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Drowning in love  




 わからなくもねえな、と、私の腕に包帯を巻きながら、彼はそう呟いた。ぐるぐるぐるぐる、慣れた手つきで巻かれていく包帯をじっと見つめていたら、それは彼の手元にあった鋏であっけなく断ち切られてしまう。包帯を巻くくらい自分でできますよ、と言っても良かったけれど、彼の様子があまりに真剣で、なかなか言い出せなかった。自分が少し怪我をしても「舐めとけば治る」と言い張る彼が、私のさほど大したことのない小さな切り傷一つにこだわるのも、考えてみればおかしな話だ。一人でこっそり手当をしようとしていたところを見つかったのも、怪我の理由を話さなければならなくなったことも、こちらとしては困った展開だった。何せ、これは不注意というよりは私が望んでできた傷だから。自傷ではないにせよ怒られるだろうと思っていたから、「わからなくもない」という彼の言葉に、少しだけ驚いた。
「…わかる、っていうのは……」
「お前があいつをかばった気持ちも、あいつが焦る気持ちも、どっちも」
 そう答えたときの彼の表情は、いつもより落ち着いているように見える。それこそ不自然なくらいに。
「清盛さんも、元の世界に戻りたいとか…仲間に会いたいとか、思ってますか?」
 欲を言えば、そんなことないと真正面から否定してほしかった。我ながら嫌になるほど自分勝手な考えだと思う。私は自分が元いた世界に戻ることを諦めていないのに、彼には諦めてほしいだなんて。
 そのような私の小さな思惑を知ることもなく、彼は「そうだなあ」と顎に手を当てて考え込み始めた。いつも底抜けに明るくて周りを振り回す人と同一人物とは思えないほど真剣な眼差しに、不意にどきりとする。そんなことあるはずがないとわかっていても、本当は彼は私のこの浅ましい気持ちも見透かしているのでは、と怖くなってしまう。知られているのに知らないふりをされることほど恐ろしいことはない。彼に限ってはありえない可能性とはいえ――私がそうして不安になっている間に彼が出した答えは実にシンプルなものだった。
「そりゃあ、戻れるもんなら戻りてぇよ」
 以上も以下もない。簡潔に告げられた答えは、不思議と胸にすっと入ってきた。
「そうですね。ずっとこのままでいいなんて、誰も思ってないでしょうし」
「いや、俺はこのままでもいいぜ」
「え?」
 予想していなかった言葉に驚いて顔を上げれば、にやりと笑った彼と目が合う。視線を外すことなどできない。
「お前とずっとここにいるのも悪くねえ。でも、それとこれとは別の話だろ? 俺だって他の奴らだって、どこにいようが誰といようが、根っこにあるもんは同じなんだよ。天下だの名声だの地位だの…そういうことばかり考えてたから、ここにい続けたら、自分が自分でいられなくなるような気がする。だから、戻れるなら戻りてぇ…って、要するにただの我儘だな」
 なんてことのないようにそう言ってけらけらと笑う彼を見て、一つ確信した。私はこの人に一生敵わない、と。
「戻れるなら…ですか」
「ん。まあ、なるようになるだろうし」
 やけにあっさりとした言葉の裏にある意味は、考えなくてもわかる。彼は元の世界に戻ることをこれっぽっちも疑っていない。このまま何年、何十年とこの世界にいることになるとしても、いつかは戻るだろうと思っている。焦りもつらさも、そこにはない。あるいは「ない」と思い込んでいるのかもしれない。ついこの前までの私がそうだったように。
 私と彼がいるべき場所は、いるべき世界は、決して「ここ」ではありえない。本来なら交差することなど考えられないほどあらゆる意味で遠い人だったはずで、それを悲しいと感じるのはおかしいことだ。だから、勘違いをしてはいけないと自分に言い聞かせ続ける必要がある。こうして彼が私と話して怪我の手当てをしてくれることを、当然だと思わないように。
「寂しいか?」
 だから、彼のその言葉に咄嗟に何も返せなかった。頷けば、彼はきっと優しい言葉をくれる。私の我儘を受け入れてくれる。そうしてまた、淡い期待を抱いてしまう。このままでずっといられたら。彼と一緒に。彼の隣に。でも、そんなことはあってはいけない。寂しくないです、大丈夫です、と言って、彼と自分を騙さないといけない。温かい彼の眼差しも、私の手を労わるように包み込んでいる無骨な手も、私だけのものではありえないのだから。
「……いいえ、全く」
「お前ってほんと、嘘が下手だよな。そんな顔で言われても説得力ねぇよ」
「放っておいてください」
 からかうような彼の調子に居心地が悪くなって、思わずふいと顔をそむけた。子供みたいだと我ながら呆れる。それでも彼は私の態度に気分を害した風もなく機嫌良さそうに笑っていた。
「そう不安がらなくていいぞ。ちゃんと約束してやる」
「約束?」
 あまりぴんときていない私に構わずに彼は包帯が巻かれた私の手を軽く取って、その指先に口づけた。瞬時に彼の唇が触れた部分と、頬が否応にも熱くなる。どうして、と尋ねる間さえないほど、いつもと同じく彼のペースにはまっている。何も言えずにただ彼を見つめると、それに応じるように彼が口を開く。
「俺は絶対お前を置いて行ったりしない」
 真っ直ぐな瞳に、惹きつけられる。彼が嘘をつくような人ではないとわかっているからこそ、逃げ道がなくなってしまう。私だけが特別なんだと、錯覚してしまう。
「…何、言ってるんですか。さっき、『戻れるなら戻りたい』って…」
「お前こそちゃんと俺の話聞いてたか? 『お前を置いて』戻りたいとは一言も言ってねえぞ」
 これまたあっさりと返される言葉があまりにもストレートで、ずるい。諦めようと何度も試みた私の努力も我慢も、その一言で跡形もなく消えるのだから。
「もし私が嫌だって言ったら、どうするんですか?」
「お前が本気なら諦める。でも、嘘ついてんなら引きずってでも連れてく」
 言っていることはそれこそ暴君なのに、拒絶する気持ちなど欠片もわかずに、胸が温かくなる。私の勘違いを、自分だけが彼の特別だという錯覚を、守ることができるのは彼だけ。彼が壊さない限りは、私はつかの間の夢に浸っていられる。
「ところで、さっきのあの…あれは」
「え? ああ、西洋ではああいう風にやるのがしきたりなんだろ? ピカソから聞いた」
「……そうですか」
 ピカソが彼にからかい半分で教えたのかは私の知るところではないけれど、絶対こうなることを見こして教えたに違いない。余計なお世話と文句の一言でも言いたいところだけれど、いまだに速まったままの鼓動が落ち着く気配はなく。
『お前を俺の女にしてやる』
 さほど本気にしていなかった言葉まで、今になって熱を持ち始める。


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