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ぬくもり  




 そもそもの始まりは、私の斜め前の席に座っていた女の子が現国の授業中にこっそりと読んでいた小説を先生に取り上げられたことだった。
 先生が教壇を下り、ずかずかとこちらに向かってきた時点で私も周りの子もピンときていたのだが、本に夢中になっているその子には一向に気づく様子がない。あーあ、とため息をつきたい気持ちをぐっとこらえる。あくまで知らないフリ、それが鉄則。現国の先生は幸いにも(と言っていいのだろうか)、比較的ルールに厳しくない若手の多田野という男性教師なのだが、この人は自分の中の基準でいいことはいい、悪いことは悪いとはっきり決めるタイプで、「悪い」と決めた途端に恐ろしく長い説教を始める。私たちはそれを察知して身を固くしたわけだ。
 先生は無言でその子の横に立ち、流れるように彼女の手から開かれたままの本を奪った。そのままぱたりと閉じられ、私にもタイトルがはっきり見える。一昔前に流行った恋愛小説ーーまあ、女子高生が読むものとしては特に珍しいものではない。それを確認してから私はすぐに興味を失って、板書の写しに戻った。内職をしている生徒が注意されることなどざらにあるし、どうせ本を没収されて休み時間に呼び出されるだけのことだから。
 でも、先生は教壇へ戻ることなく、「懐かしい本だね」と楽しげに呟いた。意外な反応に「先生も読んだことあるんですか?」とクラスのリーダー格の茶髪パーマの女の子が尋ねた。

「一応は。でもそんなに好きじゃなかった」
「ええー、どうして?」
「病気を文学に軽々しく使う風潮が好きじゃなかったからね。でも一番の理由はやっぱり、タイトルだなあ」
「タイトルー?」
「世界の中心、ってタイトルで言い切っちゃうのがねえ。ありきたりってかんじ、しない?」

 その後、このタイトルはもともと別のSF小説のタイトルだったものをもじってつけられたものだとか、高校生の頃に彼女とこの小説を原作とした映画を見たものの先生はそれほど泣けなかったので彼女との温度差に困っただの、話がどんどんそれていったために授業は中断されてしまった。板書を写すだけの退屈な時間など、短くなるに越したことはない。そう考えた生徒がさして興味もないであろう先生の学生時代の話をせがむのは無理もないことで、結果、先生の話は延びに延びた。
 チャイムが鳴った後、ついでのように先生は本の持ち主に「あ、じゃあ後で職員室に来なさいね」と声をかけていたものの、何とも間の抜けた空気のせいか威厳は一切感じられなかった。 

 今になってそれを思い出したのは、私が図書委員の仕事で貸出カウンターに陣取っている放課後ーーつまり今、松野くんがそれを持ってきたからだ。
 松野くんーーより正確に言うなら松野チョロ松くんーーは私のクラスメイトで、「あの」松野兄弟の三男だ。六つ子というだけで目立つというのに、松野兄弟はそれぞれが毎日のように問題行動を繰り返すため、この学校で彼らの名前を知らない人はいない。当然、噂にさほど通じているわけではない私も知っている。
 普段教室で大人しく本を読んでいるイメージが一切ない松野くんが図書室に来たというだけで驚いたものの、委員としては誰であろうと変わりなく対応しなければいけない。受け取った本の返却処理を済ませて、他に延滞資料がないことを確認する。

「延滞資料はないから大丈夫です。じゃあこれ、あそこにある返却用の本棚に戻しておいてくださいね」
「ああ、うん」

 どこか上の空で本棚に向かう松野くんの様子がなんとなく気になって、つい目で追ってしまう。常に襟元まできっちりと留められているボタンは連日の暑さのせいか一つだけ外されていて、ああ、松野くんでも暑いって思うことあるんだ、と至極当然のことを思った。
 松野くんとは、同じクラスではありながらもほとんど話したことがない。何と言っても彼は学年中の注目を集める六つ子・松野兄弟の三男であり、クラスでは兄弟がいないからかそれほど問題行動をしないのに兄弟と一緒の場になると目も当てられないほどの悪さをしでかす、実に扱いづらいタイプの不良なのだ。平々凡々の日々を送る私と接点があるはずもない。

「あのさあ」

 だから、カウンターへ本を持ったまま戻ってきた松野くんに話しかけられたときは心臓が止まるかと思った。同年代の男の子としてはやや細めの腕が視界に入る。白くて、いかにも内向的な人のものに見えるその腕が、時と場合によっては躊躇なく人を殴ることを私は知っていた。

「な、何…ですか」
「女の子って、こういう本が好きなの?」
「……え?」

 質問の意図がわからず思わず聞き返してしまった私に少し苛立ったように彼は本の表紙を軽く指でつついた。

「たまには本読めって多田野が渡してきたから読んだけど、どこが面白いのかわかんなくってさ。っつーか、授業で好きじゃないって言っておいて勧めてくるアイツの神経疑うわ」
「あー…」

 あれだけ堂々と没収しておいて他の生徒には勧めておくあたりが、ルールよりも自分の価値観を第一にしているあの先生らしい。苦笑したいのを抑えつつ、彼の問いには「感想は人それぞれですから」と無難な答えを返しておいた。しかし松野くんは納得できなかったのか、「ううーん」と唸りながらパラパラとページをめくっていく。

「君はこういう話、好き? 純愛ものみたいなの」

 さも不愉快そうにページに並んだ文字を目で追っていく様子を見るだけで、松野くんがいかにこの本の内容に不満を持っているかが伝わってくる。
 確かに、この小説は好き嫌いがはっきり分かれるものと言えるだろう。実を言うと私の好みでもない。病気になって死ぬ運命のヒロインと、ヒロインのことを一途に想う主人公、どちらに共感することも私にはできなかった。
 そう正直に言うかどうか一瞬迷ったものの、後々面倒なことになるのは避けたいので、嘘をつくのはやめておくことにした。何せ、相手が相手だ。

「え、…いや……あんまり、好きじゃない、…です。個人的な好みですけど」
「ふーん」

 松野くんが向けてくるまっすぐな視線から逃げたくて、つい下を向いてしまう。彼のことが怖い、と思っているのは確かだ。話したことはなくても、いや、ないからこそ怖いと感じてしまうんだろう。話が終わることを期待して恐る恐る彼の表情をうかがうと、彼はなぜか笑っていた。

「今さらだけど、同じクラスなんだし敬語じゃなくていいよ」
「……え」
「やっぱ怖いイメージ持たれてんのかなあ」

 「あのクソ二人のせいだよなあ、多分」とぶつぶつ言っている松野くんに同意も否定もできなかったので、曖昧に微笑んでおく。確かにしょっちゅう問題を起こす「松野くん」と、そうでもない「松野くん」がいるのだけれど、私には誰が誰なのか、目の前にいる松野くん以外の区別がついていないから。
 松野くんにこの際兄弟の誰が誰なのか(彼の言う「クソ二人」が誰なのかも含め)聞いておくべきか、と頭の中で思案していると、松野くんの隣に誰かがぬっと現れた。

「何してんの、チョロ松兄さん」

 松野くんとは対照的に低めの声が、咎めるような調子で彼を呼ぶ。兄さん、と呼んでいるからには彼は松野くんの弟なのだろうけれど、やはり六つ子の兄弟であるせいか弟らしさは微塵も感じられなかった。  

「ああ、一松。ごめん、教室で待ってたの?」
「うん」

 松野くんの弟はにこりともせずにそう頷いた。本来なら校則違反として風紀委員や先生に怒られるネクタイの緩みや上靴の踵を踏みつぶす履き方などの彼の格好を、図書館に常駐している先生も含めて誰一人注意しようとはしない。彼もまた、「松野くん」だから。
 彼はカウンターの傍に来てようやく私の存在に気づいたようで、ちらりと視線をよこしてから「ふうん」と呟いた。

「誰? 彼女?」
「ンなわけねえだろ。図書委員の子。クラス一緒だからさ、ちょっと話し込んでただけ」
「へえ…」

 相槌を打ちながらも、松野くんの弟の顔には「どうでもいい」と言いたげな表情がはっきり浮かんでいた。一瞬後にはもう私と松野くんに背を向けて歩き始めていて、松野くんはそんな弟の奔放さに「あーもう」とこぼしつつも、彼を追いかけて歩き始めた。
 
「じゃあね」

 最後に軽くかけられた声の柔らかさに思わず顔を上げると、いかにも愛想笑いといった風に、口の端だけ上げて私に向かって微笑んでいる彼と目が合う。「じゃあね」、「また明日」、なんて気の利いた言葉が私の口から咄嗟に出てくるはずもなく、彼が背を向けて歩いて行くのをただ見ているしかなかった。きっと明日にはもう、彼は私と話したことなんて忘れている。それくらいの、浅い浅い関係。

『ありきたりってかんじ、しない?』

 耳の奥でなぜか、あの授業の日に先生が口にした言葉が響く。
 まさか、ありえない、と即座に否定しながらも、彼がカウンターに残していった本の表紙をすっと撫でて、その温かさに彼の白い腕を想った。


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