34-3

私と議員が数年前から研究していた法案の立法が、本格的に実現しそうな風が吹いてきたのが今年のことだった。
もともと研修生として秘書になったころから関わっていたその法案は、マスコミに取り上げられるような派手なものではないけれど、多くの国民生活に影響を与える重要な法案だ。

この法案の立法こそが夢だった私が、信念を共にする議員の真摯な姿勢にどんどん惹かれていくのは不可避で、私の夢は彼の夢でもあったし、彼の夢が私の夢にもなったのだった。

同じく国会議員である彼の奥様が、この法案に対して激しく否定的な立場であることは分かっていた。だけど政治家同士そんなことはよくある話で、お互い議場に立てば戦って、家庭に戻れば夫婦でいる。そんなのは当たり前だ。

奥様から、今回のこの仕事を依頼されるまでは、確かにそう思っていた。

…私が奥様から依頼されたのは、議員からの任務はそのままに、無事に写真を回収したあと、それを議員のところに持ち帰らずに奥様の手に渡すこと。

その写真を奥様がどう使うかは容易に想像がついた。
選挙前に彼のそんな写真が出回れば、彼は選挙で落選するのは目に見えている。あの法案の立法を引っ張っていっている彼がいなくなれば、法案は煙のように立ち消えるだろう。
結局、必要とする人がいるかどうかではなくて、作る人がいるかどうかでこの世界は動いていくのだから。

…そこまで、彼を。というのが最初にそれを聞いた時の正直な感想だ。
2人がほぼ仮面夫婦になっているのには気づいていたけれど、せめてお互いの政治家人生を壊さないくらいの距離は保っているかと思っていたのだから。

彼が落選したとしても…さらに、その影響で自分の地位が危うくなったとしたって、彼のこの写真を世に出したいのだ。



「…若山さんとしては、お金が入れば写真が誰の手に渡ったっていいでしょう」
「…まあな」

私のこの話を静かに聞いていた若山さんは、静かに紫煙を吐き出して、そっと煙草の灰を灰皿に落とした。

「だけど疑問だな。お前がそんなにその法案が日の目を見るのを夢見ているなら、どうして反対派の女房のスパイなんかになったんだ?」
「……」

グラスを持ち上げて、お代わりを合図する私の腕をそっと押さえた若山さんは、「…もうやめておけ」と私を止める。

「…深酒したって何もいいことはねえよ。お嬢ちゃん」
「…そうですね」



どうして、奥様のスパイになったのか。どうしてなのか。自分でも分からない。
だけど、あの日私を呼び出して、写真の回収を頼んだ奥様は私にこう言ったのだ。

(…あなただって、彼のことが大事でしょう。そろそろ痛い目を見せて悪戯はやめさせないとね)

そう言って、呆れたように笑う奥様の視線は、私の彼への想いを確実に知っている目線で、そんな視線に射抜かれた私は、悔しさと、彼への想いと、哀しさとむなしさと、すべて綯交ぜになったどうしようもない気持ちで首を縦に振ったのだ。
「あなただって」って、あなたこそ彼のことなんてこれっぽっちも心配していないくせに。



「…私は彼の信念についていっていたんです。彼についていったんじゃありません」
「だから、だったらどうして」
「どうしたって、回収できる写真は一つです。それが、誰の指示であれ私の手に渡りさえすればよかったんです…」

クルリと身体を回転させて、若山さんのほうを見る私の瞳は……きっと潤んでいる。
さっきまでただの取引相手で、一触即発状態だったヤクザの親分に、どうしようもない泣き顔を見せるなんて、バカみたいで恥ずかしくて、思わず伏せた顔は、若山さんの手によって持ち上げられてしまった。

ごつごつした指が私の顔に伸びてきて、そっと涙を拭ってくれるそのヤクザらしからぬ行動に、さらに涙は溢れてきて。

「馬鹿野郎…お前写真が女房の手に渡る前に握りつぶす気だったな?」
「……」
「とんだ2重スパイだよ。たいした女だ」
「握りつぶすとは言ってません…でも、奥様より先に彼に写真を渡して、現実を見せてあげるつもりでした。…奥様の動きも」
「そんなに2重3重に自分を騙して、どうにかなっちまうぞ、お前」
「そうですね…」

確かにどうにかなりそうです。と心の中の声をかろうじて飲み込んで、そっと自分でも目尻の涙を掬い取った。

(たった一度の火遊びで騙されて、美人局にあってしまったんだ)という彼の言葉を信じて、奥様のスパイになったふりまでして、ここに来て見つけたのは、とても一度の火遊びとは思えない証拠写真。
君の気持ちは嬉しいけど、妻を裏切れないからな、と爽やかな笑顔で私を突き放したあの言葉は、いったいなんだったの?

ついにポタリとカウンターに落ちた涙を静かに見つめていた若山さんが、私の肩に手を置いて、口を開いた。

「…お前みたいなお嬢ちゃんに興味はないし、絆されたわけでもないが、こんなところに一人で乗り込んでくるくらいの強気な女に敬意を表して、イイことを教えてやるよ。いや、悪いことかもしれねえが、知っておいたほうが良いことだ」
「…なんですか」

若山さんが、目線を遣ってから、クイっと指で合図して部下を呼びつけると、すかさず後ろの部下がもう一つの封筒を差し出した。
それは、私がさっき受け取った封筒と同じサイズだけれど、それよりも少しだけ厚くて、ずっしり重たそうだ。

「…お前には同情するよ。でもこれが真実だ。お前のボスの愛人は一人じゃねえぞ」
「…えっ…?」
「やっぱりお嬢ちゃんはお堅いね。俺たちはヤクザだぞ。揺すりをするってのに、証拠を全部渡して終わりなわけがないだろう。二の矢・三の矢は、用意してあったんだ」

少しだけ、気まずそうな若山さんが私に手渡してきたものが何なのかは、見なくたって分かった。それでも、放心状態で次々とめくっていくその写真の中には、女、女、女…どれも違う人物だ。

「…バカみたい…こんな…」
「なんだってこんな男好きになっちまったんだよ。バカ野郎だな…本当に」

完全に、自分の力では止まらない涙は、どんどん流れていって、ツンとする鼻の奥が痺れるように痛む。私は誰を信用して、これからこの証拠たちを誰に託せばいいのか…もう頭が真っ白だった。
これでも彼を信じてついていって、法案を作るのか、こんな馬鹿な男は裏切って、奥様に写真を渡して法案は諦めるのか…。

「もう…誰を信用すればいいのか…私…」

顔を伏せて、身体を震わせて静かに涙を流す私の様子に、同情しているのか引いているのか、ショットバーの中はシーンと静まり返っている。黒服を着たヤクザの手下の人まで顔を伏せて気まずそうにしているのがたまらなくおかしくて、まったく自分がピエロになった気分だった。

カラン…と音を立てて溶けたグラスの氷がそのはずみでクルリと一回転したのを、若山さんの指が止めて、再び開いたその口から出た言葉は、さらに私を追撃するものだった。

「なあ、二の矢だけじゃなく、三の矢があるって言っただろう」
「…へ…」
「…そんなに泣くな。イイ女が台無しだ。お前が気に入ったからイイものをやるよ」

ポイっと今度は封筒ナシで裸のまま渡されたのは、これまた一枚の写真だった。
今度はどんな写真なのか、震える手で受け取って、クルリとひっくり返してその内容をまじまじと見て、仰天してしまった。

「……こ、れ…」
「驚いたか?ま、夫婦なんてこんなもんだ」

…その写真は、議員の奥様とその秘書の、ホテルでの写真だった。それも、場末の安っぽいラブホテルでの。
腕を組んで楽しそうに笑う奥様の隣には、一回りも年下の秘書の姿。

(そういうことだったわけね…)と冷静になってくる私の頭はすぐに回転を始めて、この状況を分析しはじめる。泣いても笑っても、私も一丁前の政治家の卵というわけだ。

そう。議員が女性問題で職を失えば、その地盤は妻の自分がそっくりそのまま引き継いで、ついでに政策も自分色に塗りなおしだ。当然、あの法案は消え去るだろう。
落選した議員なんて、潰しがきかないというのは世の理だ。夫は失墜。でも離婚はせずに、飼い殺し。
そのうえ自分は秘書とお楽しみというわけで、やっぱり奥様のほうが数枚も上手だったのだ。

…ここまで出そろったイイ素材を前に、それでも私は途方にくれていた。
退路なんてとっくにない。これからこの写真を持って帰って進む先は、夫と妻、どっちを選んでも茨の道なのだ。

「…こんなもの、今もらってもどうしようもありません…。お返しします。私にはもう扱いきれないというか…もう…」
「何だよ。形無しだな。まあいい。お前にこの人妻の不倫写真を使えとは言わないさ」
「…どういうことですか」
「どっちにつこうか考えている時点で甘いんだよ。お前は自分でやるべきことがあるんじゃないか?」
「…え…」

写真をピンと弾いてカウンターに滑らせた若山さんは、ニヤリと笑って、最初の封筒を私の顔の前に見せつける。

「お前が持って帰って使うのは、旦那のこのゲス写真だ。そして、それは女房のほうに渡してやれ」
「…奥様に…?どういうことですか?」
「…まあまあ。そのヒントは俺の依頼人だ。俺の依頼人もお前と変わらんくらいコウモリ野郎でな。誰が依頼人か知りたいか?」

クイクイと指で近づくように誘導されるがままに若山さんの口元に耳を近づけると、「×××」と聞こえたその名前は……ある大物議員の名前だった。
思わず、「嘘でしょ!?」と声が出る私を、バーにいる全員がクスリと笑ったようで、頬が熱くなるのを感じて、ゴホンと咳払いして顔を上げる。

「……彼がヤクザと繋がっていたことにはびっくりです…が、この依頼には納得です…彼はうちの議員の対抗馬として有名ですから…」
「だろう?」
「…この地区は各地を我が党が押さえるために重要な土地です…。うちの議員の失脚は願ったりかなったりということですね…」
「その通りだ。そこでだな」

まるで博士みたいに人差し指を立てた若山さんは、ニッコリ笑って私のほうに向きなおった。

「中期戦だな。まずはお前のボスの失脚が先だ。女房に写真を渡して、思い通りのことをさせて、旦那を脱落させる」
「…でもそれじゃ結局奥様が…」
「…その奥様の破廉恥写真は、俺の依頼人に渡しておこう。しかるべき時に使ってくれるようにな」
「…それって」
「それは、その破廉恥奥様が旦那の票も背負って立候補を表明したときくらいのタイミングでいいんじゃねえのか?」

眉をひそめて腕組みをした私は、すっかりいつもの自分に戻っているようで、なんだか強気な気分になってきてしまっていた。

「…じゃああなたの依頼人がすべていいところを総取りってわけですか」
「そうとも言うが、お前のためでもあるんだがな」
「…全くわけがわかりません」
「言っただろう。俺の依頼人はコウモリ野郎だって。」
「…つまり」
「つまり、当選できるならなんだってやる男だ。今回の選挙では、このままいけば破廉恥奥様と俺の依頼人の2人が有力候補になるだろう。後は泡沫候補だ。で、さらにだな。俺の依頼人の、お前がご執心の法案へのスタンスは中立だ。当選を確実に導く美味しい写真を手に入れるためなら、ちょうど真ん中よりにいるヤツが、少しだけそのポジションを右に変えるのなんて、容易いことだろう」

あんぐりと口が開いたままふさがらない私は、呆れたように若山さんを見やって、なんとか言葉を絞り出す。

「…写真をネタに法案の賛成派になってもらうってことですか?」
「そのとおりだ」

…確かにまあ、悪くない話だ。それならば私がいなくなっても法案は生き残る。その意思だけは残るなんて、ちょっとセンチメンタルでいい話じゃない。別に、私がいなくたって…。

「自分は身を引くとは言わせねえぞ?お前は俺の依頼人の秘書に鞍替えしろ。そうすれば今の仕事も続けられるだろう」
「…えっ!?秘書が対抗馬に鞍替えなんて…そんなの…」
「やるって決めたら最後までやり通せよ。自分がどこにいたとしてもな」
「…それ…は…」

そうだけど。でも、でも。
こんなになったって、最後まで彼を裏切れない…と、私の中の声が叫ぶのを、また別の私が抑えこんで…。
あの人の笑顔が、深夜までやった勉強会が、演説が、頑張りなさいって言って渡された万年筆が……最後に会ったときの彼の疲れた顔が、写真の中のにやけた顔が…全部全部頭の中で回って、こんなにも、吹っ切れない自分がバカみたいで悔しくて、じわっと熱くなる瞼を顔を伏せてごまかして。

グスッと、情けなくすすった鼻の音でそんな私に気づいている若山さんは、しばらく黙ってから、なんとも明るい声でこう切り出してきた。

「なあ、頭の中で話し合っても埒が明かないだろう?なら、いっそ博打に賭けてみるか?」
「…へ?」
「面白いだろう?丁か半か。どうせ当たるか当たらないかなんて運次第だ。ボスと一緒に沈没するか、新天地で力を発揮するか、こんなに簡単な問題に答えられないお前のためのほんのお遊びさ」

おい、と三たび部下を呼びつけた若山さんが手のひらに乗せたのは、小さなサイコロが2つだ。

「えっ?!…本当に?!本当ですか?!」

ま、待って、ほんとに!?私の人生、こんな大博打を打って決めていいの!?
いきなり早鐘のように打ち始めた心臓が震えて、怖くてたまらないのに、半分は好奇心でわくわくしている自分もいるのが分かって、思わず苦笑いが飛び出てしまう。

…お堅い私の人生、たまにはこんなことがあったって、いいんじゃないの…?

「…そこのマスター、別にこんなの素人だってできるだろう。『壺振り』お願いしていいかい?」
「……ええ、私がやるんですか?」
「……なあに、マスターになら簡単だろう…」
「はあ…」

棚に置いてあったカクテル用のシェイカーを即席の振り壺にしたマスターは、コロコロ転がるサイコロをアワアワ扱いながら、なんとか恰好をつけたようだ。

「よ…よござんすね」
「おい、マスター。真似事はいいから早くしな…いいか?お嬢ちゃん」
「…わ、分かりました」

一世一代の大博打だけど、イカサマでもない限り、確率は半分半分なんだから、心配しなくて大丈夫…。きっと、こんな遊びしたんだよね、って後で笑って思い出になるだけなのだから。そう、きっと…。

思い切りサイコロをシェイカーに放り投げたマスターが、すかさずそれをカウンターにひっくり返して、パタン!と押し付けたその瞬間に若山さんが声を張り上げる。

「さあ!張った張った。一発勝負だぜ?どうする?お嬢ちゃん。負けたら俺の元に来てもらうぜ?」
「……丁」
「丁だな!?じゃあ俺は『半』だ。さあ、勝負勝負!」

開けてみろ、と目配せでマスターに促す若山さんに、マスターがゆっくりと静かに頷いて、そのままスパンとシェイカーを引き抜く動きが素人離れしていて思わずびっくりしてしまった。

バーの中の全員の視線が一気に集まる、カウンターの上のサイコロは。

「イチロクの『半』…お嬢ちゃん、俺の勝ちのようだな」
「……へ…」
「…悪い思いはさせねえよ。きちんとした道に紹介してやるよ」
「…あ…うそ…ホントに…」


確かに一と六の目が出ている小さなサイコロを、放心状態で見つめる私の心は、なぜかとってもスッキリしているようで、思わずヘラヘラした笑いが浮かんでしまう。

このちっぽけなサイコロにしたがって、これから私は、彼も、奥様も、これまでの思い出も、しがらみもすべて捨てて対抗馬の秘書に鞍替えだ。

コウモリ野郎なんてあちこちで言われるだろう。でも、きっと何を言われても平気な気がしてしまう。だって、私にはどうしてもやりたいことがあって、それはきっと、こんなくだらない夫婦喧嘩と女好きの上司によって振り回されたりするものではなくなるのだから。

「お前みたいな娘がいたら楽しいだろうな。俺はお前を買ってるんだぜ?」とニヤリと笑って髭を撫でつける若山さんが、マスターとチラリと目を合わせると、何故かマスターも嬉しそうに微笑んで「確かにね。あなたみたいな娘がいたら楽しそうだ」と頬を緩めて褒めてくれるのでポリポリと頬を掻いて照れてしまった。

…いや、でもなんだろう、このちょっぴり甘い雰囲気は。

「…こんな偶然ってあるもんですかね」
「偶然じゃないかもな。運命ってモンだろ」
「はあ…」

未だにぼおっと立ち尽くす私の元に、再び満杯になったグラスが差し出されて、思わず受け取って顔を上げた先にはグラスを掲げる若山さんの姿があった。

「さて、これから後始末が大変だぜ。その前に乾杯だ」
「…そうですね。これからよろしくお願いします、親分」
「バカ野郎…」

カチンと音を立てて乾杯したグラスを一気に飲み干すと、本日何杯目かのシードルがすぐに効いてきて、すっかりいい気分の私は、さっきの振り壺に使ったシェイカーの間にキラリと光る何かがあるのも不思議に思わずに、すかさずマスターにお代わりを要求したのだった。




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