忍少年と碧血丹心 059


◇ ◇ ◇

忍がその男を意識したのは桜が舞う季節だった。

手入れの施された日本庭園―――その主要となっている老齢の桜の樹木は、通年通り見事な桜の花を咲かせていた。
淡々と最後の見せ場とばかりに潔く散りゆく花弁…その儚さを美しいと思いながら、魅せられるように見つめていた事を良く覚えている。

『はぁ…っん…っ!!』

背後から聞こえてくるのは艶やかな女の喘ぎ声。
障子越しの座敷ではきっと『彼』が遊戯のようにそれを楽しんでいる事だろう。
男女のねっとりと濃い男女の営みを耳に入れながら、昼間の穏やかさの中―――長廊下の縁の方で彼が出てくるのを正座のままで待っていた。
畳でもない、ましてや座布団がある訳でもない。
少しひんやりとする廊下の床に長時間も座っているとさすがに足も痛くなる。
それでも彼の言いつけを守って、耐え忍ぶような仕草も見せる事無くじっとそこに居座っていた。

例え、その行為がもう何時間にも及んでいる理由が、こうやって自分を待たせて虐め遊ぶ事に、彼が快感さえ覚えていると知っていても、だ。

もしもその言いつけを守らなければどうなるかなど―――それは想像するだけ容易い事である。
暴力的な『彼』が激昂する度に、体のあちらこちらには青痣や浅い切り傷が隠れた場所に出来ていくのだから、溜め息の一つもつきたくなった。

そんな時だ。
目の前に大きな影が覆った。
見あげれば、そこには男が庭に立ち、自分を見下ろしていた。
黒の眼帯が印象的で、纏う黒の着物も蒼の袴も、ただ肩に引っ掛けただけの茶色の羽織さえも、彼の威圧感に拍車を駆けている。
たった一つしかないはずの目も、凝視されるだけで嫌な冷や汗が浮かび上がるほど冷めたものだ。
一体何の用があって誰も構いもしない自分の目の前に立つのかと、首さえ傾げた。

『そこに【奴】はいるのか』
『―――なんの御用でしょう』

『…いるんだな』

ふいにその男は緩慢に笑みを浮かべた。
それはとても不吉で、嫌な感じがして、何か事が起きる前にと立ち上がろうとした瞬間だ。
伸びた手に殴られると思い、その圧力に負けて目を瞑った。
しかしいつまで経っても何の変化が無い事に恐る恐る目を開いた時、男は花弁を摘んでいた。

察するに、いつの間にかついていた花弁を取ってくれたのだろうか―――?

その男からは想像も出来ない奇妙な行動と、滅多に無い他人との接触に戸惑っていると、男は自分の羽織を脱ぎ、自分に寄越してきた。
まるで風邪を引かないようにと気を使うかのように、その大きな羽織をすっかり冷え切った体にかけてくれたのだ。
背中に掛かったそれを意識し、ただ呆然と男を見上げる事しか出来なかった。

―――しかしそれが彼の優しさでもなんでもないと分かったのはその後だ。

背後の部屋で営みを楽しんでいるであろう『彼』が人気を感じたのか―――激昂さえ露に、障子を叩きつけるように開けて出てきた。
着物をみだらに引っ掛けた彼の突然の登場に、思わず向き直って平伏する。
自分と目の前の男―――それを殺気さえ篭った目で凝視したかと思うと、突然と『彼』は癇癪を起こした。
自分を強引に顔を上げさせると、頬を思いっきり引っ叩かれる。
痛みと衝撃に床へ再び倒れたが、それでも怒りが収まらなかったらしい。
しばらくの間、その足に蹴られ、その手で殴られ、そして『彼』が肩で息をつく頃にようやくそれは止まった。

一体何が『彼』を怒らせたのだろう。

原因が肩に引っ掛けた羽織だと分かったのは、剥き取るようにそれが奪われ、庭に放り投げられた時だった。

『汚いっ!!ああ、汚らわしい!!お前…!!一体誰の許可を得て人の物に触れたっ!!【これ】は俺の物っ!!俺だけの物だっ!!俺以外が触れていいもんじゃないっ!―――出てけ!!今すぐに!!そして二度と【これ】に近づいてくれるな!!』

それは自分に向けられた言葉ではない。
余裕さえ窺える笑みを涼しげに浮かべ、羽織をくれた男は愉快そうに笑っていた。
くつくつと、それも心底おかしいとでも言うように、ついには声を上げて大笑いをしていたのだ。

見る見るうちに『彼』の機嫌が悪くなる。
まさに今―――その怒りが噴火する直前に、その男は何も言う事無く背を向けて行ってしまった。

なんという事を。

『彼』の底辺にまで落ちた機嫌を直すのを誰の仕事だと思っているのだ。
その怒りの矛先が一体誰に向くかなど―――そんな事は分かりきっている。

結局あれは気遣いだったのか。

それとも自分に依存する『彼』を挑発するために利用されただけなのか。

結論的には後者。

しかし、目を閉じていた際に感じた、あの労わるように頭に触れた重みが、妙に胸に突っかかっていた事も事実だった。
それからもその男は―――『薩摩 一雄』は顔を合わせる度、『彼』の機嫌を底辺まで落として、自分を困らせて去って行く。

そんな男に無関心を装える訳が無い。



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