∵ 世界史クイズ ・満州事変が起こった年は(1)年で、コレは同時に(2)戦争の始まりでもあります。 満州事変は、関東軍が中国の仕業に見せ掛けて起こした南満州鉄道爆破事件のことです。此の事件は(3)と呼ばれます。 此の事件以降、中国東北地方の大半を占領した関東軍(日本)は、1932年に(4)を建設しました。清朝最後の皇帝(ラストエンペラー!)だった(5)を擁立。(4)の見かけ上のトップとします。 此の日本の動きを怪しく思った国際連盟が(6)調査団を(4)に派遣。 調査の結果、正当なモノとして認められないという報告書が(6)より国際連盟に提出され、日本は(4)の解体を要求されます。しかし、コレに反発した日本は1933年に国際連盟を脱退します。 ・中国国内では蒋介石の国民政府と、中国共産党との内戦が勃発していました。 国民政府との戦いにより、共産党は瑞金を棄てて(1)へと移動していきます。 そんな中国共産党は1935年の(2)宣言で内戦の停止と(3)の結成を提起します。 1936年、中国共産党の(4)が国民政府の蒋介石を拉致し監禁。抗日と内戦の停止を説得します。コレを(5)事件といいます。 コレにより、1937年9月に第二次(6)が成立しました。再び、国民政府と中国共産党が手を取り合ったのです。 ・(1)年より(2)が始まります。 キッカケは日本軍と中国軍が対岸で睨み合っていた時に起こりました。日本軍の一人がいなくなったと日本軍は大捜索。しかしいなくなった一人は見付からず、何故か中国側に連れてかれた等という話になり、日本軍の一人が中国軍に発砲。中国も応戦しました。此の事件を(3)事件と言います。因みに、いなくなった日本兵はトイレに言っていました。頼むから誰かに伝言しとけ。 しかし(3)事件はそう長くは続きませんでした。日本兵も戻ってきたし「なんで戦ってんだっけ俺ら」みたいになって停戦を調印。一段落がついたように思いましたが、困ったことに(3)事件を聞いた日本本国側から(停戦したにも関わらず)中国大陸に援軍を送ってしまいます。お蔭で日中全面戦争に発展。(2)となります。 援軍として来た日本兵達は食糧物資も十分ではありませんでした。其のせいで、軍隊にしては略奪などが少なかった日本兵たちは当時の中国の首都南京で略奪行為を存分に行います。占領もします。関係の無い一般人も殺します。いつだって戦争の犠牲になるのは何の罪もない人なのです。罪ある人もいるけど。因みに此の南京での一連の日本兵の行動は(4)と呼ばれます。 日本側の考えとしては「首都を占領されてしまえばその国は落とせたも同然」なのですが、流石そこは陸続きのおっきな国。中国側は「そこ取られた?うん、じゃあもっと奥に首都移しちゃおっか」と南京から武漢、更には(5)へ首都を移し日本軍と徹底抗戦を繰り返します。因みに日本史でやった援蒋ルートがありますので、中国側が物資に困ることは欠片もありませんが、西へ西へ逃げられてる日本としてはただでさえ物資が少ないのに余計に足りません。日本軍は苦戦を強いられます。 時の日本の内閣総理大臣である近衛文麿は、日中戦争の大義名分として(6)を提唱。 1940年に南京で(7)の親日政権を成立させ(5)政府に対抗しました。 ・一方、世界恐慌後のドイツでは反議会勢力が台頭。 右翼の(1)党と左翼の共産党の図が出来上がります。 (1)党は「ドイツ民族こーーーんなに優秀なんだぜーーー!!」というドイツ民族のっ優秀性を説き(2)人を排斥。とんだとばっちり。他にも(3)条約を破棄したりしました。 1933年、世界恐慌後の不安定な国民生活へ巧みな大衆宣伝を繰り返していた(1)党から、後の独裁者(4)が当選。彼の内閣が成立することとなります。 敵対していた左翼の共産党を弾圧したりしながら、同年に(5)を制定。立法権さえも政府の権利としたのです。簡単に言うと三権分立の権利が全部彼が行使できるようになったとでも思えば。 一党独裁が実現し(1)党以外の政党や労働組合は解散させられることになります。 1934年(4)は(6)に就任。コレで本当のトップとなるのです。 (いいタイミングで(7)大統領が死んでますが、コレは暗殺などの類では無く、普通に病死でした) (1)党が行った内政に有名なモノとして(2)人の排斥があります。同時に反対派の弾圧も行っていました。逃亡した有名な(2)人には(8)などがいます。 1933年に軍備平等を主張して受け入れられなかった為に(9)を脱退。しかしその後1935年に(10)を出して、第一次世界大戦で非武装地帯となった(11)に進駐した。正式にロカルノ条約破棄に繋がった。 (ロカルノ条約…ドイツの(9)に入るキッカケになった条約) ・1935年、イタリアは(1)に侵攻。翌年には(1)を征服(イタリアは第一次世界大戦後の、植民地や資源を「持たざる国」だったため)。征服の翌年には、イタリアも国際連盟を脱退しました。 ・1936年からスペインでは内戦が勃発。此れは第二次世界大戦の前哨戦と言われます。 同年(1)内閣が成立。(1)とはファシズムや戦争に反対する全ての勢力のことです。 同年モロッコで(2)将軍が反乱を起こします。彼の援助をしたのは(3)や(4)といった後の枢軸国の柱となる国でした。反対に(1)側を援助したのは(5)や国際義勇軍と呼ばれる者達でした。イギリスやフランスは(6)政策を取っており、彼の反乱には関与していませんでした。結局マドリードが陥落し(2)将軍側が勝利を収めました。 ・スペイン内戦において、フランコ将軍を援助したドイツとイタリアによって、ベルリン=ローマ枢軸が1936年に結成されます。同年には日本史でやっていますが、日本とドイツで日独防共協定が締結。コレら二つの要素が相重なって、1937年に(1)が成立することになります(因みに日本は日中戦争を始めた頃です)。 三年後には、コレが日独伊三国同盟となるのです(日本史ではコレを、日独伊三国軍事同盟として習っていますが同じものです)。 ・1938年にドイツは(1)を併合。その後、チェコスロバキアを圧迫し、ノリにノってるドイツは(2)地方の割譲を要求。そのことについて1938年に(3)で(3)会談を実施。イギリスの(4)の(5)政策によって、ドイツの(2)地方の割譲を容認することになりました。 背後の安全確保のために、ドイツは1939年に(6)をソ連と締結。 そして同年にドイツ軍は(7)へ侵攻。イギリス・フランスの対独宣戦もあり、ヨーロッパにて(8)が開始されました。 ・1939年のポーランド分割、フィンランドに宣戦などして、ソ連は国際連盟から除名されます。翌年には(1)を併合。 ・1940年、フランスへ侵攻したドイツは(1)をしました。 其れに対抗しようと、ロンドンへ逃げた(2)はそこで亡命政府を展開。一方、フランス国内では(3)と呼ばれる対独抵抗運動が行われていました。 (2)が逃げたロンドンを主都とするイギリスは(4)の内閣が成立。(5)の上陸を阻止しようとします。 ・(1)が開始。 ドイツがバルカン半島に進出したことで、ドイツとソ連の関係が悪化。 追い打ちをかけるように(2)年6月、ドイツはソ連に侵入します。因みに同年4月に日本はソ連と、北方の安全確保のために(3)を締結しています。 ドイツはかねてより行っていたユダヤ人の排斥が悪化。ユダヤ人を(4)などの強制収容所に連行していき、毒ガスなどで大量殺害を行いました。 ・日本は日中戦争の長期化と、中国共産党軍のゲリラ戦などで苦戦を強いられ、国力も消耗していました。アメリカから石油などを止められている為、東南アジアへの進出を企図し、1940年9月に(1)の占領に成功します。同じ頃(2)同盟が結成され、翌年にはソ連との間で、北方の安全確保を兼ねて(3)を締結。其れもあって同年7月に(4)も進駐することに成功します。 1941年、連絡の行き違いにより奇襲という扱いになってしまったが、日本は(5)を攻撃。コレにより(6)が開始された。そして此の戦争の大義名分として(7)を唱えた。 翌年(8)島での(8)海戦で大敗し、そこから戦局が流転。日本は敗戦続きになっていく。 ・独ソ戦でもっとも大きかった戦いは1942年の(1)である。此の戦争でドイツは敗北。ドイツの戦況もここから敗戦へと流転していった。 1943年には(2)が降伏。ムッソリーニは処刑された。 連合軍史上最強の作戦と言われたのが(3)である。コレは1944年に行われたモノで、これによりドイツ軍の占領下であったパリが解放された。その後ベルリンが陥落。1945年5月に無条件降伏した。 日本は同年8月にアメリカより広島・長崎に落とされた原爆により一層困難を極めた。8月8日にはソ連が日ソ中立条約があるにも関わらず、(4)により対日参戦。 同年(5)に(6)を受諾。日本の無条件降伏が決まった。 ・1941年、アメリカの(1)とイギリスの(2)によって、大西洋会談が開かれる。そこでは(3)を発表。領土不拡大、民族自決、軍縮、平和機構再建などが掲げられている。 1943年、アメリカの(1)とイギリスの(2)と中国の蒋介石によって、インドの(4)にて(4)会談が開かれた。そこでは、(4)宣言で対日処理を決定した。 同年、アメリカの(1)とイギリスの(2)とロシアのスターリンによって(5)が開かれた。コレは連合軍史上最大の作戦であるノルマンディー上陸作戦を決めた会談でもある。 1945年、アメリカの(1)とイギリスの(2)とロシアのスターリンによって、クミリア半島の(6)にて(6)会談が開かれた。そこではドイツの無条件降伏や(7)の対日参戦をを決定した(6)協定が結ばれた。 同年、アメリカのトルーマンとイギリスのアトリーとロシアのスターリンによって、ベルリン郊外の(8)で(8)会談が開かれた。そこでは、日本の無条件降伏を勧告する(8)宣言が出された。 ・戦後、大西洋会談において出された大西洋憲章は(1)と名を変えて出された。コレにより(2)が1945年の10月に発足。安全保障理事会には五大国があり、其の五大国には(3)が認められた。 国際経済として(4)があり、略称が(5)の国際(6)と、世界銀行と呼ばれる国際(7)が出来た。 ・(1)の開始。大戦末期からの米ソの対立によるもの。 ソ連を中心とする(2)主義諸国と、アメリカを中心とする(3)主義諸国の対立。 アメリカは、対ソ(4)政策を行い、ソ連の拡大を防ぎました。 (5)と(6)が其の例です。(5)はギリシア・トルコへの共産主義の進出を阻止し、ソ連の拡大に対抗する(4)政策を宣言したこと。(6)は国務長官がヨーロッパ経済復興援助計画として発表したもの。 其れに対し、ソ連側は共産党情報局と呼ばれる(7)を結成したり、略称がコメコンである(8)を開いたりした。 2014/01/29 19:37 Wed comment (0)│日常 |