夜の香りが好きだ。繁華街の通りを歩くと漂ってくるお酒の香り。脂っこそうな食べ物の香り。そして、仕事終わりにスターレスから出て来た晶の、タバコとお酒と香水の入り混じった香り。
「お疲れ様」
「お疲れ! ってかほんと今日も疲れた〜」
私を見つけるなり目を輝かせて駆け寄ってくる晶は、投げたフリスビーを持ってくる従順な犬みたいでかわいい。いつものように彼が私に抱きついた瞬間、彼の匂いに包まれる。
「どうする? 何か外で食べる?」
「んー、今日はいいや。お客さんにもらったお菓子でお腹いっぱいだし」
「仕事中に食べてたの?」
「いやいや、仕事あがって出てきたら『差し入れです!』ってもらっちゃって。『今食べてください』って必死に頼まれちゃったら、男として断れないよねえ」
私の前で他の女の子の話をすることを、晶はためらわない。こんな女の子に声をかけられた、とか、最近プレゼントをもらうことが増えた、とか、いちいち細かく報告してくる。
律儀というよりは、わざと私に嫉妬させたいだけなんだとわかってからは適度に流している。何も考えていないようでいて、晶は案外人の感情の機微に聡い。
「そう。良かったね」
「ま、それはいいんだけどさ。舞台はやっぱ大変だったな。黒曜は自分の思ってる通りにしたがるし、モクレンはモクレンでそれに反発しちゃうから。お客さんはそのあたりわかってて来てる人も多いから、あんまり気は遣わなくていいけど」
「晶は?」
「俺? 俺はもういつも通り歌ってキャーキャー言われてたよ。すごいでしょ」
「あ、そう」
「冷たーい」
「それこそ『いつも通り』でしょ」
「はは、言えてる」
そんなとりとめのないことを話しているうちに、マンションの近くの交差点まで来ていた。
晶が働いているショーレストランから歩いていける距離に私が住んでいるのは偶然だけど、彼が私と付き合っている理由の一つではあると思う。要は「都合がいい」ってこと。
彼の態度からして、他に彼女がいてもおかしくない気はしている。でも、いたとしても、私は気づかないふりをして彼のそばにいようとするだろう。
「ねえ、明日昼までいてもいい? 出る時は鍵閉めとくから」
「いいよ。好きにすれば。私は仕事行ってるけど」
「やった」
泊まりたい、と晶が言うときは大抵スターレスがうまくいっていないのだと知ったのは最近のことだ。彼は軽い調子で「そろそろやばいんだよね、店」とか「明日になったら俺ら、店ごと消されちゃってるかもー」なんてことを口にするから、私にはなかなかその深刻さは伝わりづらい。
ステージの裏のことについてはそうして晶の軽口としてたまに聞くけれど、晶自身がどう思っているのかはわからない。不満があるのか、ないのか。チームについても、スターレスについても。
私は彼のことを何も知らない、という気持ちになることがたまにある。彼がくれる言葉にも、視線にも、奥底に私の知らないものが潜んでいるような、心許なさがあるような、そんな感覚。
横を歩いている今も、彼が何を考えているのかなんてわからない。
「あー、寒っ。さすがにマフラーなしじゃきついかも」
「大丈夫? もうすぐだから、っ」
晶の方を見て視線が合ってからの数秒にも満たない間、最初から決まっていたみたいにされたキスは、お決まりの少し苦い味がした。
「……外ではやめて」
「そう言われたらしたくなるもんなんだけど」
「ダメなものはダメ」
「けちー」
ぶーたれている晶を置いて歩みを進める。自分でも顔が赤くなっているという自覚はあった。巻き込まれないようにしようと思っていても、いつだって気づけば彼のペースになっている。
彼の考えていることはわからない。でも、わからないままでいい。このまま、晶に振り回され続けるのも、それはそれで、悪くないような気がするから。