おしゃべり
夕方という時間も過ぎて暗くなった校舎へ足を踏み入れる。とっぷりと闇に包まれた校舎は東雲君と通った時よりも不気味さを増していてかなり恐い。だからって恐がりながら進むのは間抜けだし人に見られたら怪しまれるので堂々と背筋を伸ばしつつ進む足を早めた。
若干息切れ状態で辿り着いた部屋の前で少し緊張したままノックをして名乗ればややあって扉が開かれる。ノブに手を掛けたまま優しく目を細めた先輩を見てやっと肩から力が抜けるのを感じた。
「なぁ吉里」
「はい」
「お前は同級生とも敬語で話しているのか」
それにはい、と返して訝し気な顔をした先輩を見上げる。ひょっとして書類持ってきた時に感じた視線の理由はこれかな、と思いながらコトリと湯飲みを置いた。
「えーっと、せ……会長は俺と初めてお会いした時の事覚えていらっしゃいますか?」
「……あぁ。一般生徒が来ない筈の場所に電話をしながら歩いて来たんだったな」
「え?」
何それ初耳なんですけど。そう言えば役員とか一部生徒にしか解放されていない区域あるとか地図貰ったな。え、そこ入ってたの俺。
「まぁそれは気にしなくて良い。それで?」
「えっ?えぇっとそれで……。あー、俺が方言で話していたというのは……?」
「あぁ、あったな」
良いのか?いや過ぎた事だしバレなきゃいいか?今なら風紀だから一応一般じゃないしいいよね。たぶん。
さっき見た天蔵先輩の怒りの形相が頭に過り、背から首にかけ毛が逆立ったような感触がしたのを撫で付けながら話を進める。
「えーっと、普通に話すと訛りが出てしまうので敬語を使っているんです」
「にしても同級生相手に少し堅苦し過ぎないか」
「……ちょっと気を付けるという程度で収まるものじゃなくてですね」
地元では家や友人は勿論、教師相手にも方言+ですますで話していたから方言を使わない時なんて滅多に無かった。そんな感じで方言が日常的過ぎて気を抜けば確実に訛る。流石に尊敬語やら謙譲語みたいな堅っ苦しいのを使う時には出ないようなので活用中、という感じ。それでもたまにイントネーションが変なのか首を傾げられる事があってハラハラしているのだが。
「なら学園では誰かと話す時いつも気を付けている、という事か」
「そうなりますね」
「それじゃ疲れないか?」
「まぁ……それなりに」
自室かたまに掛かる家族からの電話くらいでしか気を抜けないとなると確かにキッツい。でもバレたくないのだから仕方無いと諦めている。
苦笑していると先輩は何か考えるような顔で首を傾げた。
「少しくらいなら大丈夫なんじゃ……」
「……ちょっと素で話させていただきますが、ちっとでん気ば抜くとしゃがなこぎゃん感じで直ぐ訛ってしまうとですよ」
(「……ちょっと素で話させていただきますが、ちょっとでも気を抜いてしまうとこんな感じで直ぐ訛ってしまうんですよ」)
「……凄いな」
「……でしょう?」
驚いた顔をする先輩に苦く笑って返す。……ちょっと語尾変えるくらいでここまで訛るつもりなかったんだけど。これはいかん。どんだけ訛ってて、そしてどんだけ素になれない鬱憤溜まっていたんだ俺。
ペシペシと軽く頬を叩いて気不味さを払う。そして天井を見上げて呟いた。
「少しずつ直していこうと思ってはいるんですがなかなか思うようにいきませんね……」
入学して一向ガチガチの敬語しか使っていないからいつになっても自然に話せる気がしない。だからといって敬語抜きで喋ろうとすると直ぐ方言が出る。これじゃいつまで経っても友達とタメ口でなんて喋れないって事は分かっているのだけれど、そうそう容易に標準語だけを話せない自分の訛りの筋金入りっぷりはどうしようもなかった。段々それに慣れてきたし、このまま敬語オンリーで卒業まで過ごしてしまいそうな気もする。本当は友達と何にも気にせず普通に喋りたいんだけどな。その普通が出来ない訳だけれども。
はははー、と頭を掻いて乾いた笑いを溢していると何事か考えていた先輩が口を開いた。
「……なら俺と話す時は丁寧語までにしろ」
「へ?」
「お前が方言を使うの知っているんだからうっかり出ても問題無いだろう?練習と思えばいい」
「え?なん……」
「そもそも一つ違いにも『させていただく』なんて、普通は使わないだろう?」
「まぁ、そうですけど……」
練習、か。
一人部屋でブツブツ話すのは精神病みそうで途中で止めたし、家族相手にやろうにも時間無いし。て言うか最近電話自体が嫌いになっているし。事情を知っている先輩が練習相手になってくれれば確かに助かる。しかし今、学園一多忙を極める彼に俺の世話までさせる訳にはいかないよなぁ。
等という思考を遮るようにあぁ、と先輩が声を上げた。
「俺には気を使わないで良いから」
「ですが会長、」
「あぁ、後それも」
「はい?」
「こうして話している時くらい『会長』ではいたくないな」
「あー……」
なんだ、一発目言った時何も言われなかったからこれで良いのだと思っていた。つい最初に会った時のノリで先輩呼びをしていたけれどこれ一応親衛隊の人、と言うか主に葵君の事考えたらあまりにも畏れ多いんじゃないかって考えたんだけど。プライベートの時間も役職名で呼ばれるのは嫌か。まぁ嫌だな。でもなぁ……。
「色々考えているのはわかるが、お前が気を使わないでいてくれる方が俺も気を使わないで済むな」
「……分かり、ました」
「よし」
確かに気を使っている相手には対応する方も気を使ってしまう。休んでほしくて来ているのにそれでは本末転倒だ。
首を縦に振ると満足気に頷かれた。少し気後れ感が残るがどうせ外で話す事は無いのだから誰に聞かれる事もないよね。と思う事にする。それに。
「ありがとうございます」
要は気を抜いて良い、と言ってくれているのだ。その行為を有難く受け取ろう。
やっぱり良い人だなぁ、と緩む口に湯飲みを押し付けていると先輩が不意に手をヒラリとこちらへ向けた。
「じゃあどうぞ?」
「……」
いや、どうぞって。え、何が?
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