忍少年と碧血丹心 042
「ご足労お掛けしましたが、どうぞお帰り下さって構いませんよ。俺は俺で帰れますから。…―――なんせ俺にはあの2人がついてます」
「シノさん、本気ですか…?」
「本気も本気ですよ。最初からそのつもりです」
きっぱりとそう断りをいれてから、肩膝をついて痛みに呻く金髪の男・タツの元へ、忍は踵を返して歩き出す。
茶髪の男とすれ違う際、忍は真っ直ぐと彼を見上げて、一つ頼みごとをした。
「申し訳ないんですが、どこかで氷もらって来る事とか出来ませんか…?あの人の頬、きっと腫れるから…」
「えっ?えっ?」
「お願いします。冷たい水でもいいんです」
呆けていた茶髪のピアス男だったが、忍にそう頼まれてようやく我に返ったように肩を跳ね上げた。
「そ、それじゃぁ、コンビニかなんかで買ってくるよっ」
「すみません。ではお願いします」
オロオロとした様子を見せていたが、まるでこの場にいるとさえもう耐え切れないとばかりに踵を返して表通りに向かう。
その際、茶髪ピアスの男とタツはすれ違ったのだが、2人の間に会話はなく…。
―――なんだかややこしい事態になった…
そんな風に目線で語り合っていたとも知れず、忍はタツの前で腰を落とした。
「嫌な音がしましたけど…どうやら、骨は折れていないようですね―――あなた頑丈で良かった…せっかくの男前の顔が歪んでいたら可哀想ですから」
「…っ」
身長の違う二人の目線が初めて出会い、しばしタツがその緋色の瞳の美しさに見入る。
これを人工のカラーコンタクトだと思っているタツからしてみれば、これほど艶やかな色彩を持つ瞳があるのかと驚くばかり。
「痛みますか…?」
「イテェ…」
「ですよね」
吐息が掛かるまで近づく忍に、タツは無意識の内に呼吸を止めていた。
忍の睫がまるで女がマスカラをつけたように長い事、血が流れているとは思えないほど白く、肌理細かである事…目の前いるのが男である事を忘れそうだ。
女に似た艶を、しかし女とは違う色気を含んでいる忍は、終始無言でタツの顔を見渡したが、鼻あたりを注目すると痛そうに顔を顰めた。
腫れているのであろう頬に、忍の指先が繊細なモノを扱うように触れる。
「これは酷い…。熱も持っていますし、今以上に腫れそうですね」
「…」
「何か…何か拭くモノは…。って―――ああ、そうだ…。羽織に入れてあるんだった…」
自分の体を一度は弄っていた忍は思い出したようにぴたりと停止してから顔を苦渋に歪める。
それから一度、諦めたように溜め息をついた。
それは湯気のように白くなって、寒空へ消えていく。
「あなた、ハンカチとか持ってませんか…?生憎先ほど羽織を置いて来てしまったので俺は持ってないんですよ…」
「いやっ。大丈夫だって…っ。これぐらいいつもの事で―――」
そう言って自分の手の甲で鼻辺りを拭い去れば、眩暈さえ起こす血がびっしりと肌色を赤く染め上げていた。
せっかく汚れていなかった手が血で汚れてしまったのを互いに見て、一瞬沈黙が生まれた。
「うわー…」
「…」
それを見て、ここまで酷かったのかと目を剥く相手に、忍は再び溜め息。
ほとほと困り果てている所へ、目の前に何かが差し出される。
「え?」
目を瞬かせて、その持ち主を探るように、腕を辿っていけば、どこか気に入らないとばかりに憮然と顔を歪ませている『クロガネ』がそれを差し出していたのだ。
それは紛れもない、夜の闇でも分かる、白いハンカチだった。
「どうぞ…」
「いいんですか?」
一度こそ殺気立つ眼でタツを一睨みしたが、忍と目を合わせるなり、どこか罰が悪そうに首を擡げた。
被害者である金髪の男―――タツはむろん最初から敵意丸出しで、『クロガネ』を睨んでいたが…。
忍は随分と『クロガネ』が律儀である人なんだと意外性を感じると共に、殴った相手にハンカチを貸すなど、とんだ皮肉だと、うっすらと笑みを零す。
けれどその皮肉を承知で、彼は躊躇う事無くそれを差し出しているのだろう。
「汚れますよ…?もしかしたらお返し出来ないかも」
「…構いません。こんな奴に使うのは癪ですが、シノさんのお役に立てるなら…。それに―――」
もう二度とこれは使いませんし…
むっと、敏感にその言葉を聞き取って、タツの柳眉は跳ね上がる。
忍はおずおずと差し出すそれを受け取ってから、彼を見上げて愉快そうに笑んだ。
「―――助かるわぁ…」
「…念を押しますが、シノさんのためですから」
最後まで納得出来ない『クロガネ』を宥めつつ、しかしそのハンカチをタツの顔に近づけるなり今度は別の問題に直面する。
「そいつのものなんざ触れたくもねぇ」
忍に対する軽い態度などではなく、最初から本性を剥きだしにしたタツが顔を背けてそれを拒否。
こっちこそ願い下げだとばかりに『クロガネ』は冷ややかなにタツを見下ろしていた。
それを更にタツが喧嘩を売るように睥睨するのだから、まったく状況に埒があかない。
―――帰りたい
かぐや姫でもここまで切に帰宅を願ってなかっただろう。
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