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馴染みの銭湯の暖簾をくぐって出てから、ふとズボンの尻ポケットから携帯電話を取り出した。
でっかい手でギクシャク操作して確認するが、そこには時刻が表示されているだけで何の通知も来ておらず、相変わらず恋人である名前からの連絡はナシだ。

(全くアイツ…)と溜息をついてから、しばらく考えた後、名前のマンションの方角に向かって歩き出した。

数日前から、名前がなんとなくだるそうだ、と思っていたが、今日の朝ついに『体調を崩したのでしばらく会えません』とメールが来て眉をひそめたのだ。

(いやいや、会えません、てなんだよ)とタラリと冷や汗をたらしつつ、『風邪ならなんか買っていってやるぞ』と返事をしたものの、『大丈夫です、うつっちゃうから来ないでください』なんてつれない返事が返ってきて、これでも俺ってアイツの恋人なんだよな…?とガクリと柄にもなく肩を落としたのだった。

まあ本人がそう言うなら、お互い大人だしな…と思って今日は一日柔道教室での稽古に励んだのだが、やっぱり心配になってしまうのは当たり前のことだった。稽古が終わって一風呂浴びたあとも気になるのはやっぱりそのことで、もしかして本当に寝込んでヒーヒー言ってるんじゃねえか?と嫌な予感がして、冒頭に至るというわけだ。

それでも、さっきから何の通知音も立てない自分の携帯電話を見て、再び溜息をついてしまった。
待受画面にのんきに写るのは、眠る白黒の野良猫だ。最近買い替えた機種なのだが、なんせ俺のほうは最近の機械なんて全く分からなくて、初期設定のキラキラ光る女っぽい待受画面のままマゴマゴしていたら、名前がその辺の垣根の下で寝ていた猫の写真を撮って勝手に待受画面に設定してしまったのだ。

「お前の写真とかじゃないのかよ」と冗談半分で文句を言う俺に眉をひそめた名前は、「そんな恥ずかしいことするわけないじゃないですか!」と返して呆れているので、ムキになった俺は、からかってやろうとアイツが寝ている間にこっそり寝顔を写真に撮ったまではいいものの、撮った写真がどこにしまわれているのかサッパリ分からないまま、結局この見知らぬブチ猫を後生大事に待受画面のままにしているというわけだ。

まあそれはどうでもいいとして。

名前のマンションが見えてきたら、キーケースから合い鍵を取り出した。まあこんなものも持っているから、アイツが拒否しようといつだって行こうと思えば行けるんだが。

エレベーターで名前の部屋のあるフロアまで来たら、合い鍵を取り出したまましばらくためらって、数秒後にインターホンを押してみる。
(はい)と返事があったあと、モニターで俺の顔を確認したのか、息を呑むような音がするので「…よお、元気か」と言ってやる。インターホンに出られるということは、寝込んでしまって動けないというわけでもなさそうだが…じゃあ今日のメールは何なんだよ、という疑問が沸いてくる。

しばらく間を置いてから、カチャ…と鍵とチェーンの外れる音がして、小さく開いたドアの隙間から気まずそうな名前が顔を出した。すでに寝巻きに着替えていて、もう寝るところだったのかもしれない。

「大丈夫なのかよ。心配だから来ちまったぞ」
「…だ、大丈夫じゃないから、今日はウチに来ないほうがいいと思う…」

そう言って、名前が開けたドアを閉めようとするのを慌てて押さえ込んで、「ちょっ…風邪か?お前どうしたんだよ本当に…」と小競り合い。
名前は「ダメ!」とムキになって必死に中からドアを引っ張って閉めようとするが、力で俺に敵うわけがない。まあ、このまま思い切りドアを開けてやってもいいんだが、こんな玄関先で俺みたいな大男が女の部屋に無理矢理入って行ったなんて通報されてはたまらない。

「いいからとにかく玄関に入れろって!俺、怪しいだろこのままじゃ…」と冷や汗を垂らして必死に粘ると、そこは弁護士である名前、ハッと気付いて力を緩めて、やっとのことで中に通してもらったのだった。

一度中に入ってしまえばこっちのもの。
「あの…これはね…」とモジモジ気まずく顔を伏せる名前を無言で抱え上げて、キャアキャアわめいて抵抗するのをなんとか避けて寝室へ。
ったく、わめいて抵抗する元気はあるじゃねえか…と呆れながらも、モヤモヤ渦巻くのはちょっとした違和感と悔しい感情だ。
俺って、そんなに頼りにならない存在なのかよ?
名前にとっての俺は、体調が悪い時に、少しも我が儘言えないくらいの男なのか?

名前をベッドに優しく寝かせたら、布団で包んでやってから俺も枕を抱えて隣に横たわった。
もっと叱られるのかと思っていたらしい名前は、何もしない俺にすかされて、キョトンと意外そうな顔だ。

「…体調悪いんだろ」と横目で睨んでやると、「…うん、まあ」となんだか濁すようだ。

「風邪なのか?ちょっと前から調子悪そうだったもんな。医者行ったのかよ?」
「…行ってない」
「忙しいだろうが、サッサと行っちまったほうがすぐ治るぞ」

頭を撫でてやりながらそう言う俺を、名前は思い詰めたような顔で見ているので、肩を抱き寄せてやって、腕の中へエスコート。どうしたってんだよ本当に。

「なんか調子狂うぞ。お前がそんなに大人しいと…」と呟くと、「違うの…ごめんなさい」と胸に顔を埋めてくるので「ハア?」と眉をひそめてしまった。

「…あの…病院行くとかそういうんじゃなくて…いま私、アレ、なんです」
「アレ?」

そう声に出して繰り返した俺を顔を赤くしながら慌てて止めた名前は、「だから!…女性の…月のモノ…」と恥ずかしそうに言って、唇をぎゅっと結んでしまった。
そういうことか…と俺もなんとなく気恥ずかしくて頬をポリポリ掻きながらも、「ああ、そうなのか」と至って冷静に返事した。まあ、女のことはよく分からんが、ひどい人はひどいって言うしな。

「…でも別に、それならそんなに隠すことないだろ。これまでだって長く一緒にいるんだから、今そうなんだろうな、って思った時くらいあったしな」と呟くと、ギョッとしたような名前は、そういうの気付くんですか!?みたいな顔で固まっている。

…まあハッキリそう気付くわけじゃないが、身体の関係があるんだし、自分の女のそういうことくらい、段々察してくるというか。俺だってそこまで鈍感じゃないんだがな…と小さく名前を睨んでやる。

「だけど、今回に限ってどうしたんだよ本当に。身体が大変ならこっちに来てやってもいいんだし、会うのを拒否することはねえだろ…」と拗ねる気持ちも半分で鼻を摘んでやると、「なんか、最近忙しかったのもあってか、今回は特にひどくて…」と顔を伏せる。

「だったら余計にだろ。要るものとかあったら買ってきてやるし。自分の男には素直に頼れよな…」と溜息をつくと、泣きそうな顔で俺に抱き着いてきた名前は、「だって…」とつぶやいている。

「何が『だって』だよ」
「…だって…今、私ブスなんだもん…」
「ハア!?」

予想外の言葉に、口をあんぐり開けて怪訝な顔で名前をマジマジと見ると、慌てて腕で顔を隠した名前は「…こういう時ってそうなるんです!肌荒れだって酷いし、髪の毛だってパサパサだし、顔もむくんでて、こんな状態で牛山さんに会いたくない…」と涙声だ。

…なんだか、もしかしてとても可愛いことを言われているんじゃねえか?俺。

『だもん』なんて言って、やっぱりいつもとは様子が違うようだ。甘えモードというか弱気モードというか、いつものしっかりした名前とは違ってグズグズになっているこの様子を見る限り、今回が体調絶不調というのはあながち間違いでもないのだろう。

ていうか、会いたくなかった理由ってそういうことかよ、と判明した理由に俺のほうはホッとしたやらなんだか嬉しいような気持ちやらで、思わずニヤニヤと笑いが抑えられない。
コイツが顔を隠していてくれて丁度よかったな、全く。

突然心臓に刺さった可愛い言葉に、返す言葉が咄嗟に出てこない俺に、名前がさらに口を開いた

「…それに、会っても、……できないし」

…たまにこうやってジジイのツボに刺さることを言うんだよな。こいつ。たまらんな、全く。

「別にできなくても会ったっていいだろ…俺を何だと思ってるんだよ」
「…絶倫の…性豪とか…」
「……」

無言でむぎゅっと頬っぺたを両側から押して抗議してやると、うう…と声を漏らして口を尖らせている名前がやっとまともに俺のほうを見て、気まずそうに眉を下げる。
ま、まあ性欲に関しては否定できないが、嫌がる女を無理矢理抱くほど紳士じゃないことなんてしないんだがな。

それでも弱気な名前を少しでも慰めてやろうと、髪を撫でてやって「だいたい肌荒れとかナントカって言うけどなあ、お前…。別にいつもと全然変わんねえぞ?」と言ったあと、真顔になる名前を見て、ほんの少し言葉を間違えてしまったことに気付いて冷や汗をひとつ。

「…そうじゃなくて、全然ブスになんてなってないってことだよ…」と慌てて呟いて小娘をフォローするこんな姿は、門下生には絶対に見せられねえな。

少しだけホッとしたような名前を抱き寄せたまま、「…セックスだって、別にできないときはできないでいいだろ。したくない時はしないでいいじゃねえか」と言って髪を梳いてやる。
「でも…」と胸に顔を埋めてくる名前に、「俺は全然平気だぞ」と返してやると、ガバっと顔を上げた名前は、俺を見上げて口を開いた。

「…別にしたくないわけじゃない」
「は?」
「…シたいんです…牛山さんと…すごく…」

眉を下げて、涙がこぼれ落ちそうなその瞳は真っ直ぐ俺を見て、小さく開いた唇からは吐息が漏れているので思わずゴクリと生唾を飲み込んで、ムクムク沸き上がる欲情を必死に押さえ込んだ。

「…そういうもんなんです、こういうときって。ホルモンのせいなのか…」
「…ハア」
「でも、生物学的におかしい気がするんです。こういう体調悪くて肌も髪も気分も最悪な時に限って性欲が高まって、一番肌が綺麗でなにもかも調子がいい排卵期には性欲はあまり無くて…。繁殖のことを考えたら、雄を誘うためには排卵期に一番外見が良くなってないとおかしいっていうか合理的じゃないってい…むぐっ…」
「……」

また小難しいこと考えて……と呆れた俺は話半分で名前の口を手で塞いでやる。

「生物学的だか何だか知らねえけど、俺はいつだってお前に興奮できるけどな…」
「…」

苦笑いして寄り添ってきた名前は、気持ちを吐き出して少し落ち着いたのか、やっといつも通りの表情を見せはじめた。

「なんか温かい飲み物でも持ってくるか?」
「…いい。横でこうしててください…」

腕枕してしっかりと布団にくるんだ名前を抱きしめて、温めるようにしてやると、ホッとして力を抜いた名前がゆっくり目を閉じる。大きく息を吐いたあと、スウスウと、ゆっくりになっていく呼吸は眠りに落ちる前のようだ。

まあたまにはこんな夜だっていいだろう。一緒に過ごす夜は、どんな夜だって俺にとってはいい時間なのだから。

「…牛山さん」と小さく囁いた名前が、うっすら目を開けて、俺を見上げる。
「ん、どうした?」
「1回だけキスしてください…」

今にも目を閉じそうな名前に顔を寄せて、その唇に優しくて軽いキスを一つ。
触れ合わせた唇は、いつもはお互いの熱を高め合うものだけど、今日はただ温かいだけのものだ。まあ、こんな愛しさを表してやるには少し足りない気がするけどな。

「…やっぱり、もっとちゃんとして…」と再び目を開けた名前を窘めるような視線で見ながらも、満更でもない俺は名前を無言で引き寄せて、今度はしっかり唇を押し当てる。

小さく開いた名前の唇に応えて、ゆっくり挿入した舌で名前の舌を捉えて、絡ませたその温度はいつもより少しだけ高い。名前が俺の下唇を優しく噛んで吸い付く感触に眉をひそめて、反対に俺も名前の唇を甘く噛んで、舌でなぞってやる。
しばらくそうして深い口づけを交わしたあと、唇を離して目を合わせた名前の表情は、熱に浮かされたようで、潤んだ瞳と上気する頬、熱い吐息が、俺が欲しい、と言っているようだった。

そのまま俺に身体をぴったりくっつけた名前は、泣きそうな表情で俺を見上げて、ぎゅっと切なそうに唇を噛んでいる。

「牛山さん……私…」

…その欲情した表情に、思わず勝手に手は名前の腰を抱き寄せていて、色っぽく開いた唇に三度目の口づけを落とそうとした瞬間、

「…おやすみなさい」

…と、言い放ち、ぎゅっと目を閉じた名前が、俺にくっついてサッサと眠る体勢に入り始める。

「…おやすみ…」

と、返す俺のほうが今度は放心状態だ。
あんな表情見せといて、よく自分の気持ちを切り替えられるな、コイツ…。さすが法の番人とやらだよ。自分を律するのが得意なこって…。

名前を胸元に抱きしめながら、さっきまでのとろけるような名前の表情と、熱い唇の感触と、今日くらった可愛い台詞を全て反芻している俺は、数秒後に無言で起き上がり、ベッドを脱出。

「えっ?帰っちゃうんですか…?」と慌てる名前を見やって、「ちょっと便所」と呟いた。
「…なんか今日、牛山さんがいてくれないと眠れない…早く戻ってきてください…」と切なげに囁く名前に、目線だけで返事して、そそくさと寝室を出た。

すぐ戻るから心配するなよな。多分、今日の俺、「早い」から。

……とは言わないが、やっぱり頑なに俺に会おうとしなかったアイツの見立ては間違っていなかったのかもしれない。

どんなになってるアイツでも、アイツのどんな表情にでも、こうもやられて愛しくなってしまうのだから。
まあそんな気持ちに呼応して元気になってしまう俺の息子も息子だが。

たまにはこんな夜もいいなんて言ったが、ホントにたまにで充分だ…なんて心の中でつぶやきながら、トイレのドアに手を掛けたのだった。



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