不審者
日は完全に沈み、月の薄明かりが照らす校舎。その中の一室である生徒会室では茶の湯気がゆらゆらと揺らめいている。ぼうっとしたまま嗅ぎ慣れた香りを吸い込んでいると正面に座る先輩がふと顔を上げて口を開いた。
「話すのはだいぶ慣れてきたみたいだな」
「本当ですか?」
「あぁ。間違える回数がだいぶ減った」
食事が終わり他愛ない会話の最中告げられた言葉に眠さで重かった瞼が強く開かれる。方言と過剰な敬語無しの会話を続けてきた成果。それが出てきたという事か。
嬉しさに口がにやけ、はしゃぎそうになる。そんな俺を見て目を細めた先輩は、しかししっかり釘を刺してきた。
「まだまだ固いがな」
「……ですよねー」
湯飲みに口を付けて言う先輩に上げていた拳を下ろす。ガッツポーズをとれるのはまだまだ先らしい。……頑張ろう。
一人黄昏ているとしかし、という声がした。
「少し残念だな」
「何がですか?」
「お前の方言が聞けなくなるのが」
思わぬ言葉に暫し瞬く。どういう意味かと考えて、浮かんだ発想に自然渋い顔になった。
「……訛って慌てふためくのを見れなくなるのが、って事でしょうか?」
「よく分かったな」
クスリと笑う先輩にがっくり肩を落とす。基本良い人なんだけどたまにちょっと意地が悪い。
「酷いですねー」
「ふ、そうか?」
「まさか肯定されるとは思いませんでしたよ」
「そうか。……いや、そうだな……。気安く感じてくれている事なのだと思うと勿体無いというのもあるぞ」
「そうなんですか?」
まぁ気安いからこそこうして練習に付き合ってもらっている訳で。それを勿体無いと感じているという事は先輩も気安く思ってくれているのだろうか。そうだったら嬉しいな。
つい笑いそうになっていると、先輩が顎に手をやり何か考え始めた。眺めている途中、その表情がちょっとだけ変化したのに引っ掛かりを覚え首を傾げる。
「……先輩」
「ん?」
「何か企んでらっしゃ、……企んで、ます?」
「企むって何だ」
失礼な、と足を組み替える先輩をジッと見返す。不躾とも言える視線を受ける先輩はどこまでも涼しい顔で。一瞬見えた笑みは気のせいかと思わせられるが、妙に気になる。
けれど、気にはなるが目の前で湯飲みを傾ける先輩は目を細めて見てくるばかりで何も話してくれそうにない。これは何を聞いても無駄だと諦め鞄を手に取る。もうそろそろ帰る時間だ。
荷物を纏め湯飲みを洗い扉前に立つ。掌を軽く上げて振る先輩に同じように返して退室した。明るい部屋から仄暗く感じる廊下に移り、毎度の事ながら小さな恐怖を感じながら歩みを進めた。
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いつものように裏口からそっと忍び出る。自動で掛かる鍵の音を耳にしてそこから離れた。誰かに見られぬよう明かりを付けられない為外に出るこの時が地味に一番怖い。注意深く辺りを窺って人の気配がしない事を確認し、漸く詰めていた息を吐いた。ポツポツと外灯が立つ舗装された道に出ると背を伸ばしてしっかりとした足取りで寮へと戻る。風紀の腕章は付けているし、ここまで出たら寧ろ堂々としていた方が怪しまれない。
今日は月が明るいから普段より安心して歩けるな、とホッとしながら何となく夜の景色を眺めていると、視界の端で何か動いた。ビクリと肩が跳ね思わず体ごとそちらを見る。緊張に音を立て始めた胸に鞄を押し付けよくよく目を凝らしてみると。特別棟の玄関から少し離れた壁際。そこに、誰かいる。
ゴクリ、と乾いた喉に唾を飲み込むと意を決し、声を押し出した。
「風紀委員です。そこにいるのは誰ですか?」
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