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浸食  




 美術室特有の油や絵具が混ざり合ったようなにおいに包まれながらモデルをするのにも、ずいぶん慣れてきた。最初みたいにかしこまってポーズをとることはほとんどなくなったし、喜多川くんも作品の完成が近づいてきたからか、以前ほど芸術について語らなくなった。つまり、前よりも静かになった。グラウンドから運動部の声が聞こえてくる程度で、あとは喜多川くんが気分転換がてらに筆を洗うときの水音くらい。
 じゃばじゃばと、ステンレスの流し台を勢いよく流れていく水が、暴力的なほどに静寂をかき乱す。彼はなぜか、こういうときは遠慮なく水を使う。私は時間つぶしのつもりで持ってきた文庫本のページをめくりながら、その音を意識せずに聞いていた。
 思えば、喜多川くんに強引に勧誘されてからこのかた、お互いの事は大して知らない。こうして二人でいる時に話す断片から想像するくらいだ。まあ、生活の九割が芸術に支配されている喜多川くんの話すことから彼の私生活をイメージするのは難しいけれど。学校にいる時間が長いせいか、喜多川くんが私服で普通に過ごしている姿は想像しづらい。

「喜多川くんって、休みの日とかどうしてるの?」
「ん?」

 どうやら水音のせいではっきり聞こえなかったのか、彼は私の方をちらりと見て、蛇口をひねって水を止めた。きゅっと小気味いい音が響いた後、「休み?」と彼が聞き返す。その部分だけは聞こえたらしい。

「いや、休みのときとか、喜多川くんがどんなことしてるのかなって気になったから、聞いてみただけ」
「休み、か……一人で過ごすこともあるが、最近は友人と出かけることが多いな」
「どこ行くの? あ、神田とか?」
「そうだな。美術書を探すのも好きだ。でもやはり……見ることが一番勉強になる」
「見る?」
「人の心に潜む醜悪さと、それに寄りそうように存在する美。それを目の当たりにすることで、これまで自分の中にはなかった感情に突き動かされて創作することもできた。戦うのが性に合うと思ったことはないが、自分の中にはそうしたものを好む部分もあったのかもしれない」

 喜多川くんが語り出すのを「ああ、また始まった」と聞きながら、そのどこか楽しげな様子がうらやましかった。彼には彼の世界があって、私は今まで勝手にそれは彼一人のものだと思っていたのだけれど、それを共有している人がいる。
 と言いつつ、私も彼の絵のモデルをすることで彼の世界を共有しているのだから、大した差はないのだろう。その時間がいつまで続くか、の違いでしかない。

「君はどう思う?」
「え、何? ごめん、聞いてなかった」
「やはり実際に見ることが大事だろうという話だ。ということで、明日は外に出てみないか?」
「外……」

 なんだかんだモデルを引き受けてからそれなりの時間が経っているものの、美術室以外の場所で喜多川くんと会ったことはなかった。もともとさほどお互いのことを知らなかったし、知らないままで特に支障はなかったから。でも、彼と外に出かけることに対して嫌な気持ちはほとんどわかない。校内でも有名な変人で、芸術のこと以外にほとんど知識も興味もない人なのに、こうして美術室で彼を見るごとに、彼が少しずつ私の中を浸食していく。

「いいよ」

 彼と出かける明日が、作品が完成するであろういつかが、私の未来を縛っている。彼は知らないまま、私は気づかないまま。


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