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あいのやまい  




 向井太陽。太陽、くん。彼の名前を何度も頭の中で反芻して、深呼吸を一つ。今日こそは、と思いながら。
 いつものようにフェンス越しにグラウンドを見てみると、なぜか彼の姿はそこにはなかった。もしかすると、今日は中での練習だけなのかもしれない。試合に合わせて調整することはよくあるし、来てくれても見れないこともあると思うよ――と、彼が前に言っていたことを思い出す。

「太陽くんいないのー?」
「えぇ、残念。見たかったぁ」

 近くから聞こえた女の子たちの声にどきりとした。一年生ながら、もう野球部のエースとして活躍している彼を見に来る人は、多い。それを感じるたびに、嬉しいような、寂しいような、そんな気持ちになる。
 彼と私が付き合い始めたきっかけは、「彼女になって」という彼の一言だった。それを聞いたときは何の冗談かと思って流そうとしたものの、その瞬間にはもう彼の中ではそれはれっきとした事実になっていたらしく、今まで「苗字さん」だった私の呼び名が次の日には「名前」となっていた。
 最近ようやく「彼女」であることに慣れてきたけど、それでも私はいまだに彼を「向井くん」とよそよそしく呼ぶことしかできていない。だから今日こそは、と思いながら来た。きっと私に気づいたら、彼はいつものように私に軽く手を振ってくれるから、そのひとときくらいなら、「太陽くん」と小さな声で、言える気がした。
 そんな私の些細な賭けは、彼がそもそもグラウンドにいなかった時点で成立していなかった。明日以降に小さな望みを託す他ない。
 本当は彼と二人の時間が欲しかった。それさえあれば、彼の名前を呼ぶというただそれだけのことにこれほど悩むことだってないし、彼の気持ちをもっと確かめられる。逆に、私の気持ちを知ってもらうことだって。
 考えながらグラウンドに背を向けて歩き出す。迷いを振り切るように、一歩一歩意識して。その歩みを止めたのは、声。

「帰るの?」

 いつどこで聞いても、耳にすっと入り込んでくるその声。ああ、彼だ、とすぐにわかる。
 ランニング終わりなんだなとわかる程度に息が上がっていて、でもそれを私に気づかせないように抑えようとしていた。彼のそういった強がりが、私は結構好きだ。完璧じゃないのに頑張って完璧に見せようとする、そういうところが。
 部活の途中に彼が私に声をかけることはほとんどない。エースとして期待されている彼は毎日これでもかというくらい厳しい練習をこなしているようだ。今も「乾さんと監督いねーよな……」ときょろきょろ周りを見回して警戒しているあたり、やっぱり練習の途中に無理に抜けてきたらしい。 

「あ、……うん」
「そう」
「…その、太陽くん」

 気がついたら、もう言ってしまっていた。ちょっと声は上ずってしまったけど、初めて、彼の名前を呼べた。でもそれに喜びを感じているのは当然私だけなので、彼は「何?」と怪訝そうな顔をしている。私も私で、名前を呼ぶことしか考えていなかったから、話題に困ってしまう。そういえば、明日は試合と言っていたような。

「明日は、投げるの?」
「俺が投げない日なんかないよ」
「…そうだね。頑張って」

 思えば当たり前のことを聞いてしまった。恥ずかしさに顔が赤くなる。
 何せ、まだ付き合いだしてから一カ月も経っていないために、彼のことも彼の部活のことも、まだ詳しいとは言えない。かろうじて彼のボールを受ける捕手が乾という二年の先輩であることを知っているくらい。
 彼は自分の活躍はあれこれ話してくる一方で、部活のこと全般についてはあんまり話そうとしなかった。その理由について「名前が他のヤツに興味持ったらヤだし」と素直に言われたときは、彼でもやきもちを焼くんだと思って少し嬉しくなってしまったことを覚えている。

「名前も、見に来てよ。一番カッコいい俺が見れるから」

 自信家な彼らしい堂々とした言い方に押されて、私は「うん」としっかり頷いた。続けて「じゃあ、勝ったらちゅーして」と言われたのにはびっくりして何も言えなくなってしまったけど。私が赤くなったり青くなったりしているのを彼は面白そうに眺めていた。

「あと、別に練習しなくても俺の名前くらいスッと言ってよ」
「…知ってたの!?」
「あんなわかりやすく挙動不審だったら誰でもわかるって。まあ、そうやって俺のことで悩んでくれるのは嬉しいけど」

 悪戯が成功した子どもみたいに笑っている彼に何か一言くらい抗議しようと口を開いたら、それを遮るかのように彼は一言だけ、呟く。

「名前のそういうとこ、好き」

 ああ、そんなこと言われたら。これ以上ないってくらいに溢れていた彼への気持ちが、もっともっとたくさん増えすぎて、どうしようもなくなってしまう。
 でも、私が何か言葉を返すよりも先に、「あ、やっべ。乾さん向こうにいるじゃん」と焦った様子で言うなり彼が走り出して行ってしまう。いつだって彼は私をかき乱すだけかき乱して、去っていく。ずるい人。ずるい彼氏。そんな彼をもう引き返せないほどに好きになっている私は、きっとこれから先も、彼のことしか見えないのだろう。


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