた。
親しい者同士で輪を作る中、忍だけはどこにも属する事はなく、むろん打ち解けあうこともしなかったため、クラス内ではミステリアスなクール優等生として、珍物扱いである。
根が暗い優等生と定義されるには十分な素質が今の忍にはある。

それがこの学校での『白取 忍』という存在だ。

忍は3日ぶりに学校へ登校した。
しかし、誰もが忍に声をかける事はしなかった。
ただ、久しぶりに顔を見せた忍を、クラスメイト達はどこか安堵した様子を見せてくれた。
やはり半年以上、同じ教室で生活を共通する者同士、何も感じないというわけではないようだ。
忍は特に何を考える訳でもなく、曇り空を見上げ続けていた。
席が窓側の一番後ろなので、忍の存在は誰にも気づかれないような影の薄さが、ひしひしと無言の背中を見て感じる。

(寒ぅ…こりゃ羽織るもん、持ってこなアカンなぁ…)

窓の隙間から吹く寒風に当たり、忍は身震いする。
冬はどうやらもうそこまで来ているようだ。

そんな時に、忍の背後に誰かが立った。

「お前、震えてるぞ。まだ風邪治ってないんじゃないか…?」
「ん?」

忍が振り向いた時には、既に視界は何かに塞がれていた。
メガネに何か当たっている。

「熱はなさそうだが…?」

髪をかき上げて額を覆う冷たい感触を、忍は手で追い払った。

「…そんなんじゃない。ただ少し寒いだけだ」

ぶっきらぼうにそう言って、忍は乱れた前髪を解かす。
この髪が鬘だとばれたらそれこそ一大事だ。

「確かに。今日は特に冷えるな…」

そう呟く声を聞きながら、忍は授業が終わっている事に気がついた。
既に教師は退室して、教室内からいなくなっている。
いつの間にか休み時間になっていたようだ。
生徒達は話に花を咲かせているのを見渡して、忍は思わず拍子ぬけたような声を出した。

「もう授業は終わったのか…」
「あれだけ授業態度の完璧なお前が…ずいぶんらしくないな…。やはり体調がすぐれないんじゃないのか?」

「…少し、考え事をしていたんだ」

忍は自分に声をかけて来た生徒を見上げた。

漆黒の瞳と黒に近いこげ茶の髪。
忍と同じように、優等生を匂わせる。
彫は深く、二重の目は切れ長の精悍な顔つきだった。
どこか優しそうな印象が、ほろりと異性の視線を誘いこむ。

そこにいたのは忍にとって馴染み深い男子生徒だった。

「それと『海藤』、髪をいじらないでくれよ…」
「あ、…ああ。しかし無休無遅刻のお前が3日も休んでいただろう?インフルエンザにでも掛ったのかと思っていた。熱は本当に下がったのか…?」

「ただの風邪だった。大丈夫。ありがとう」

そう素直にそう言うと、海藤と呼ばれた生徒は「そうか」と目を細めて微笑んだ。
大人の貫録さえ感じさせる、温和な印象に、忍はよくも自分と接点が持てたと思っている。
誰も話しかけてこないような自分にさえ、わずかな変化を見逃さず話しかけてくれるのだ。

海藤はやはり人気がある。
彼はこの3年2組のリーダー的存在だ。
生徒会長という大業を果たし、歴代の中でも斬新な提案を通し、成功させたという意味では偉業を果たしたと言えるだろう。
彼はこれからあの有名な私立高校『月桂学園』への受験を控えている。
あそこの倍率が高いという事を知っているため、本来なら少しの時間さえ惜しんで勉強をしたいに違いない。

(月桂学園…『王様』の通ってる所や…)

嫌な事を思い出したとばかりに、忍は頭を振ってこめかみを掴んだ。
それを見て、海藤は心配そうに忍の顔色を窺う。

「おい。やっぱ帰った方が…」
「大丈夫だよ。…それよりもほら、みんな待ってるじゃないか、君の事」

廊下の方を見ると、生徒会の面々がこちらに視線を向けている。
恐らく何か用事があるのだろう。
海藤は「ああ…」と頷きながらもしぶしぶ彼らの待つ廊下へと歩いて行った。

海藤は生徒会を引退した現在でも、本人たっての願いで、生徒会の片端を担っている。
そのため、現・生徒会員に意見や感想、教えを乞いに男女関係なくこの教室までやってくるのだ。
しかし本当にただそれだけの目的か―――と言われれば、後輩である女子生徒の憧憬の眼差しを見ると、それも疑いようだ。

「せ、先輩…。私、先輩のためにお守り買ってきたんです。受験合格祈願のための、有名なお守りらしいんですけど…その…」

頬を赤に染めて、少し物静かな印象のあるその女子生徒は綺麗にラッピングされた包みを片手に、おろおろと手をさまよわせていた。
受け取ってくれないことはないだろうが、渡せない。
そんな女子生徒の初心な恋心が目に見えるようだ。
そんな後輩の姿を見て、海藤は人の良さそうな穏やかな笑みをこぼした。
少し照れくさそうに、それでもその心に応えるように―――

「ありがとう。…嬉しいよ」

そう言って、受け取るのである。
それを見た周りは、海藤の歪みのない笑みに魅入られて和やかな雰囲気になっていた。

「先輩!俺達全員、海藤先輩の事応援してますから!」
「生徒会の仕事ももう覚えてきましたし、大丈夫です!…あ、でも時々聞きに来たりすることもあると思いますが」

「―――構わない。俺もみんなと話していると息抜きになって楽しいよ。なんせ勉強漬けの毎日だからな。遠慮なく来てくれ」

そんな事を海藤は言って、力強く頷くのだ。
これをカッコいいと言わずしてなんという。

(さすが稀代なる『海藤 慶介』<カイドウ ケイスケ>やな…。言う事がえらい違いますわ)

頬杖をつきながら、珍しく本を取り出すことなく忍はため息を零して考え事を始める。

「…」

朝からいない隣席を見た。
そこは、『香取 空』の席である。
忍と【pandra】の領土で出会ってしまってから、数えてもう3日間無断欠席をしているらしい。
そればかりか今行方不明らしく、親御さんも相当心配しているらしいと誰かが噂していた。

「やっぱり空<ソラ>さん可愛いから、誰かに誘拐されたんじゃないの?」
「でも空<ソラ>さんってさぁ、実は結構遊び人だって聞いたことあるんだけど…」
「あ、私もその噂知ってる知ってる」
「え〜?あの人が…?―――じゃぁ男遊びしてるって事?」
「嫌だ〜」

そうひそひそと、それはだんだん悪口へと変わっていく女子の話。

…これだから女子はよく分からない。

彼女たちはよく『空』<ソラ>といるのだが、彼女がいなくなった途端の、まるで手の内を返したような軽口。
忍は次の数学の授業に備えて教科書を取り出しながらため息をついた。

自分のせいだなんて言わない。

言った事も後悔してない。

…ただ少し、心配ではある。

チャイムが鳴り、次の授業の合図となった。
何度めの溜息か―――いつもと少し様子の違う忍を、海藤は話の輪の中にいながら、それを横眼で見ていた。

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