dream | ナノ


ごくごく稀に起こり得るような  




 ばしゃんと水をぶっかけるだけで、ぼんやりしていた頭の中が少しずつ明瞭になっていく。
 昨日は練習が終わってから沢村と降谷の相談(という名目の愚痴)に付き合わされたせいで、疲れがさほど取れていない。後輩の世話を焼くなんて自分の性格からいってさほど合っているようにも思えないが、キャッチャーというポジションについている以上は周りのことに気を遣う必要がある。と、頭ではわかっているものの、それにしたって俺の負担が大きすぎるだろう。かと言ってクリスさんにいちいち助けを求めるのも正捕手としてみっともないし、同学年の倉持やノリを頼るのも無理がある。
 どうしたもんかねえ。他人事みたいにそう考えながらタオルでごしごし顔を拭いて、ふうと一息ついたところで、「よっ」という声と共に頭頂部にチョップが降ってきた。

「痛って! ってなんだよ、倉持か」
「なんだよたァ失礼なヤツだな、声でわかれよ。朝からボケてんのか?」

 軽口を叩きながら、倉持はさっさと俺の隣に陣取って顔を洗い始めた。そのせいで水が勢いよくはねてくるのをさりげなく避けて、俺も急いで歯を磨きだす。いつも俺よりは遅く洗面所に来るはずの倉持が同じタイミングで来ているということは、つまり俺が起き出した時間がいつもより遅いってことになる。
 優等生でいるつもりはないが、倉持より遅れるのはなんだか俺らしくない。くだらないプライドを守るために歯磨きを即行で終わらせた俺をちらりと横目で見て、倉持が何か言いたげな顔をした。「なんだよ?」と率直に尋ねると、「読心術でも使ってんのかお前」と呆れられた。お前の表情がわかりやすすぎるだけだろ。

「いや、大したことじゃねえんだけど」
「?」
「お前、今日日直じゃなかったっけ」
「え? マジ?」
「自分で把握しとけっつの。昨日、言われてただろ。あいつに」

 あいつに。
 倉持にそう言われた瞬間、記憶の片隅に放っておいた彼女の声が頭の中に響いた。『明日は日直だから、できたら朝練より先に教室に来てね』――あ、やっべ。普通に今回も忘れてた。
 日直の日は、どうしても朝から担任のいる職員室へ出向かないといけない。俺は野球部ということで毎度大目に見てもらっている節があるものの、結果として相手に仕事を押し付けている形になってしまっていた。次はちゃんとするから、と言い続け、日直の日は毎回けろっと忘れてしまう。そして、そういういい加減な俺に彼女は怒るでもなく、次はお願いね、と言うだけで済ませる。遠慮がちに、気にしなくていいというニュアンスをにじませて。

「はぁ……まあ、いっか。食べてからでも間に合うだろ」
「どうせ間に合わねえって。あーあー、またあいつに仕事全部押し付けて『御幸くんは部活で忙しいから、しょうがないよ』とか言い訳する間もなく逆にあいつからなぐさめてもらうんでちゅねー、御幸くんは」
「うっせえよ」

 悪いのは100%俺なのに、責められないのはそれはそれでつらいものがある。いっそ怒ってくれたら、「次気をつけるわ」とか、笑って言うこともできた。しょうがないよね、なんて言われたら正直に謝るしかなくなる。
 ああ、どうせなら彼女も日直のことなんか忘れてくれればいいのだが。それで俺の方が奇跡的に早く教室へ行って、いつまで経っても来ない彼女を教室で待ちながら朝練も堂々とサボって、仲良く二人で担任から大目玉を食らえばいい。でも、実際には彼女は毎回真面目に教室に先に来て俺のことを待っているわけで、俺は俺で部活に対しては優等生だから朝練に真面目に行ってしまい、担任がそれに対して本気で説教をすることもない。

「ま、本気で急ぎたいんだったら朝飯五分以内で食って走れば間に合うんじゃね?」
「俺はあいにくお前ほど足速くねえんだよ」
「じゃあ諦めていつもみてーに朝練行っとけ」
「行かねえよ、今日は」
「へえ?」

 倉持の意外そうな表情を見ると、俺ってそんな部活馬鹿に見えてたのかと落ち込みそうになる。もちろん部活が最優先事項ではあるが、学校生活イコール部活なわけではないし、俺もそれくらいはわかっている。正捕手として後輩の面倒をみることは、とりあえず放課後まで保留だ。
 たまには普通の高校生として、クラスメイトとの約束を守らないといけない。

「これでまた遅刻してたら笑ってやるからな」

 そう言いながら既にけらけら笑っている倉持に「言っとけ」と返しつつ、洗面所を出る。残された時間から計算して、認めたくはないが倉持の言うとおり、五分以内に食事を済ませて走るのがベストな選択肢だろう。
 息を切らせて教室に飛び込んだら、彼女はどんな反応をするだろう。きっとこれ以上なく驚いた顔をして、「どうしたの? 大丈夫?」なんて聞いてくるに違いない。そう言わせたら俺の勝ちってことで。勝手な賭けを頭の中で始めながら、俺は廊下を歩き出した。


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