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「ほい。これバレンタインデーのお返し」
「え、さすが〜岡田さん優しい〜!」
「だろ〜?」

隣のブースから上がる黄色い声を、私は眉間にシワを寄せて聞いていた。

…何あれ。キャッキャしちゃってさ…。

にやけた顔をして、女性社員に小さなお菓子を配って回っているのは、私の恋人の岡田さんだ。
同じ会社で働いている私たちは、交際して日が浅いわけではないのだけれど、あくまで内緒のオフィスラブ。当然、こんな場面に遭遇したとしても、なんだか複雑なこの感情を顔に出すわけにはいかないのだ。

それでもやっぱり面白くないものは面白くなくて、ターン!とエンターキーを叩く指に力が篭ってしまう。

別に浮気性ってわけでは全くないのだけれど、女の子には優しくて、特に綺麗な子には鼻の下が伸びてしまうのが私の恋人のいけないところ。どちらかと言えば、社内のムードメーカーである性格も相まって、義務的にお返しを渡していく他の男性社員とは違って、一人一人と軽口をたたき合いながらお菓子を配っている。

…まだ、私はお返しをもらってないんですけど。なんて子供っぽいヤキモチ心を抑えながらも、段々と私の席に近づいてくる岡田さんにチラッと目をやると、バチンと目が合ってしまい思わずサッと顔を伏せる。

ニヤニヤしながら私の席に寄ってきた岡田さんは、私の席のパーテーションに寄り掛かりながら小さな紙袋を私の目の前に吊る下げて、「名前ちゃんには……まずは、これね」だなんて意味深な台詞を投げつける。

…何が『まずは』よ!と、含みを持たせた言い方をする岡田さんを見上げて睨みつけて、「…ありがとうございます」と至って冷静に呟いた。

私としては、いろいろ照れくさいこともあって、内緒のオフィスラブを保ちたいところなのだけど、岡田さんのほうはどうも違うらしく、(えーもう長年付き合ってるんだから公表しちゃえばいいだろ〜)とブーブー文句を言うのもいつものこと。
まあ、そんな風に岡田さんが言うその心が、交際をオープンにすることで他の男が寄ってこないようにしたいだけ、という子供っぽい独占欲からだ、ということを知っている私は、毎回それを宥めてすかしてなんとかストップしているんだけど。

それでも、岡田さんのほうは、たまにこんな風に交際を匂わせる意味深なことを言って、社内で少しずつ既成事実を作ろうとしてきて、私たちの間では未だ静かな攻防が続いているのだ。




「…ということで、今回は子供向けの歯医者さん兼医者の自宅、という物件の設計ということです。ラフな工程案は資料のとおりですけど、各担当から何かありますか?」

ネクタイを緩めながらテーブルを見回す岡田さんをチラリと確認して、思わず頬が緩みそうになって咳ばらいで誤魔化した。
こうやって仕事しているときはキリッとしててカッコイイ気がするのに、なんで普段はあんなにヘラヘラしてるのかな、全く。あまりギャップを作られるとこっちがアップダウンしてしまうんですけど。なんて、彼女の欲目ってやつだったり。

さて、と頭を仕事モードに切り換えて、飛び交う質問に耳だけ貸しながら資料に目を通していく。
私は主に什器やインテリアなどの担当なので、設計担当の岡田さんとこうして一緒の打ち合わせに出るのはプロジェクトの初期か、完成間近くらいの段階がほとんどで、それほど多くはない。

ぱらりと資料をめくって、ふと気づいて手を挙げる。

「すみません。諸室のAですけど、わりと大きめなキッズコーナーができますよね。で、先方は遊具とおもちゃの選定は専門業者にやらせるのを希望しているとのことですが、施工中彼らに入ってもらう前にウチのほうで仕上げはどこまでしますか?」
「んー、クロス仕上げまでだなあ」
「ということは、造作工事もほぼないということでいいでしょうか。専門業者が選定した簡単な遊具に対応できるようなインテリアを同時並行でこちらで考えるということで…」

岡田さんは、なんだかとても満足げにこちらをニコニコ見つめてきて、鉛筆をクルクル回しながら口を開く。

「そのとおりです。さすが、お…名前ちゃん」

…今、俺の、って言いそうになったよね?

手を組んだ上に顎を乗せて、にへっと笑ってこっちを見つめる岡田さんの足を、表情を変えずに机の下でヒールで蹴っ飛ばす。


だから、ハートマークが顔に出てるのよ…!


でもそんな私の牽制すら逆手にとって、蹴っ飛ばされた勢いで「イテッ、蹴るなよ〜褒めたんだから」なんて声に出してへらへら笑う岡田さんのせいで、この牽制すらみんなにばれるんじゃないかと慌てる私は頬を熱くして「あ、スミマセン、脚組んだ勢いで…」と誤魔化した。


一点リード、みたいな顔をしてニヤリとこちらを見る岡田さんも次の瞬間には頭を切り換えていて、打ち合わせは途切れることなく続いていった。
全く、会社のみんなが鈍感だからまだ良いものの、気付かれたら本当に恥ずかしいことになるんだから、ちょっとは気を使ってくださいって…!



打ち合わせのあと、別の部署の人にまでお返しのお菓子を配りはじめた岡田さんを横目で眺めながら、私はサッサと資料庫に歩き出していた。
なんだか疲れちゃったし、今日は早めに仕事を片付けるためにも、去年の資料を掘り出そうかな、なんて考えて、フロアの外れにある資料庫の扉に手をかける。重めの扉を引き開けて、中に入ると少しだけ乾燥した空気でケホっと咳込んだ。

それにしても膨大な資料の量だ。全く整理されていないので手当たり次第に探すしかないようで、ハア…とため息を一つ。そんなに広くはない資料庫に、所狭しと並んだスチール棚にあっちからもそっちからも詰め込まれた本やファイルが溢れている。

背伸びしながら上のほうのファイルをあさっていると、ガタン、と音がしたので、ビクッと振り向いた。…あれ?誰か先にいたのかな?
すると、ガタガタ…と再び音がした後に、ガチャンとドアノブが回って、扉が開く。

「…なんだよ〜こんなとこにいたのかよ」
「あ、岡田さん」

建て付け悪いな、このドア…と言いながら眉をひそめて書庫に入ってきた岡田さんは、改めて私の姿を視線で捉えると、「探したぞ」と言いながら近づいてくる。

「…忙しかったようで。『義理』はもう果たしたんですか?」と意地悪な目線で見上げる私を面白そうに見やった岡田さんは、思わず尖る私の唇に親指で触れて、「『義理』はな。…だから、『本命』の分は今からだ」とニヤリと笑う。

身体の後ろからひょいっと出した小さな紙袋を押し付けられて、思わず覗いたその中には小さな小箱。

「さっきのと同じなんじゃないの?」なんて照れ隠しに言う私を笑って見やった岡田さんは、「バカだな。違うに決まってるだろ」と言って、開けてみろよ、と促した。

小箱を取り出して、よく見てみると…

「…やっぱりさっきの義理のお返しと同じじゃないですか!」

と、思い切り顔を上げた瞬間、背中は後ろにある本棚に押し付けられていて、至近距離には迫る岡田さんの顔。身体は本棚に突いた岡田さんの2本の腕に囲まれて、脱出不可能な状況だ。

「ちょ…っと!岡田さん!」
「…引っ掛かった」
「…ん、」

首筋を撫でる手の動きと共にキスが降ってきて、持ち上げられた顎のせいでついに頭も本棚にコツンと当たってしまい、弾みで薄いファイルがパタリと音を立てて静かに倒れていく。

一旦唇を離した岡田さんは、「…こっちが本命へのお返しな」と口角を上げてから、するりと私の頬を撫で上げる。

「…もう!バカ!ここ会社の資料庫だから…」
「…だから、ちょっと興奮する?」
「違う!もう…」

…そんな風に反論しつつも、すぐに岡田さんの身体を突き離せない私の感情だって、すでに気づかれているんだろうけど。

全てを見透かしたうえでからかっているみたいに顔を寄せた岡田さんは、「もっと、って顔してるけどなあ」と囁いてから、再び唇を押し当てる。今度は唇を割って舌が入ってきて、逃げ回る私の舌を捕らえて絡めるその感触が、私の身体を熱していくようだった。

「んっ…」
「……」

唇の下辺りににチクリと当たる無精髭を感じて、あ、岡田さんてば、また髭ちゃんと剃ってない…と浮かされたように巡る思考は、合わさる粘膜の感触で頭が沸騰しかけている証拠。
息継ぎのインターバルで離された岡田さんの顔を見上げる私の表情は、きっと、もう。

「…会社でそんな表情になっちゃって、やらしい彼女だ」
「岡田さんがそうさせたんでしょ…」

それを聞いて真顔になった岡田さんに、さらに身体が書棚に押し付けられた勢いで、頭で押されたファイルがどんどん向こう側にずり下がる。そしてその本にさらに押しだされた反対側の本が、ラックのむこう側にドサッと音を立てて落ちる…と思いきや。

「イテッ」

…と、聞こえた音は、男の声。

ピタッと動きを止めて、慌てて振り返った私たちが、本や資料の隙間から向こう側の通路を覗くと、そこに見えたのは、頬に傷のある男性の姿。

「……うわああ!の、っ、の、野間さん!?」
「いたのかよ!」
「違うんですっ!これは本当に!!」

サーッと青ざめてパニック状態の私に対して、岡田さんはフーン…みたいな冷静な感じで………ナニ見られたか、分かってんの!?

パタパタと埃を払いながらこっちに来た野間さんは、呆れたように腕組みをしてため息をつく。

「…気づかないふりしてやろうと思ったんだがな。さすがに…。盛り上がって人の頭に本落とすなよ」

…てことは私がこの部屋に入った時にはすでにいたわけね…?じゃあどこから聞かれていた?私、岡田さんと何話してた?ああ、どうしよう、こんなところ見られるなんて…!

「野間く〜ん、俺達のこと黙っててくれるよね?」
「…ハア、バカだな岡田は、本当に」
「違うっ!岡田さん!ちょっと!違うんです、私たちは別に!」
「…バカはお前もだ名前…本当にバレてないと思ってたのかよ」
「はい!?」

頭が真っ白になる私に、冷たい視線を寄越した野間さんは、「…ま、他のやつらには黙っててやるよ」と言い残してから岡田さんを見やって、「続きはするなよな」と釘を刺してから部屋を出て行った。

「ばれちゃったな!」と爽やかに言う岡田さんを涙目で睨みつけた私は、「もう…本当にバカ!岡田さんが悪いんですよ…」と肩を落として眉間に指を当てる。…あ、なんだか頭痛がしてきたみたいだ。

それでもニコニコ笑う岡田さんを「…うれしそうですね」と刺のある声で責める私に、「まあな!これで野間は退場だから!」と返した岡田さんは、「まあでも…」とそこで言葉を溜める。

「名前がみんなにバレないように必死に隠そうとしてるとこ見るのも楽しいけどな。だから、まあ、これからも他の人には内緒のオフィスラブプレイってことで!」

へらっと笑う岡田さんに踵を返した私は、資料を引っつかんでズカズカと部屋を出る。

…やっぱりからかってたんじゃない!と拗ねる気持ちは2割くらい。
そんなことよりも頭の中を占めるのは、いくら書庫とはいえ初めてオフィスでしてしまったあのキスのこと。
すっかり上がってしまった体温と、火照る顔を見られるのが恥ずかしくて、早足になってしまう歩みがさらに心臓の鼓動を速めていく。

待てよ〜なんて追いついてくる岡田さんのお腹をつねって小さく睨みつけたあと、そのまま岡田さんは置き去りにして、自分の席に腰を下ろしてパタンと資料を開く。

…これは冷静になるのにあと1時間はかかりそうだ。

すっかり冷めていたコーヒーをゴクリと一口飲み込んで、頬をペチっと叩いたあと、PCに向かってキーボードを叩きはじめる。こういうときこそ単純作業。
さて、さっきの打ち合わせで出たスケジュールの入力のし直しだけ淡々とやりますか…と、気合いを入れてモニターに目をやったのだった。



…単純作業を続けてすっかり冷静になった私は、次の仕事に手をつけようとコーヒーカップを持って立ち上がった。

その瞬間、近寄ってきた岡田さんに大きな紙袋を押し付けられて、

「これ、お返しな。義理じゃないほうな」

…と思いきり大きい声で言われてコーヒーを吹き出すのは、私の完璧な読みどおり、あれから1時間と5分後のことだったのでした。


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