31

麗らかな平日の昼下がり、ポカポカ陽気の中、私はいつものその場所に向かって歩いていた。
そこは、私の住むアパートのすぐ隣なので、「歩いていた」というまでの距離でもないのだけれど。

生垣に囲まれた木戸を開けようとしたその時、生垣の隙間から飛び出してきた猫がニャア、とすり寄ってきた。

「私が来るのわかったの?エライなあ…ブチは」

私の脚の周りを、八の字の軌道を描きながら何度もすり寄って甘えるブチを抱き上げて、頭にくっついた葉っぱを払ってやりながら、少しだけ立て付けの悪い木戸をギイ…と開く。
そこにはいつもと変わらずのどかな庭があって、その先には日当たりのよい縁側。


足を突っ張って私の腕の中から抜け出したブチが、トン、と地面に足をつくや否や駆け出して行って、ピョン、と飛び乗ったその先には。

「おや、珍しいな。こんな平日の昼間に」
「…土方さん…私、」

少しだけ気まずく立っている私を見て、優しく微笑んだ土方さんは、「ブチが急に駆けていったからどうしたのかと思ったんだよ。今日、仕事休みなのか?」と言ってブチを撫でている。

しばらくためらっていた私だけれど、小さく息を吐いてから、ようやく口を開く。

「…会社、辞めちゃいました」

少しだけ目を丸くした土方さんは、すぐに頬を緩めて、「なんだ、そんなことか」と笑っている。
「…そんなことって、結構勇気出したんですけど…」と口を尖らせる私に「すまんすまん」と笑った土方さんは、「いや、そんな深刻そうな顔してるから、転勤にでもなったんじゃないかとね」とこめかみに指を当てる。

「転勤どころじゃないです。退職ですもん…」と小石をコロンと蹴っ飛ばす私に向かって、意味深な笑みを浮かべた土方さんは、「まあ、詳しく聞こうかな」と目線でこっちに来るよう促した。




土方さんと知り合ったのは、かれこれ半年ほど前だった。
出会いはとっても単純で、隣のアパートに住む私の洗濯物が土方さんの家の庭に落ちてしまったことがきっかけだ。

幸か不幸か、丁度良く土方さんの家の庭の物干し竿に引っ掛かったカーディガンは、私の大のお気に入りのもの。
なんだかとても怖そうなおじいさんが住んでいる家、というイメージだったため、ビクビクしながら訪問したのだけれど、木戸を開けて出てきた土方さんはとても紳士的で、拍子抜けしてしまったのだ。

さらに、彼の足元からにゅっと出てきて私の足にまとわりついてきたのが、よくうちの窓の外で呑気に昼寝しては私にじゃらされていく、馴染みの白黒のブチ猫だったのでびっくりしてしまった。

「あれっ?この子、ここで飼われてたんですね」
「居着いてると言ったほうが正しいかもしれないがね。…こら、最近しょっちゅうどこかに行っていると思ったら、女性の元に通っていたとはな、ブチ」
「ブチって言うんですね。かわいい」

ニャアと鳴いて、二本足で立ち上がって抱っこをせがむブチを抱き上げると、土方さんは「…この女性を紹介してくれるかな、ブチ」とゴロゴロ喉を鳴らす猫の頭を撫でて言いながらも、チラッと私に悪戯っぽい視線を向ける。

その視線に、少しだけ頬が熱くなった私は頭をペコリと下げた。

「あ、すみません。自己紹介もまだで…。私は名字名前と申します」
「私は土方だ」

自己紹介し合って目を合わせたその直後に、タイミングよくブチがニャー、なんて鳴いたので思わず笑い合うと、土方さんが「さ、庭はこっちだ。引っかかっているのが物干し竿ならすぐに取れるだろう」と中に入るよう促してくれる。

「ついでにお茶でもどうかな」と微笑む土方さんに、「じゃあ、遠慮なくご馳走になります」と返事したその日から、私たちはお茶友達になったのだった。



「ほら、熱いから気を付けて」
「ありがとうございます…」

縁側に二人で腰かけて、お茶をずずっと飲んだら一呼吸。
何だかんだで、ほぼ毎週末にはこんな感じでお茶をごちそうになっていたこともあって、これまでだってこんな光景はよくあった。
でも、ほとんどの人が働いているこんな平日に、こうして縁側でお茶を飲んでいるなんて、なんだかとても新鮮で不思議な気分だ。

「少し辛いとは聞いていたけど、まさか会社を辞めるくらいだとは思わなかったよ」
「まあ…土方さんには言ってなかったんですけど、結構、衝動的でした。でも、ここが辞め時かなあって」
「まあそんな直観は大体当たるもんだよ。ご苦労さんだったね」

そう言って、静かに微笑む土方さんは、私の肩に手をポンと置いてくれた。
毎週こうして一緒にお茶を飲むうちに、仕事のことや、人生のことや、いろいろなことを相談するようになったけれど、土方さんはいつもブレずにどっしり地に足の着いた意見をくれるのだ。
甘すぎず、しょっぱすぎないその大人な態度は、いつだってこうして私を落ち着かせてくれるし、円熟したその言葉は、日々の仕事に揉まれてすり減った心をお湯に浸けるみたいに温めてくれる。

そのまろやかな優しさに、憧れと尊敬の念を抱くのと同時に、心が惹かれていくのにも、それほど時間はかからなかった。
はっきりと、恋心だと確信したのはいつだろう。たぶん何気ない瞬間だったのだろうけど。
不思議と、土方さんには人を引き付ける魅力というか、オーラのようなものがあって、自分でもごく自然に、彼という人を好きになってしまっていたのだった。

もちろん、彼にとって私みたいな小娘は、完全に範疇外ってことは分かってはいたけれど。



「さて、せっかくの平日のこんないい天気の日なんだ。少しゆっくりしていったらどうだ?」と言いながら土方さんがお茶を一口。
「そうですね。お言葉に甘えちゃおうかな」と笑う私に、ふと何かに気づいたような土方さんが、「そうだ、ちょっと待っていてくれ」と立ち上がって、障子を開けて奥に何かを取りに行く。
戻ってきた土方さんは、籐でできた長椅子のようなものを抱えていた。

「ほら、これ。なかなかいいだろう。ここにこうして出しておくから、自由にゆっくりしていきなさい」
「わ、なんか渋いですね!」
「古くさいと思いきや、意外と快適なんだよ」
「へえ〜」

早速長椅子に寝転んで背中を預けると、籐の編み目から風がゆるやかに吹き抜けて確かになんとも快適だ。

「あ、確かに心地いい…」
「だろう?」

胡坐をかいて、長椅子の横に座っている土方さんも、嬉しそうにこちらを見上げてくる。

と、土方さんのその膝をジャンプ台にして、ブチがひょいっと寝転がる私のお腹に飛び乗ってきて、クルクル回って位置を決めたあと、ドスンとお尻を下ろして寝る体勢に入ってしまったので、思わず笑ってしまった。

「ブチも心地いいところが分かるようだな」
「のんきだね、ブチ!って、私もか」
「…今日くらいゆっくりしなさい。本でも読んでいればどうだ?私はちょっとやることがあるから、気楽にしていてくれ」
「じゃ、お言葉に甘えて…」

庭のほうに出て行った土方さんを見送って、鞄の中から読みかけの本を出してページをめくる。
のんびり読書したのなんて何時ぶりだろう。なんだか、色んなことをアウトプットしてばかりで、こうやってゆっくり何かをインプットするなんてすごく久しぶりだ。

時々片手でブチを撫でながら文庫本をめくっているだけで、心のささくれが取れていって、穏やかな気分になるようだった。
寝ながらゴロゴロ喉を鳴らすブチのお腹は寝息でスウスウ上下していて、そんなブチに乗っかられた私のお腹もポカポカだ。
少しだけ、目を閉じると、風のざわめきと、木々の葉っぱのこすれる音が聞こえる。

そんなふうにしていたら、久々の読書、なんて言っていた私があっさり眠りに落ちてしまうのも、時間の問題だったのだ。




ふ、と目が覚めると、身体には毛布がかけられていて、いつの間にか手から滑り落ちてしまっていたであろう文庫本は、縁側にそっと綺麗に置いてあった。
お腹のあたりでモゾモゾ何かが動いたかと思ったら、ちゃっかり毛布の中に潜り込んでいたブチが頭で毛布を押してスポンと出てきたので思わず笑ってしまう。

ああ、でも、こんな風に居眠りしてしまうなんて初めてのことだ。

ぐっと伸びをしてから長椅子を下りて、そっと庭を覗くと、竹刀のようなものを素振りしている土方さんの姿があった。

「おや、目が覚めたかな」
「…う…すみません…人様の家ですっかり寝入ってしまって…」
「よく眠ってたよ。相当疲れてたんだなあ」
「たはは…」

頭に手をやって笑って誤魔化しながらも、見とれてしまっていたのは土方さんが素振りする姿だった。背筋もまっすぐで、いつもの優しい表情とは違って、強くて凛としたその表情は、こんなに年上なのに、男、という感じで。

学生の頃に、好きな先輩を見てキャーキャー言い合って、胸がドキドキする感じとはまた違う。心臓はゆっくりゆっくり鼓動するんだけれど、その一回一回が身体を震わせるくらいに大きく、その温度は高熱をずっと保っていて、大人になってからの本気の恋は体力だって奪っていくんだ、って思わされるほどに。

私がじっと自分を見ていることに気付いた土方さんは、竹刀を持ったままフウ、と一息ついて縁側に腰を下ろす。

「男子はいくつになっても刀を振り回すのが好きだろう」といたずらっぽく言う土方さんに、私も笑顔になってしまい、「…そうですね」と照れ臭くも返事した。


そんな風に笑い合って穏やかな瞬間、なんとなく、今なら言えるかな、と感じた私は、土方さんのほうを向いて、戸惑いながらもゆっくり口を開いていた。

「…あの、実は、これからどうするかって話なんですけど」
「ああ、そういえば。転職するのか?」
「…実は、ずっとやりたかったことがあって、今までの会社と全然別の業界なんですけど、そっちにチャレンジしてみようかな、なんて」

それを聞いた土方さんは、嬉しそうに笑って、「いいじゃないか。挑戦はいいことだ」と力強く返してくれる。
…その笑顔がすごく後押しになるのは感じていたけれど、どうしてもどうしても、私にはある不安が残っているたのだった。

「…でも、その業界、結構若いうちから実績を残していないと、かなり厳しいというか。もう、いい年なのは自分でも分かってるので、ちょっと今からじゃ遅いんじゃないかな〜、なーんて…」

最後は冗談ぽく、ヘラヘラ笑っておちゃらけてしまったけれど、完全にこれは本心だった。
これから、身体一つで、今までに足を踏み入れたこともない業界で、飯を食っていけるのか、と言われたら、正直自信満々にイエスとは言えないだろう。
自分でも、結論は分かっている。そうしたいから会社を辞めて退路を断ったのだと。でも、どうしても揺らぐ心は、私をあっちにそっちに振り回す。
そんな揺れに一人で耐えきれるほどには、私は大人じゃなかったのかもしれないのだ。


餓鬼っぽく心情を吐露する私を、少しだけ強張った表情で見守っていた土方さんは、少し躊躇いながらも励ますように私の膝にポン、と手を置いて、静かに口を開いた。

「年齢に、遅すぎるということはないだろう。何事も」
「そうですかねぇ…」
「そうさ」
「……うーん」

シュンとなって考え込む私の膝を、土方さんの親指がそっと撫でるので、思わず視線を上げてしまった。

「…たとえば」と、こちらを見る土方さんの視線は、意地悪なような純粋なような、それらがない混ぜになったような色で、まるで少年のようだった。

「…た、たとえば?」
「恋愛、とかな」
「…へ…」


…恋愛…。

…と、頭の中で考えてから、ボッと顔が熱くなる。
…もしかして、私の気持ち、気付かれてる?隠していたこの感情を?大人の土方さんに…?

頭の中は真っ白で、恥ずかしさと後ろめたさで、ただただ頬が熱くて、何も言葉が出なかった。それでも土方さんからは目を離せなくて、思わず両手で自分の頬を挟んでその温度を確認すると、ひんやりと冷たく感じる手で、やっぱり私の顔は真っ赤になっているんだろう、と思い当たる。

そんな私の反応を面白そうに見ていた土方さんは、クスクス笑いながら私の手を取って、握りしめた。

「あのな、なんだか一人でパニックになってるけれど、一応、口説いてるんだが」 

…やっぱり頭は真っ白だ。むしろさっきよりも。
…土方さんにそんなこと言われて、さらにパニックにならない女なんて、この世の中にいるんだろうか…。

ドキドキ打つ心臓は早鐘のようで、気持ちが上擦ってたまらないのに、まだ一番の割合を占めているのは戸惑いだ。
だって、こんなに年下で、小娘の私を…本当に?

「…まあその表情を見る限りは、男としては意識してもらっているということでよいのだろうか?」と苦笑する土方さんに、やっと頭が冷静になってきた私は慌てて口を開く。

「え、あのっ、私は…もちろん!でも、私なんて、あまりにも年下すぎるんじゃないかって…」
「…それよりも、君にとって私は年上すぎるんじゃないか?」
「そ、そんなことないです!!だって土方さんこんなに素敵で…!」
「…じゃあ私にとっても同じことだ。」


でも!……と言おうとした口は、思った以上に強く引き寄せられた勢いのまま、土方さんの唇に塞がれる。
顎髭がフワリと顔に少しだけ触れて、重ねられた手は一層強く握られて、熱い唇が触れ合っている私たちのその下を、ブチが尻尾を揺らしながらくぐり抜けていく感触がした。

ゆっくり唇が離されたあと、呆然と土方さんを見つめる私に、白い自分の顎髭を手で触る土方さんが、「…それとも、君はこの年齢差を縮められるとでもいうのかな」と、少しだけ意地悪そうに笑う。

…やっぱり危険だ、この人は。こんなにも素敵で、こんなにも人の心を動かして、揺さぶって、自分に着いて行かせてしまうのだから。

「…もう。縮められるわけないです…」と思わず笑ってしまう私の言葉は、完全なる敗北宣言。この人に、心を全て持って行かれてしまったのだから。

「物理的な距離はこんなに近いんだからいいだろう」と言いながらもう一度私の顎を持ち上げる土方さんを見上げて、私も彼の胸にそっと飛び込んで、今度は正真正銘の、距離ゼロへ。

夢中で交わす口付けは、甘くて優しくて、少しだけ大人のものだ。

そうして、しばらく口付けし合ううちに、胡座を崩して伸ばした土方さんの足で押された障子が、スーッと開くのが視界の端に見えて、ドキッとしてしまった。

息継ぎしながらそっと唇が離されて、「…中に入るかい?」と耳元で囁かれるその言葉に、抵抗できる女なんていないだろう。 
実際、土方さんを見上げる私の溶けた表情は、無言の肯定になったのだから…。


障子が内側からピタン…と閉じるのを縁側で見ていたのは、お邪魔虫になってしまったブチだけで、そのブチも部屋の中のことは知らないままなのだ。






カツカツとヒールを鳴らして、新しいスーツに身を包んだ私はいつものあの場所へ歩いていた。
生け垣を過ぎて、木戸に手をかけて、飛び出して来るブチを今日だけはサッと避ける。

「こら。今日は毛が付いちゃうからダメ!」

木戸を開けたら、縁側の長椅子で昼寝する土方さんのもとへ。

近づいて、目を閉じてすやすやと穏やかに眠っている土方さんを見て、踵を返して立ち去ろうとした瞬間、

「…スーツ姿もいいじゃないか」

と、声がする。

振り返って、「なんだ、起きてたんですか」と笑って近づくと、「なんだかリクルートスーツは新鮮だな。大人っぽくていい女だ。こんなに綺麗な恋人はそういない」とニヤリと笑って見上げてくる。

「…そうですか?相当女遊びしてきたって聞きましたけど…それ、全員に言ってません?」
「……老いぼれにとっては遥か昔の話で記憶にないな」
「都合悪いときだけ老人ぶって…」

意地悪な目線で見る私を、面白そうに見つめる土方さんは、それでも確かにスーツ姿の私に満足気だ。
それは、きっとこれから始まる私の新たな挑戦を誰よりも応援してくれているからなのだろうけれど。

「いってらっしゃい」と優しい笑顔で見送る土方さんと、その胸に抱かれているブチに、特大の笑顔で返事して、私は扉に手をかけて、思い切りそれを開いたのだった。


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