【※ホラー注意】帰り道

 日常の中に、ふとした恐怖はあるものだ。仕事の帰り道、千芳はスマートフォンを触る。猿投山より先に帰ったのだ。「お前、疲れてるんだから」「さっさと帰って寝ろ」「あとのことは俺がしておくから気にすんな」と、半ば追い出されたものだった。ピシャッと扉を閉められた日には、どうしようもない。ノックをしようとしたが、猿投山がわざわざ顔を出して「帰って寝ろ」という可能性もある。表から入ろうとしても、同じように追い出されるだろう。(どうして最近、こうも疲れるのか)春というのに気候も穏やかではなく、過ごしやすいと思ったら春先を報せる冬のように寒くなる。閲覧しているSNSにも『寒い』『ひさびさにコタツ出した!』などの呟きが並んでいる。疲れているから、帰路の些細な変化にも気付かない。あるはずのない道祖神にヒビが入った。肌寒さが強くなる。
(あれ?)
 回線が繋がらなくなる。スマートフォンを上に翳し、何度も振ってみるが直らない。前を向いたまま後ろに下がる。減ったアンテナの数が戻ることはない。
(繋がりにくいところに入ったのかな)
 たまたま、たまたまだ。たまたまそういうこともある。千芳は『偶然』の産物だとして、この異変を処理した。ギリギリ繋がる回線の中、千芳は今の呟きを投稿する。『なんか、繋がりにくい』その呟きに返信も反応もない。タイムラインの一部を共有する相互は、普段と変わらない呟きと捉えた。帰り道を進む。道路と塀の隙間から生えた植物が生息域を広げ、電柱にも蔦を伸ばした。塀の向こうにある家からは生活臭がしてこない。無人の荒れ果てた雰囲気で、荒れ放題の庭から屋内への侵入を受けていた。千芳は気付かない。疲れが注意散漫の状態へ落としていた。鳥肌が立つ寒さに、上着を掻き寄せる。(寒い)こんなに気温が低くなっただろうか? こんなことなら冬物にしておけばよかった、と後悔する。いよいよ、アンテナが一本だけになった。SNSの繋がりも悪くなる。(おかしい)(通信制限がかかった?)スマートフォンを左右に振ったり上空へ掲げる。あらゆる角度から確認しても、スマートフォンに異常はない。空が赤黒く変化していたが、それは夕焼けのせいだと誤認した。
 黄昏を過ぎた時間帯を往く。疲れているから、後ろから近付く影にも気付かない。それはのっぺりとした肌をしていて、腕や背中にギョロギョロの目玉を生やしていた。顔以外から生えた目玉が周囲を警戒するように回り続ける。千芳の背丈より遥かに高い。体幅も広く、千芳一人なら飲み込めそうだった。
 スマートフォンのアンテナが二つに回復する。タイムラインの読み込みが終わるよりも早く、電話がかかった。発信者は登録した名前にある通りである。表示にバグは起きていない。疲れた千芳は、そのまま電話に出る。
「はい」
『あっ、千芳か? もう家に着いたか?』
「うーん」
 グルリと辺りを見回す。どこか可笑しい。しかし疲れている千芳には、現在地を把握するための情報でしかなかった。
「まだっぽい」
『まだっぽい、ってなんだよ。道草でも食ってんのか?』
「かも。帰りを歩いていたはずなんだけどな。どこかで寄り道しちゃったのかも」
 そう話しながら、近くの脇道を覗き込む。暗い。まるで暗闇が落ちたようだ。道の奥が見えない。パカッと開いた口が首をもたげたところで止まる。千芳は背伸びをしたり、斜め前へ跳ねるように歩いた。動きに緩急を付けたのである。それでも頭の靄は晴れない。
「早く帰りたいのに」
『俺もそうじゃなきゃ困るぜ。なんのために早く帰らせたかわからねぇ』
「働かせるため?」
『疲れてるから休めって話だよ。息抜きにもならねぇなら困る』
「運動にはなるんですけどね」
『帰ってからでもできるだろ?』
「帰ったら、家事して寝るだけですよ」
『手伝うから。休めって』
「なにか、増やした方がいいかな」
『帰ってからでもできんだろ。いいから、早く帰れ』
「どうしてですか」
『俺が安心できねぇからだよ』
 電話越しに溜息を吐く。そうといわれたら、仕方がない。「なるべく」早く、と継ぐよりも先に雨が降る。一粒だけだ。親指で挟むと、粘っこい。
「帰りますね」
 バキンッと音が鳴る前に雨雲の下から出た。心持ち早足で急ぐ。後ろからカサカサと走る音が響いてきた。ゴキブリを彷彿させる音の速さである。ギュッとスマートフォンを握り締める。通話を切ったのかどうかはわからない。千芳は訳も分からず走り始めていた。左右や後ろを振り返ることもなく走る。いつまで走り続けたのか、ポツポツと灯りが増えてくる。少し見渡せば、電柱にある防犯灯だ。辺りが人の気配に満ちている。一軒家の玄関に灯りが付いており、マンションにも灯りがあったりなかったりする部屋がある。先のシンとした無人から解放されたことに、千芳はホッと一息を吐いた。額から流れる汗を拭う。全速力で走った息切れも整えた。軽いランニングの延長で、家まで走る。スマートフォンの画面を見れば、通話は終わっていた。ロック画面を解除し、マップのアプリを開く。GPSをオンにして現在地を確かめると、家まで近付いていた。ノロノロと歩く。自宅までのルートに従うと、見慣れた建物が見えてきた。いつもの反対側から眺める。マンションの入り口へ向かうと、ちょうど帰ってきた猿投山と鉢合わせた。
「あっ」
 と声がハモる。猿投山が信じられないような目で千芳を見た。
「おまっ、今帰ったのかよ!?」
「今?」
「とっくのとうに八時回ってるぞ!? どこかで道草を食ってたのか?」
「八時、もう?」
 告げられた時間に千芳が言葉を失う。猿投山こんにゃく本舗支店を出たのは、六時過ぎだ。七時を回ってはいない。夕食の買い出しというピークが過ぎ、あとは片付けるだけだからと猿投山に追い出された。あれからもう、二時間くらいは経っている。この時間差に千芳は我を失った。気絶しそうになる。頭を押さえて、小さく首を振った。
「疲れてるのかな」
「えっ。夢遊病かなにかか?」
「そんな単語を知ってるとは。そっちの方が驚きです」
「茶化してんじゃねぇぞ」
「ストレスかな。ストレスのせいで、なにか変かも」
「じゃねぇの? とにかく、家に入ろうぜ。今日一日の疲れも取らねぇとな」
「ストレスもどうにかしなきゃ」
「ハグやキスとかじゃ、どうにかできねぇのか?」
「できるかなぁ。その前に疲れて倒れるかも」
「じゃ、その前に息抜きとかが必要ってわけだな」
 さり気なく肩を抱こうとすると、千芳の肩が濡れていることに気付く。雨は降っていない。湿った手を見ると、涎のように粘っていた。
「なんだ、こりゃ」
「うわっ。すぐ入らないと」
 洗濯も必要である。気味悪く感じた猿投山と同等に、千芳も気味悪く感じた。


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