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Each other  




 頭がすっきりしない時にピカソが吸う煙草の匂いを、私は好きになれなかった。煙を一息で吐き出している彼の横顔は、誰かが自分の世界に入ることをはっきり拒絶している。あまり体によくないと言ったところで無駄だろう。彼は自分が決めたことをそう簡単に曲げたりはしない。私も同じ。彼がどう言おうが、気に入らないものは気に入らない。彼の手から煙草を取り上げて、灰皿に放った。
「なんだよ」
 怒るより困惑したような表情で彼はようやく顔を上げた。彼のことだから、私がここにいることを今の今まで忘れていたに違いない。
「吸うなら外にして、って前も言ったでしょ」
「ここはオレのアトリエだし、どうしようがオレの勝手じゃん」
「作品が燃えたらどうするの」
「また明日描けばいいし」
 そう言って、彼は新しい煙草にライターで火をつけた。それから足元に散乱している缶やビンを軽く蹴りつつ、そのうちの一つを手に取る。全て、彼が食堂から勝手に拝借してきたものだ。酒のビンが多めなのは、中原さんが最近大量に飲んだからだろうか。察するに、今日は絵を描くつもりはないらしい。
 気まぐれは彼の日常になくてはならないもので、同じものを嫌う彼の流儀のようなものでもあった。描きかけの絵が何枚かあっても、その気にならない限りは放っておかれたまま。見ると、いくつか肖像画らしいものもある。オーヴィルくんに近藤さん、鄭和さん、中原さん…個人的には中原さんにどうやってモデルをしてもらったのかが気になるところだ。
「モデル、結構してもらってるの?」
「まあなぁ。でも、疲れるからしばらくはやめとく」
「どうして?」
「オマエの話ばっか聞かされるから」
「私の話って何」
「興味ねえから忘れた」
 そこまで言い切られると、温厚なことに定評があると自分では思っている私でも、彼を張り倒したくなってしまう。そもそも恋人に対して興味がないとは何事か。気分が乗った時にだけ私を求めておいてそれはないだろう、と内心思っていたことが顔に出ていたのか、ピカソは「だって興味ねえし」と鼻で笑った。
「ああそうですか、あなたには興味のない女と付き合う趣味がおありのようで」
「は? 何怒ってんだよ」
「そりゃ怒るでしょ」
「意味わかんねえ」
 彼が持っているペンがくるくると手の中で回る。集中しているんだかしていないんだか、よくわからない。もう飽きたのか、火をつけて間もない煙草はいつのまにか灰皿に投げ込まれていて、最後に細い煙を立ち上らせていた。これで灰皿に水が入ってなかったら悲惨なことになっていただろうな、なんてことを思ってしまう。
「なあ」
「何」
「キスしたい」
 いつものこととはいえ、彼のストレートな言い方には慣れない。いいとも嫌とも言わないでいると、彼は試すような目で私を見る。結果は同じなのに。彼の傍に寄って、少し躊躇してから唇を重ねる。かぁん、と、音がする。彼がペンを机の上に投げた音。肩に、彼の手が触れた。意識的な癖だ。彼がその先を望む時の。
「…まだ昼なんだけど」
「いいじゃん、たまには」
 息をつく間もなく続きのキスをする。苦くて不味い煙草の味。不毛なこと、と思いながらそれを心地よく思っているのは、手遅れだろうか。わからない。わかってはいけないような気もする。曖昧なままで彼とつながっていれば、ずるくて哀れな女でいられるのだから。彼が私を愛しているだなんていう夢想を信じられるほど子供ではないし、感情と行為を切り離せるほど大人にもなれない。とはいえ、彼から離れたくないと思っているのは確か。真昼間からよくこんな小恥ずかしいことを考えられるものだと、ため息をつきたい気持ちになった。
 唇が離れて、彼の腕に抱きしめられたときに伝わってくる二人分の鼓動に、今ここで生きているという当たり前のことを感じた。私は、彼と同じ時間を生きている。奇妙なことだ。
「まだ怒ってんのか?」
「ちょっとは」
「わかんねえなあ。オマエの話なんか、オマエから聞いたら充分だろ。なんだったらベッドの中で聞いてもい…痛っ!」
「うるさい」
 思い切り足を踏んだことに抗議するピカソから目をそらす。さっきまで怒っていたことがバカみたいだ。いや、バカそのもの。
「なんなんだよ、ったく」
「まぎらわしい言い方するから…」
「そんぐらいわかれよ」
 私に超能力でも備わらない限りそれは難しいだろう。彼の言葉の真意なんて、彼に聞かない限り理解などできない。でも、今の私にもわかることが二つある。一つは灰皿に重なった煙草が水に沈んで煙が消えたこと。もう一つは、彼が三度目のキスをするタイミング。軽く舌打ちをして、目を合わせない私の頬に触れて、視線を絡め取って。
「愛してる」
 幻聴かと思うほどに優しい彼の声を聞いて、目を閉じる。四六時中一緒にいなくていい――ただ、相手の一番でないと我慢できない、と互いに思っている、我儘な恋人。


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