音を掌で掴めたら はちや と ふわ

2010/01/12

「やぁ、サブロー」

店に入るなり赤茶色のひげをたっぷりと蓄えた親父がカウンターごしにいつものように声をかけてきた。中途半端な時間のせいか店の客足はまばらだったが、どれもよく見知った顔ぶれだった。わざわざ老眼鏡を額へと上げて新聞を読んでいる老人、クロワッサンを頬張りながらクロスワードを解いている女性、夜勤明けなのか作業服姿でぼんやりと窓の外を眺めている男性。これもいつもの光景。互いに関心を持ち合わない彼たちはまるで凪いだ海のように静かだった。この中に東洋人の私が増えた時でさえ、特に波風が立つこともなかった。静寂の中にある暗黙の了解と踏み込み合うことのない関係を私は気に入っていた。

「今日は特に冷えるな」
「一日中、雪だとさ」

朝見た天気予報を告げれば親父は「oh」と両手を広げては大げさに呻き、それから私の方にいつも食べてるベーグルとブラックコーヒーを出した。夜を煮詰めたような色のコーヒーからは、つんと酸っぱい匂いが漂っているような気がした。

「マフィンも付けるか? 焼きたてだぞ」
「止めとく。釣りが変わってくるし」

ポケットにねじ込んだままぐちゃぐちゃになった紙幣を押しつければ、親父は不思議そうな面持ちをした。レジスターをいじって「釣り?」とたずね返してきた親父から手渡されたのは、ぴかぴかと光ったコインが1枚と銅褐色の小さなコインが3枚。ペニーの方はカウンターに置きっぱなしの籠に、チップとは別の意味合いで、これまたいつものように、投げ入れる。軽い金属音が響いた。

「電話を掛けるのにな」
「そういや、サブローはよくその前に立ってるな」


親父の視線につられて、俺は店の奥ほどの、トイレの少し前に置きっぱなしになっている公衆電話へと視線を向けた。

「誰に掛けるんだ?」
「雷蔵に」

俺がその町の名を告げれば、親父は鸚鵡返しのように「ライゾニ?」と片言で俺の言葉を真似た。それを「雷蔵、に」と訂正してやれば、親父は面白がって再び「ライゾーニ?」と尋ねてきた。

「雷蔵」
「ライゾ」
「雷蔵」
「ライゾー」
「らいぞう」

何度も繰り返す彼の名は、まるで呪文のようだった。いや、魔法なのかもしれない。その名を口にするだけで、冬の晴れた日の夕暮れの少し前、空がぴかぴかと黄昏に染まって輝いているような、そんなどうしようもなく淋しく、そして温かな気持ちになるのだから。


(遠く異国の地にいる三郎と彼からの電話を待つ雷蔵)




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