dream | ナノ


はじまりのおわり  




 意識しなくとも耳に入ってくるシャワーの音をBGMにして、私はベッドに腰掛けて本のページをめくっていた。部屋も身体も温まっているせいでひどく眠い。気を抜いたら閉じてしまいそうになる瞼を気合で押し上げながら、集中できるはずもない読書を続ける。普通じゃない状態に陥った時、人は必死で平静を装おうとするものだ。今の私みたいに。
 私が腰かけているこのベッドはふかふかとして寝心地がよさそうだし、間接照明で薄暗い部屋の中は静かで、落ち着く。でも、本当の意味でリラックスはできない。慣れている自分の部屋でなく、ホテルで、しかも一緒にいるのは――

「まーた読んでんのかよ、本」

 こんがらがり始めていた私の思考をすぱっと断ち切ったのは、ちょうど私が思いを巡らせていた人だった。乾き切っていない髪をタオルでがしがしと豪快に拭きながら、呆れたように私を見る。その眼差しは高校の頃から変わっていない。
 倉持くん。
 彼は私にとって、高校の記憶のほとんどを占める思い出の人であり、どういう因果でそうなったのか、今では恋人でもある。同じ趣味があるというわけでもなく、同じ進路に進んだわけでもない。同級生に「倉持くんと付き合ってる」と言ったら驚かれること請け合いだ。今さら、言うつもりなんて微塵もないけれど。
 確かなのは、私が彼のことを好きで、彼もどうやら同じらしいという、ただそれだけ。

「だって…暇だったから」

 苦し紛れに口にした言葉は、もちろん嘘。暇どころか、なんでもいいから何かで気を紛わせていないと、部屋から飛び出してしまいそうだった。落ち着くわけがない鼓動をどうにか平常時に戻そうと虚しい努力を重ねたというだけの話だ。
 そんなことは彼にはお見通しらしく、目を合わせようとしない私の隣にわざと座って、本を取り上げた。本屋で何となくピンときて買った文庫本。

「緊張してたんだろ、どうせ」
「……ごめん」
「ここで謝んのかよ」

 私の言葉に対しておかしそうに笑う倉持くんを見ていると、さっきまでガチガチに強張っていた身体と心が少しほぐれる。異性と二人きりでホテルの一室にいる意味を知らないほど子供じゃないとはいえ、なんでもないように振る舞えるほど大人でもない。

「一応聞いとくけどよ、その」
「……?」
「初めてだよな?」
「…………うん」

 はっきり答えるべきか一瞬考えたものの、見栄を張ったところで仕方ないので正直に頷いた。高校を卒業して、特に迷うこともなく都内の大学に進学した私は、多分望めば他の男の人とそういった経験をすることもできたのだろうけど、そんな気にもならず新歓やサークルや授業などでのフラグを全てスルーして今に至る。
 倉持くんは私の大学生活(というか異性関係)をかなり気にしているらしく、たまに会うたびに「変なヤツに絡まれたら言えよ」とぶっきらぼうに心配してくれた。どうやら私が自発的に浮気するよりも、強引な人に迫られたら断りきれないんじゃないかとかそっちの方を懸念しているようだ。
 それは確かにその通りだと思う。倉持くんと付き合いだしたのも、気迫に負けてOKをしたところもあるし。

「あー、だよな。っつーかそうじゃなかったら相手ぶっ飛ばす」
「倉持くん……」

 照れを隠すように乱暴な言葉を呟く彼の手に、そっと自分の手を重ねる。温かくて、私より大きくて、日に焼けた手。
 ちらりとそれを見てから、倉持くんは何も言わずに触れるだけのキスをした。

「名前で呼べよ、今くらい」

 付き合い始めてからこのかた、私が彼の名前を呼んだことは片手で足りる回数しかない。当然知っている彼の名前を、平然と呼ぶことなんてまだできそうもなかった。今だって、まっすぐに私を見つめている彼の目を見て、口を開くだけで頭が沸騰しそうになっている。

「…………よ、洋一くん」

 たった数秒が数時間にも感じられる沈黙を経て、「っあー…くそ」と倉持くんが小さく呟く。怒らせてしまったのかと不安に思う私をよそに、彼は首にかけていたタオルを隣のベッドに放って、私をゆっくり抱きしめた。

「えっと……どうしたの?」
「わかんだろ」
「あ……」

 密着した彼の身体から伝わる鼓動の早さは、言葉よりも雄弁に彼の本心を語ってくれていた。自分ばかりが緊張していたのかと思いきや、彼も同じだったらしい。

「俺もいっぱいいっぱいなんだよ。だから、あんま煽んな」

 煽るもなにも、私は名前を呼んだだけで――と反論しかけた唇は二度目のキスで塞がれた。二人でゆっくりとベッドに倒れこみながら、私も彼も根は似た者同士だったりして、なんていうトンデモ理論を頭の中で思い浮かべる。そうだったら愉快だし、そうでなくてもとっくに私は彼の全てを好きになってしまっているのだから、今さらどうということもない。つまりはもう手遅れってこと。
 私と同じ香りがする彼の身体を抱きしめて、その熱さに心が疼いた。


prev / next

[ list top ]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -