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ラストピリオド  




*成人済
*倉持が結婚した日の話









 部屋に入って、彼がハンガーにコートやスーツのジャケットをかけ終わるのを待っている間、きっと私は何も考えてはいなかった。
 彼のことも、自分のことも、ましてこれからのことなんて、全く。からっぽの頭。何か考えていたなら、そもそも彼とホテルに来ることはなかっただろうし。彼もそれはわかっているから、ベッドの端に座っている私の横に腰を下ろしても、何も言おうとしなかった。
 ただ、息が一瞬止まるほど、強く抱きしめてきた。せめて何か言ってくれれば逃げ場もあるのに、何一つ言葉なんてなく。

「…御幸くん、痛い」

 小声で抗議すると、ようやく「ごめん」と一言返ってきた。緩くなった力にほっとしたのもつかの間、御幸くんは私をまっすぐ見つめて、「先に謝っとくけど」と言った。

「もう遠慮しないから」
「今までむしろしたことあった?」
「こうやってホテルに連れ込まない程度にはしてた」

 彼が言うことのどこまでが本当でどこからが嘘なのか、私にはいまだによくわからない。私のことを好きだと言っていても、本当にそうなのかなんて彼しか知らないし、仮に全く好きでもなんでもないとしてもそれを偽って私を抱くくらいのことはできるだろう。そんなことをする理由があるのかと聞かれれば困るけど。
 高校を卒業して、私も大半の卒業生と同じように大学に進学し、ありきたりな大学生活を送っていた。一方で、御幸くんは部活の功績を引っさげてそのまま野球選手の道を選んだ。でも彼がどういうことを考えて、悩んで、その道を選んだのか私は知らない。ありていに言えば、興味がなかった。彼は私にとって、ちょっと厄介なクラスメイト以上の存在ではありえなかったのだから。
 今も、根本的には何も変わらない。彼も、私も。

「私じゃなくて、他の女の子を好きになったらよかったのに」
「それはお互い様じゃない?」

 御幸くんの手がうなじのあたりから下りてきて、ワンピースのホックを外す。他人に触れられる感触にぞわりとしながらも、どこか冷静に今の状況について考えていた。この部屋に入った時にはもう決まっていた流れ。
 私に触れているのはまぎれもなく御幸くんなのに、頭の中を占めているのは別の人だ。もう数年会っていなかったはずなのに、いつまで経っても私の感情を揺さぶる人。
 諦めようと何度も思って、どうしてもできなかった。幸せそうなあの人の表情と横に立っているありふれた名前の花嫁を見てなお、私の中にはどうにか理由をつけて「彼」を好きなままでいたがる最低な気持ちが残っていた。

「……好きだよ」

 私の身体に触れる御幸くんの手の冷たさは、これが現実なんだと突きつけてくる。これまで見て見ぬふりをしてきた私の本心も、捨てきれない迷いも、御幸くんはわかっているはずなのに、責めることはしない。でも、もう昔のように流してはくれない。

「どうして、私なの」
「好きだから」
「…私は、好きじゃない……」
「知ってる」

 御幸くんはあっさり頷く。今さら、とお互い思っているのは承知の上。

「お前がいつまで経っても倉持のことしか考えてねえことも、今でも俺を全然信用してないことも知ってる。どうせ今日だってただの気まぐれとかだろ? ちゃんとわかってるよ」

 ちょっと奮発して買ったために私には不似合いなほど煌びやかに輝いているイヤリングやネックレスに、御幸くんの手が触れる。きっと彼は私がいつもより手間暇かけて着飾ってきたことに勘づいている。私が諦めの悪い女だと、彼は誰よりもよく「わかっている」から。

「でもさ、それではいそうですかって割り切って付き合えるほど、人間できてねーの、俺。何かの間違いでもいいから俺のことちょっとくらい好きになってくれないかなって思ったりするわけ。そういう俺の面倒くさいとこ、知ってるだろ」
「……うん」

 面倒で、諦めが悪くて、扱いに困る。彼の気持ちを無視し続けることは、私の未来永劫叶うことのない気持ちを壊さないための当然の選択であるはずだった。
 でも、もういいや、と頭の中で自分の声が響く。想いが叶う可能性が今日をもって完全になくなったのなら、どこにどう転んだって無意味だ。

「好きだよ、名前。好き好き大好き超愛してる」

 わざと陳腐な言葉を吐いて私の迷いを苦笑いに変えてくれる彼の優しさを、拒み続けるのもやめてしまおう。それで何かが変わるのかはさておき、一時でいいから自分のずるさを許されたかった。
 ワンピースに、イヤリング、ネックレス。あと、とっくに脱いでその辺に放ったパンプス。御幸くんが剥がした装飾品はもはやただの記号になっている。じゃあ今の私は? ただの女。大事にしすぎた恋を諦めるしかなかった、ただのみじめな女、という記号。そんなものを愛してるだなんて言える彼を、羨ましくも、また憎くも思う。彼の背中に腕を回して、唇を重ねる。息する間もなく何度もされるキスの苦しさが、このままずっと永遠に続けばいいのにと願った。


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