07

「好きな人」なんて単語を使えるのは、学生のときだけだと思っていた。
好きな人ができて、告白して、俺たち付き合おう…なんてはっきり言葉にして明確にした手順を踏んで恋人になるなんて、大人になったらあまり無い。

お互いになんとなく意識し合っている相手と、なだれ込むように恋人関係になるくらいのほうがトントン拍子で進むし、大人の恋愛なのだと。

でも、今、私には「好きな人」としか言いようがない相手がいる。

谷垣源次郎。

この時代において、やけに古風な名前のその男は、私の1つ下の後輩である。
部署は同じでチームは別。なのでそんなに仕事でも関わらない。というか、私の仕事は事務的な後方支援がメインで、自分のチームのメンバーなら関わることは多くても、他のチームとはなかなか接点を持てないのだ。

きっかけは、分からない。
何があったわけでも、仕事で助けてもらったわけでもない。ただ、普段の些細な仕草や表情、声や話し方、そんなものが妙に気になって、目で追ってしまうようになったのだ。
また身体も大きいのでよく目立つ。目で追ううちに、視線に気付いた向こうと目が合ってはドキドキして、また目で追ってしまい、さらに好きになってしまう。

まるで中高生の時の、憧れの先輩を追うかのようなその年下の男の子への恋に、大人の私はもう疲労していたのだった。



「おい、谷垣、ちょっとネクタイ締めて」とネクタイを投げるのは、谷垣君のチームのリーダーの尾形さんだ。

長らくのクールビズ期間を経て、どうやらいつものネクタイの結び方をド忘れしたらしい尾形さん。
尾形さんは、同じチームになったことはないけど、とても優秀な先輩だ。厳しくもあるが、こんなおちゃめなところもあるらしい。

先輩の突然の振りに、大きな手でちまちまネクタイを結んで素直に応えてあげる谷垣君をつい見つめてしまう。

「…あの二人、仲悪いんだか良いんだかわかんないですね」と、思わず同じチームの女の先輩に話しかけてしまった。
先輩はコーヒーをすすりながら、「まあ、仲良いんでしょ」と微笑ましく二人を眺めている。

この先輩は、チームの前線部隊の仕事なので、他のチームの尾形さんや谷垣君とも仕事の付き合いがあるし、仲も良い。こんな先輩だったら、谷垣くんのこともかっこよく誘ってモノにするのかな、なんて。

いいなぁ。「オフィスラブかぁ」と、思わず呟くと、先輩はギョッとした顔で、「えっ?!」と眉をひそめる。
まずい、バレそうだった…と慌てて、「いやいや、私のことじゃないですから…」と誤魔化すと、余計に先輩の眉が下がり、何か言おうと口が開く…
と、その前に、慌てて席を立ってコーヒーを入れに行ったのだった。



ある日、チャンスは、唐突に訪れた。
華の金曜日、大きな会議が一つ終わった私たちの部署は、簡単なお疲れ様会を開いたのだ。会はとても盛り上がり、みんなお酒が進んで二次会へ。
谷垣君とは席が近くなることはなかったけど、私も久しぶりのお酒にほろ酔い気分で、楽しい一時を過ごしたのだった。

二次会も終わり、いよいよお開きになり、私はお手洗いに寄ってから遅れて最後に店を出た。みんな帰ったかな?なんて思いながらつっかけたパンプスのかかとを直しつつ店の前の道に出る。
すると、店の前には、待っていてくれたのか、尾形さんと、私の先輩…そして、谷垣くんがいた。

「あ、来た来た。今日はお疲れ様〜」と、ほろ酔いの先輩。
「すみません、待っててくれたんですね」と謝ると、尾形さんが、「家どっち方向だ?時間遅いし、多分俺らのうち誰かは方向一緒だから、複数で帰るぞ」と気を使ってくれる。
そして、「俺と谷垣はこっち」と、右手を指す。

あ…。谷垣くんとは逆か…とシュン、としつつ、「私はこっちです。電車まだあるので」と左手を指す。
「じゃ、私同じだから一緒に帰ろうか」と微笑む先輩越しに、谷垣くんと目が合ってしまい、あ、また見てしまった…と顔を赤くして伏せると、尾形さんが、急にポン!と手の平を打つ。

全員が尾形さんに注目すると、「やっぱ止めた。おい、谷垣、お前逆方向でも名字さんを送っていけ」と、自分より大きい谷垣くんの首根っこを掴んで私のほうに押し付ける。

「いいだろ谷垣?思い出したんだが、俺はこいつに説教することがあるんだ」と、私の先輩の腕を掴んで引き寄せる。
「え?」と怪訝な顔の先輩に、「今日の進行のことだよ。恥かきたくなかったら来いよ。もう一軒行ってやるからそこで話すぞ」と、有無を言わさず歩き出す。
「えっ?!ちょっと、尾形さん!…あ、名前ちゃん気をつけてね、谷垣くん頼むね、また来週!」と、手を振りながら、焦って早足で尾形さんに追い付く先輩。

…あら?なんか、運がむいてきた?
振り返ると、谷垣くんがいつもの真面目な顔で、「名前先輩、大丈夫ですか?さっき、尾形さんが、先輩すごく酔ってると言っていたので…」と一言。

…ん?それほどでもないのにな?と思い、そう言葉を返そうとして、ふと、思った。

…尾形さん、何か気付いたのかな…?

そんな予感で、思わず逆方向を振り返ると、少し遠くなった二人の先輩の姿が見えた。何か話しながら歩く、その二人の距離が、さっきまでよりも近いような気がする。
曲がり角で見えなくなる直前、2人が自然と顔を見合わせて肩を寄せ合ったように見えて、何故かドキっとした。

「…先輩、名前先輩」

谷垣君がボーッとする私を呼んでいた。
「…あ、ゴメン」
「ほんとに大丈夫ですか」真顔でそう聞く、谷垣くん。

その顔をまじまじと眺めていると、想いが込み上げてくる。これは、やっぱり…紛れもない恋だな。
そして、私は数年ぶりのこの純粋な恋心の処理に手間取っている。こんなピュアすぎる片思いを続ける体力と気力が、逆にもう、ない。

………ならば大人の恋愛の始め方とは、と、頭の中の辞書を、猛スピードでめくる。
最後になってもいいから、良い思い出を作らせて?

そして谷垣くんを真っ直ぐ見つめて、一言。

「……大丈夫じゃない…かな。よければ、ウチまで送ってくれるかな?」

送ってくれてもいーよ。くらいのスタンスで、お姉さんらしく一言。私に頑張れるのは、この程度。

眉一つ動かさずに、「もちろんです」と答えた谷垣くんに、ズキッと心が痛みながらも、「…じゃあ、転びそうだから、手、つないで」と右手を出す。
さすがに片眉を上げた谷垣くんだったが、その手を受け取り、渋々だが大きな手で包んでくれる。

手を繋いだまま、私たちは一歩ずつ、歩き出した。


続く。

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