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愛の病  




 眠れないから、先生の部屋に薬をもらいに行こうと思って、ベッドから抜け出した。誰も彼も部屋で寝ているのか、廊下は真っ暗で誰の気配も感じられない。音を立てないように歩いて、目的の扉の前にたどり着く。ノックは二回で充分、それで気づいてもらえるだろう。控えめにコン、コンと、扉を叩く。
「先生」
 いつもならすぐに「ああ、入れ」と返事があるところで、不思議と声も物音も聞こえなかった。試しにドアノブをひねってみても、鍵が閉まっている。夜遅くまで起きていることの多い先生にしては珍しく、早く寝てしまったのだろうか? それなら諦めるしかない、とあれやこれやと考えを巡らせていた私の肩を誰かの手がぽんと叩いた。
「びゃっ!?」
「もうちょっと女らしい反応はできないのか?」
 呆れたような表情でそうからかってきたのは、今まさに私が会うことを諦めようとしていた玄白先生その人だった。
 いつもの白衣ではない、くつろいだ着物姿は、見慣れていないせいか違和感がある。医者といえど一日中白衣でいるわけではないのは当たり前なのに、先生の日常を垣間見ていることには少し居心地の悪さを感じてしまう。
「で、何か用か」
「眠れないので、薬をもらおうかと…」
「そうか。入れ」
 うながされるまま部屋に一歩足を踏み入れる。先生の部屋には比較的よく来るけれど、入るたびにまず大量の本に目を奪われる。本棚におさまりきらなくなったものは床に積まれていて、膝くらいの高さにまで達していた。
 何度入っても本につまずいて無様に転びそうになる私とは対照的に、先生はうまく本を避けて歩いて行く。勝手知ったる先生自身の部屋とはいえ、その絶妙のバランス感覚には拍手したい気持ちになる。奥にあるガラス製の棚の前にたどりついてから、先生はふと「最近寝てないのか?」と尋ねてきた。
「そうですね。少し、用事があって」
「またピカソに付き合って徹夜ってとこか。あまり無理するなよ」
「ありがとうございます。嫌になったらやめるから大丈夫です」
「……お前の事情に首を突っ込むつもりはないけどな…年端のいかない娘が夜中に男と二人でいるのは感心しないな」
 相手が相手だから余計に、と眉をひそめる先生に、「ほんと、雑用しかさせられてませんからそういう心配はないですよ」と否定しておいた。ピカソは意外と(と言ったら怒られるだろうけど)仕事とその他の区別はつけている。実際のところ、モデルと画家がそういう関係になることは、決して珍しいことではない。ピカソも元の世界ではそうだったらしいけれど、私に対しては本気でそれ以上を求めなかった。彼が言うとおりに座って、じっとして、モデルをして、それから細々とした雑用をする。時に徹夜になることもあるし、私がそれに逐一付き合う必要もないから、彼が自分の世界に没頭し始めたらそっと部屋を出ることもある。要するに、彼も私も互いを拘束する気などさらさらないのだ。
「それならいいけどな。お前はあまりに警戒心がなさすぎる」
「心配しすぎじゃないですか?」
「心配もするだろ。いくら医者相手とはいえこんな夜中に男の部屋に来るんだからな」
「先生は特別です」
「嬉しくもなんともないな。まあ、俺にとってもお前は特別な奴だがな」
 全く表情を変えずに素っ気なくそう言い切られると、本気なのか冗談なのかよくわからない。ビンから取り出された薬と水の入ったコップが、これまた塔のように大量の本が高く積まれた机に置かれる。うっかりコップを倒さないように恐る恐るつかんで、薬を口に入れる。喉に引っかかる前に一気に水を入れて流し込んだ。
 先生がくれる薬は、私が元いた世界で流通していたような睡眠薬とは少し違う。苦いし、すぐには効かない。でも、一旦効き始めたら自然と眠ることができる便利なものだった。
「ここで寝てくか?」
「結構です。本の山に窒息しちゃいそうですし」
「文句は診察のたびに本を置いて行く夏目先生たちに言ってくれ」
 俺の部屋を物置か何かと勘違いしてるようだからな、と付け加えて、先生はごろんとベッドに寝転がる。その投げやりな様子は先生には珍しく、どこか子供っぽく見えた。
「名前」
「いきなりどうしたんですか」
「たまにはいいだろ」
「…いいですけど」
「けど、何だ」
「もうちょっと、心の準備をさせてください……」
 先生から名前で呼ばれると心臓に悪い。ドキドキする、という単純なことに加えて、何かを期待してしまいそうになる。まだ自覚さえしていない気持ちが心のどこかにあるような、そんな予感がする。てっきり一蹴されると思っていたのに、答えは返ってこなかった。
「先生?」
「お前はほんとに……困った奴だな」
 そう呟く先生の顔が微かに赤かったように感じたのは、見間違いではない、かもしれない。そう思ったのもつかの間、先生はへそを曲げたように私に背を向けてしまった。診察が終わった時にせよ、今のようなプライベートな時間にせよ、先生がそうして会話を打ち切ればそれが終わりの合図になる。
「薬、ありがとうございました」
「ああ」
 先生の部屋から出て、音を立てないようにドアを閉めた。部屋の中では平気な顔を装っていたつもりだけど、一人になってしまえばもう、取り繕えない。そうかもしれない、いや違う、と肯定と否定を繰り返す自分のぐちゃぐちゃな頭を整理しようと深呼吸しても、速まった鼓動はしばらく落ち着く気配がなかった。
「どうしよう……」
 薬をもらったはずなのに、さらに眠れなくなってしまいそうだ。


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