35

いつも通りの朝、名前の家のベッドで目が覚めると、なんだか布団の中が熱くて思わず眉間に皺を寄せてしまった。

今日は5月の初旬、ちょうど大型連休が終わって、再び始まる憂鬱な出勤の初日だ。
眠たい目で手に取ったスマートフォンのポップアップ通知が示す今日の気温は初夏並み。しかし、それ以上に異常に熱いのはベッドの中だ。

隣に目をやると、俺の背中に引っ付いて顔を埋めて眠る名前が目に入る。ウーン、と唸って身体を伸ばすその声はどこか弱弱しくて、眠そうにさらに身体を寄せてくるので思わず頬が緩んでしまう。

まあ、昨日も結局夜更かししちまったしな…と思い出すその記憶に少しだけ妙な気分になってしまい、振り返って名前の身体を引き寄せかけてから動きを止めた。

「なんか暑苦しいなお前…っていうか、お前やっぱちょっと太った?重いぞ…」

1週間前から、「なんかちょっと太ったかも」と言い始めた名前は近頃必死にダイエットをしていて、珍しく甘いものをセーブしていたりなんかする。代わりにキュウリだのトマトだのを間食代わりに食べているのだが、それすら頻繁に食べているので、「お前いくら野菜とはいえそんな食べていいのかよ…」と呆れ半分でお小言を言うこともたびたび。

太ったって言うが、別に俺が気づくくらいのレベルでもなく、まあ確かにベッドの上で確かめてみる範囲では、少しだけ掴むその丸い胸の感触が変化したような。それも、こっちにとってはなかなか悪くないもので、そんなに気にするほどのことではないのだが。

それでも、気にする名前をからかい半分、冗談でそんなことを言いながら名前をごろりと転がして起こしてやると、その頬が少しだけ赤く熱っぽいので眉をひそめてしまった。

「今日、会社休む…」
「…なんだよ、調子悪いのか?」
「…ん…」
「医者行くか?」
「…そこまでじゃない」

「何だよ、連休明けに早速5月病か?」と冗談ぽく言ってみるが、そんな冗談に反応を返せないくらいには調子が悪そうだ。
お互いにいい大人だから仕事に行くかどうかなんて本人次第だ。きっと名前がここまで言うからには本当に調子が悪いのだろう、と心の中で納得して、自分だけサッサと身体を起こして伸びをした。

「なんだ、マジで調子悪いのか?俺は出勤するけど、一応自分で上司にも電話しとけよ?」と言いながらベッドを降りて洗面所に向かおうとすると、そんな俺よりも先に、名前が急にガバっと立ち上がるのでビックリしてしまった。

突っ立ったまま青い顔をしている名前は、ゴクリと生唾を飲み込んで、眉を下げて俺を見る。

「なんか、気持ち悪い…」
「…は?」
「…吐きそう…」 

と言うなり、走って寝室を出ていく名前を唖然として見やってしまった。

(なんだアイツ、まるでつわりみたいじゃねえか…)

…と冗談ぽく心の中で吐き捨てたあとに、ふと、気づく。

…俺たち、いつもこんな時期にセックスしてたか?

2人でちゃんと話したことなんて無いが、名前の月のモノは規則的で、毎月、月の終わり頃になるとセックスはお預けだ。

…いや、まさか。

思い返してみると、先月からなんだかんだで何度も身体を重ねていて、最近はお預けになったことなんてない気がしてくる。それは、5月の大型連休明けの今でも。
ということは、しばらくアイツは月のモノが来ていない。

頭の中が白んできて、しばらく動けない俺を尻目に、ケホっとむせながらタオルと水のペットボトルを抱えて戻ってきた名前は、「着替えて寝る…」と小さい声で絞り出して、力なくベッドに横たわったのだった。






結局、名前が会社を休んだのはその日限りで、翌日からケロっと元気になった名前はいつも通りの名前だった。

あの日は、当然頭の整理もつかず、ちょっとした疑惑くらいだったため、名前にそんな疑惑について聞いて確かめることもしなかった。

しかし、仕事の合間になんとなく調べてみた限り、あいつの行動は、すべて巷でよく言われている「ある現象」と結びついていくようだった。

最近太っちゃって、と言っていた名前。しょぼくれながら無心になって食べまくっていたのはトマトで、その割に普通の飯は食べたくない、と言って食わずにいて。
ダメ押しみたいに、あの朝の突然の体調不良と、俺が知る限り一か月は遅れていて来ていない月のモノ。

…と、考えた瞬間、俺の中で自然と点と点が繋がっていくようだった。

そこから導きだされるのは…妊娠。

「まさかな」と声に出して、細く息を吐き出した。

俺たちは、子供をもうける話どころか、結婚の話だってしたことはない。
2人ともそんなことには無関心だし、子供にいたっては両方どちらかといえば欲しくない、…というか、ガキを作って育てるタマではないと思っているのは、お互い分かっている。

そんなこともあり、セックスの時は俺だって気をつけていたし、アイツのほうも自分で気を付けていたから、妊娠する確率はかなり低い。

…が、どんなに対策を講じても、その確率がゼロにはならない、ということも分かっていた。
ここ数か月のことを思い出してみても、避妊に失敗した記憶はないが、なんせ夢中になってしまってどんな不測の事態が起きているかは分からないのだから。

(なんか体調良くなったから、今日から会社行くね)と笑う名前に、(風邪だったのか?なんか思い当たることねえのかよ)とさりげなく聞いてみても、(…うーん、ちょっと調子が悪かっただけだと思う)と呑気な顔をしているので俺も眉間に皺が寄ってしまう。

色々さりげなく確認してきたが全然情報が集まらん。
こいつ、鋭いようで自分のことは結構鈍いからな…。もしかして自分では気づいてないだけなんじゃねえのか?…なんて思っても、はっきりと切り出せないのは俺のほうで。

実際に妊娠していたらどうするか、困惑する気持ちが無いわけではない。しかし、それよりも気になるのは名前の反応だった。本人が全く自覚がないのだとしたら、それを知ったアイツはどんな気持ちになるのか、と。

俺の人生、いつだって、自分にとって納得のいく満足な結果が出るようにしてきたし、逆に言えばそうなることしかしてこなかった。俺にとって受け入れられないことは最初からこっちから「お断り」して、無いものとしてきたのだから。

アイツが妊娠を知ったとして、どんな反応をすれば……してくれれば、俺は納得して満足するのだろうか。
こんなにも想像できないし予測できないことはないようで、いつまでたってもその話は切り出せなかったのだった。





そんな風にモヤモヤしていた1週間後の金曜日、俺と名前の部署の関わる事業の合同の懇親会が開催された。
ホテルのコンベンションホールを貸し切って行われたそれに、俺たちは2人そろって足を運んでおり、関連企業も多く参加するその懇親会で、チームの渉外も任されている名前は、会の開始前に方々に挨拶に行き、忙しそうにテーブルを回っていたのだった。

俺と言えばつい目線をやってしまうのはそんな名前のほうばかりだった。

喫煙者もまだ多くいるこのパーティー会場では、会場の一角のテーブルが喫煙コーナーとなっており、煙草の煙がそこらに漂っている。
そんなテーブルの横を名前が通過するたびに、なんとなくモヤモヤした気分になるのは不可抗力なのか。

…よくわかんねえけど、煙草の煙とか絶対身体に悪いだろう。なんか影響とかあるんじゃねえのか?
いや、まだそうと決まったわけじゃないし、そうだとしてもそこからどうするかは2人で話し合わないと決められないのだから仕方ないのだが。

どうしたいんだ?俺。白黒つけていない今、どうしてこんなにこの状況にイライラしているのか…。

思わず足をトントンと床に打ち付けて、険しい目線で名前を追う俺の目の前に、サービス係からシャンパンが差し出されて、「もうすぐ乾杯ですよ」とニッコリ微笑まれる。

もうそんな時間か…と思いながらサービス係に会釈して、シャンパングラスを受け取った瞬間、ハッと気づいて名前を振り返った。

関係会社の男性社員数人と談笑していた名前が、同じくサービス係からシャンパングラスを受け取るのが目に入って、思わず身体が硬直してしまった。

「それでは皆様グラスの準備はよろしいですか?」と明るくアナウンスする司会の声に応じた名前が、グラスを掲げてニコリと微笑んだ。

…別に妊娠してるかどうかなんて分かっていないから、アルコールの一杯くらい飲んだって平気なはずだ、きっと。
…というより、一杯のアルコールくらい、名前の身体にとってはきっと大丈夫なんだろう。

…なら、別の身体にとっては?

なんとなく不穏な予感に、ゴクリと唾を飲み込んだ。
…いや、でもさすがに本人が気づいてないってことあるか?いや気づいているなら俺に何か話があってもいいはずだ。…大体そういうのって、女のほうがすぐ気づくんじゃねえのか?
分かっていたらアルコールを飲むなんて軽率なことはしない女だ。

…でも本当に、本人すら気づいていなかったとしたら。

グルグルと、いつまでたっても覚悟を決められずに巡る思考とは裏腹に、気づいたら身体は勝手に名前のほうに歩き出していた。

ツカツカと名前のほうに歩み寄る俺に気づいた名前は、小さく手を挙げて俺に挨拶するが、いつもと違う俺の剣幕にすぐに眉をひそめている。
同じく、近寄ってくる俺を怪訝な顔で見る他の会社の男になんて目もくれずに、その輪に割って入って名前のグラスを取り上げた。

「…尾形さん!?」
「…飲むな」

あっけにとられて俺を見る名前に構わずに、取り上げたグラスを名前から遠ざけて、ぐいっと一気に飲み干した。
何が起こったのか全く分かっていない名前と……関係先の社員2人が、口をあんぐり開けて俺をビックリした表情で見ているのに気づいて、気まずくゴホン、と咳ばらいをした数秒のちに、「乾杯!」と高らかに司会が宣言した。

…一杯目、ちょっとフライングだったか。

「…お、尾形さん…?」と立ち尽くす名前を一瞥したあと、「…いや、喉乾いてて…つい。ははッ」と横にいる男2人に強張ったスマイルで挨拶してから、名前の腕を掴んで引き寄せる。

「…××社の会長がお前のこと探してた。紹介したいヤツがいるって。名刺入れ持ってすぐ来いよ」
「…え!?あ、そういうことですか!?」

そう言い残して、わざと足早にそこから歩き出すと、鞄から名刺入れを探す名前が、どんどん歩き始める俺を見て慌てて鞄ごと引っ掴んで歩き出すのが視界の端に目に入り、ホッとした。…よし。荷物は持ったな。とりあえずこの会場から立ち去れるというわけだ。

「ちょっと、待って、尾形さん!」
「いいからついて来い」

そう言う俺に、怪訝な顔をしながらも素直についてくる名前だが、さすがにそのままホテルの出口を出ようとすると、明らかに動揺し始める。

「えっ!?え?どこまでいくの?!」

……話を切り出せる気がするところまで。

…という言葉は喉の奥に飲み込んで、名前には返事せずに、少しだけ歩みを遅くしながら歩き続けた。
どこか人気がないところで…喫茶店で…それとも近くのホテルで…。いろいろと候補は上がるが、どれも決めきれずに、結局、気付いたら通りかかったタクシーに手を上げていた。

そんなに遠くまで!?と今度こそ本当に唖然とする名前は、もう懇親会なんて諦めた様子でひたすら黙って俺についてくる。そんな名前をまずタクシーの中に押し込んで、とりあえず名前の家まで向かうように運転手に指示をしたのだった。



車内での名前はシーンと押し黙っていて、俺とは反対側の窓の外を頬杖をついて静かに眺めている。
大方、何か俺を怒らせたと思って、原因を必死に考えているところなのだろう。

そんな不安ですらこいつの身体にとってストレスなんじゃねえのか?なんて思いながらも、肝心の疑惑について全く切り出せない。

結局、お互い無言のままあっさりと家までついてしまって、さらに無言のまま2人してエレベーターに乗り込んだ。
…なんだか、どんどん切り出しづらい雰囲気になっていくのは、気のせいなのか。

ドアを開けて玄関に入って、さっさと靴を脱いで家の中に上がりながら、「…あのさ、」といよいよさり気なく切り出そうとして振り返ると、玄関でしゃがみ込む名前がいてギョッとしてしまった。

「おい、どうした」
「……お腹イタイ」

…一瞬で不安で背筋がぞっとして、しゃがみこんで名前の肩に手をかけると、その手をそっとどかした名前が、「…ゴメンなさ…ちょっとトイレ行く」とヨロヨロと立ち上がり歩き出す。

なんだか、嫌な予感しかしない気がしてくるが、トイレの前で呑気に待っているのもおかしくて、リビングに入って灯りを付ける。
…なんか温かい飲み物でも用意しといたほうがいいのか?と思ってコーヒーサーバーから熱いコーヒーを注いだあと、そういえばカフェインてダメなんだったか?と思い直して、ソファに座り込んでから自分でそれをゴクリと一口。

…柄にもなく、珍しく動揺している。

もし、万が一本当なら、どうする?
俺たちにとって、子供を作ろうという選択肢はなかった。それでも、もし、今そうだとしたら。これからどうする?
ひとつ想像しはじめると、芋づる式に想像が広がって、責任感と罪悪感にも似たような感情で頭が支配されていくようだった。こんな俺が、大丈夫なのか?

それでも、そんな感情を上から塗りつぶすように広がるのは、とにかくあいつの身体が心配だ、ということだった。
柄にもないこの感情が、紛れもなく俺自身から出た感情だというのは、名前のシャンパングラスを取り上げた時には、自分でも気づいていたのだ。




しばらくすると、リビングのドアが開いて、名前がゆっくりと入ってくる。
その顔は、少しだけ青く、気まずそうに俺をチラリと一瞥して、立ち尽くす。

「名前、お前大丈夫か…?」

そう呟いた俺の表情がいつになく固く、真剣だったのに気圧されて、名前はビックリしながらも無言でコクリと頷いたあと、口を開きかけて、ためらったようにストップする。

「…体調悪いのか」
「あの…実は」
「…なんだよ、言ってみろよ」

所在なさげに不安そうに佇む名前に手招きして、ソファの横に座らせると、なんだかとても緊張したようにゴクリと唾を飲み込んだ名前は、恥ずかしそうにチラリと俺を見上げたあと、

「…あの、今ちょっと遅れてた月のモノが来てしまって…それで実はちょっと最近体調が悪くて…」

…と、小さく呟いたのだった…。




……正直、ホッと胸を撫でおろした。想像は、想像に終わったわけだったのだ。

それと同時になんだかムズムズした照れくさいような感情が襲ってきて、思わずはあ…とため息をついていた。


「…そうか、なら、良かった」


ったく、紛らわしい…。人を心配させやがって…。と、心の中で一安心してから、今、口に出したその言葉が意味するところに気づいて自分でもギョッとする。

月のモノが来たという女に、「なら良かった」だなんて、月のモノが来ていないことを心配している男じゃないと到底出てこない台詞だ。そして、それが意味するところが、俺が名前の妊娠を疑っていた、ということになるというのは、誰が考えても明白だろう。

敏い名前は、しばらく目を丸くしてその言葉を咀嚼してから、すぐに俺の内心に気が付いたようだ。
そして、その表情は少しだけ照れくさそうな表情に変わっていき、それはまるで、俺の今日の不自然な行動が、名前の頭の中で一つの線になって繋がっていくのが目に見えて分かるようだった。


「…尾形さん…」
「……」

妊娠なんて考えすぎだった、と分かったら、急に杞憂に終わった俺のこの想像力がこっ恥ずかしく、思わず気まずく目線を逸らす俺の胸に、名前が飛び込んでくる。

「…あの、今日やっぱり調子悪かったから、シャンパン飲んでたら気持ち悪くなっちゃったかも。代わりに飲んでくれて助かったかもです」
「…そうか」
「うん。ありがとうございます…」

…きっと、俺が名前に対して思っていた妊娠疑惑に名前は気づいている。
だが、同時に、杞憂だったそれを俺が恥ずかしく思っているという感情にも気付いている名前は、これっぽっちもその騒動について言葉に出さずに、ただ俺に寄り添ってくる。

こいつのこんなところは、やっぱりさすがだと思う反面、全て見透かされている自分に少しだけ恥ずかしい感情がこみ上げてくるようだった。

いつまでも俺に抱き着いている名前に、照れ隠しに「暑苦しいから離れろよ」と呟くと、「ヤダ」と俺を見上げた名前の表情が優しくて…温かくて、なんだかじわっと複雑な気持ちになってしまった。

名前は言葉には出していないけれど、その瞳が言っていることは聞かなくたって分かる。


(大好きです、尾形さん、心配してくれてありがとう)

…って感じか?

普段は甘ったるい言葉は好まない名前だけどな。まあ、俺もだが。

まだ胸に顔を埋める名前を引き剥がすのは諦めて、開き直って名前の背中に手を回して抱き寄せてやると、余計にしがみつかれて引っ張られるネクタイが苦しくて、ペチンとおでこを指ではじいてやった。

「いたっ」
「…やっぱり、お前ちょっと重くなったぞ」
「…だから野菜いっぱい食べてダイエットしてんです」
「そうか…そうだよな」

……ガキを作るなんて、真面目に考えたことなんて今までもないし、これからもないだろう。
俺たちはきっとその道を選ばない。

でも、万が一の確立でやってくるその時に、自分はあんな風に割と取り乱して、過保護になるんだな、と考えると笑いがこみ上げてくるようだった。


「今日、一緒に寝てもいいですか?」
「…寝相良くしろよ」
「いつもそんなに悪くないですけど」
「悪いさ…」

少しだけ、穏やかで温かなこの感情はきっと急いで飲み干したシャンパンのせいだ。

ソファに座る名前に、近くにあったブランケットをかけてやりながら、そんなことを考えたのだった。



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