忍少年と碧血丹心 057

彼は母親の腹を食い破って生まれてきた『鬼の子』と呼ばれ、極道に染まった一族からさえも恐れられていた。
―――事実、忍にとってもその男を見るだけで、慣れる事の無い背筋が凍るような思いを毎回体験している。
それが崇拝しながらも恐怖を拭えない―――つまりは畏怖する事なのだと、骨の髄にまで染み込んでしまうようなオーラがその男にはあった。
特に片目を覆い隠す黒の眼帯が海賊さながらの恐ろしさに拍車をかけ、切れ長の漆黒の瞳は睥睨されているような錯覚さえ芽生える。
普段は後ろに撫でている漆黒の髪も、湿気にやられて湿っているようだ。
滴る水に冴える男とはまさにこの事だろう―――それぐらい目の前の男は精悍な顔つきをしていた。
しかしそれだけの色男も、纏わりつく威圧感の前では霞んで消えて、顔を赤くするどころか真っ青にしてしまう。
体格も大男とは違うが、がっしりと鍛え上げられた印象が、灰色の着物からも伺えた。
盃を片手に肩膝を立てて酒を煽る姿は極道者の頂点に立つに相応しい、そんな圧迫感がぴりぴりと肌を刺すようである。

まさしく全国規模の暴力団『薩摩組』の跡を継いだ若き組長の名に相応しい男だった。

普段は仕立ての良いダークスーツを身に纏い、知性的な男を演出するが、和服を着崩した目の前の男に、今やそんな印象の一欠けらも見当たらない。
彼の敬語でさえ、違和感を覚えるほどだ。
忍は誰もが恐れ、口にする事さえ躊躇るその男の名を知っていた。

―――『薩摩 一雄』<サツマ カズオ>

今は亡き6代目会長の嫡男で、彼が立ち上げた会社は今や、マスコミにも取り上げられるほどの実績を残している。
確か現在はもう海外事業へ進出しているとか―――
表舞台でさえ成功を収めたその男だが、その本性を見誤ってはいけない。

何故『鬼』と呼ばれ続けるのか―――その内幕を語るのは、禁忌を犯すに等しいとばかりに、誰も口にする事はなかった。

―――それはまるで『鬼神』の祟りを恐れるかのように…


「こちらへ来なさい」

丁度障子を開けた真正面に、忍を呼んだ張本人―――薩摩が足を崩して座っていて、女を一人抱えて酒を楽しんでいた。
しかも仄かに独特な雄と雌の臭いが、事情後だという事を物語っている。

人がこれほど大変な目に合っていたというのに、この目の前にいる男は悠長に女と戯れていたという訳か…。
忍に眉に影が出来るほどの皺が寄った。

「―――こんな夜更けに、しかも強引に俺を呼び出しておきながら、天下も恐れる薩摩さんはべっぴんさんと夜のお楽しみですか…」
「あなたが私を退屈させるもんですから、時間を有効に使ったまでですよ。子供の目には少し刺激的過ぎましたか」

「用件はなんでしょう?―――済んだら俺は帰らせてもらいます」
「―――やれやれ。短気な御前殿は、久しぶりの再会を喜ぶ間も与えてくれないという訳ですか。―――その鼻っぱしの強さは折られて尚、今だご健在という訳ですね。それとも最初から折れていなかったと?だとすれば随分頑丈な事で、関心してしまいますよ…」

「からかうために俺を呼んだ訳ではないはずです。―――どうぞご用件を…」

女を含めて、二人の険悪ながら一歩も引かないようなやり取りを周りは黙って見ていた。
膝が笑うほどの威圧感があるというのに、忍は依然と態度を崩さない。
むしろ多くの極道の口を権力で潰してきた男に、喧嘩腰で憤然としている。
周りこそが、まるで己の事のように萎縮しきっているのだと、果たしてこの少年は分かっているのだろうか。

「薩摩さん、私はそろそろお暇させていただくわね…?」

最初に我に返り、この状況をいち早くものにしたのは薩摩にぴったりと寄り添っていた女だった。
結わっていた髪の解れを直しながら、少し乱れた朱色の着物を直しながら立ち上がる。
涼子と呼ばれた女は朝露に濡れたような長髪の黒が似合あう、まさしく大和撫子に相応しい妖艶さを含んだ、魅力を持っていた。
腫れぼったい赤い唇には自信さえ窺える薄い微笑が浮かび、口角辺りにある黒子もまた、彼女の艶に磨きをかけているようである。

ただし、油断をすれば喰われてしまう―――そんな危険な色さえ含んでいる彼女は、『鬼』と呼ばれる男の隣にいても平然としていられるようだ。

「そうしてもらえますか。―――おい、涼子を自宅まで送ってやれ」
「はい」

男の口調はがらりと一変し、理性的な口調は突然と野蛮な猛獣の唸りのように変化した。
まさしく電話の相手であるとこの時になって初めて分かる事である。
腰が引けてしまうような空気が漂う中、頭を下げたのは、最初こそ顔を蒼白にさせていた龍郎だった。
忍に対しての軽い口調も行動の一切もない。
まるで俳優さながらの切り替えで、改めて龍郎が薩摩組の一員だと思わせるような重々しさを含んでいた。

「薩摩さん、またお店にお越し下さいね。私でよろしければ、またお相手させていただきたいわ」
「ええ…楽しみにしていますよ」

最後に、まるで恋人がするように、軽く薩摩の唇に己ので啄ばんで、涼子は別れの挨拶をした。
ゆっくりと立ち上がり、歩く仕草。
その一つ一つが男を誘う『香り』を放ちながら、涼子は忍の方へ―――正確には入り口へ向かってくる。
忍とすれ違う際、彼女はまるで優越感さえ含んだ笑みを浮かべて忍に挑発的な目で一目してきた。

その視線の種類を知っている。

恐らくその女は、涼子は忍が薩摩の愛人だと勘違いし、恋敵として己の優遇さを示そうとしたのだろう。
そして、忍と薩摩の関係を想像して―――それを楽しんでもいるようだ。
品定めでもするような熱烈な視線を、障害にもならないとばかりに無視して、忍は振り返った。

「―――龍郎さん」

突然と忍に名前を呼ばれ、ぴくりと背を向けた龍郎が立ち止まる。

振り返らない彼は、もはや忍の知る龍郎の態度とはかけ離れていた。
もしも出会ったあの場所の彼ならば、やはり親しい者にでも接するような陽気さで振り返ってくれただろうに。
場が場であるためか、区切りをつけたような龍郎の冷めた態度にも忍は笑みを浮かべて言う事が出来た。

「―――約束、守ってくださいね」
「…」

どこか戸惑うように龍郎の背中が揺れた。
振り向こうかどうしようか、それを迷っているようだったが、ついには振り返る事無く無言のまま、不思議な顔をする涼子を誘うように歩き出す。

そんな忍の、この場に似合わない穏やかな笑みを見て、薩摩が片方の柳眉怪訝に持ち上げた事など、忍はついぞ知らなかった。


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