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つい数分前まで騒がしかった部屋がしんと静まっていた。
わたしはゆっくりと扉を引いた。
少し屈んで前に落ちた彼の茶色い前髪が震うように揺れた。
声をかけようと思っていたのに、わたしは戸口に立ったまま黙って唾をのみこんだ。
薄暗い日陰の教室で、ただ黒光りするシャープペンを握った細い指だけやけにはっきりと目に映った。
彼のものではない、細い指。
蝉の声が遠くで聞こえていた。
背中をつめたい汗が落ちていったあの感触を今も覚えている。

冷ややかに、そして鮮明に、
覚えている。
































スクロールで読むお話にしてみました
使ってるパソコンが小さいもので加減がよく分からず…
うざったかったらスミマセン



























「わ……懐かしい」

ふと首を回した先に鏡がかけてあった。
階段を2階分のぼったこの踊り場の壁に鏡があったことを、きっとどこかで覚えていたのだろう。
横に大きく入ったヒビに指を這わす。
ちょうど首のあたりにヒビが映りこむから不吉だとよく友人と言っていたそのままのかたちで割れている。
映った二人が制服姿でないのが不思議に思えるくらいだ。

「あいかわらずボロい校舎だな」
「お金ないのかしら、やっぱり」
「ど〜せまだおかしな行事ばっかやってんだろ」

来賓用のスリッパは大きくて廊下を歩くとパカパカと安っぽい音を立てる。
部室棟には部活の後で駄弁る活発そうな生徒や文化祭の準備に早くも精を出している委員の生徒の姿が見受けられたが、こちらの教室棟は人の気配もない。
学生が夏休みに入ってもう2週間、窓を閉め切った廊下はもうしばらく人が通っていないのだろう。冷たく湿った空気が固まっていた。
向こう端まで並ぶ教室の表札を見上げる。

「3年ぶり……か。随分昔のことのようだけど」
「老けたなー、しのぶ」

ばか。隣を歩くにやけた男の背中を鞄でひっぱたく。いてて、といいつつまだにやにやしている。
「本当、雰囲気のつくれない人よね」
前を向いたまま呆れて独り言のように言うと、何言ってんだ、と彼は続けた。

「ついこの前だろ。制服着れば教室混じったっておかしくないさ」
「そんなに成長してないかしら? あたし」
「うーん……」
彼の視線が振り向いた私の顔から胸元に落ちる。そのままの視点で、至って真剣に。
「……髪は伸びたな」

今度は背中じゃなく顔面にお見舞いした。
ばへっ、とか妙な奇声を上げて彼はそれを真っ向から受け止めた。
ちなみに大学の課題用のハードカバーの本が数冊入った重い鞄だ。




























私が言い出したのだ。
どこ行く?、と言われたから、学校に行きたい、と。
「大学? 今日休みなのに」
と、彼はごく自然に聞いた。
私達はまだこの街にいる。変わらずにこの街で過ごしている。
変わらない友引高校のあり続けるこの街で。
卒業してから3年、順当に大学3年生になったわたしとあたるくんは、一度たりとも高校に足を向けていなかった。
用なんてないのだからそこに特別な理由なんていらない。
避けているわけじゃない、と言い訳をする必要はない。
実際、私達は日頃からよく高校時代の友人と集まるし、あの頃の話を肴によく笑う。
それはとても楽しい時間だ。わたしはたくさん笑う。
あたるくんもたくさん笑っている。
あたるくんは昔からよく笑う人だ。へらへらと、にこにこと、にやにやと、悪戯に、弾けるように、照れるように、いろんな顔で、よく笑う人だ。変わらない。
変わらないけれど、彼は大学に入ってからも背が伸びた。随分と伸びた。
彼が今制服を着て教室に紛れたら、やっぱりどこか浮いてしまうだろう。

























2-4の表示のついた扉の前で彼が立ち止まる。

「……いやにきれいだな。このクラスのだけ」

表札を見上げて不思議そうに言った。

「やだ忘れたの? うちのクラスのそれ、あたるくんが壊したんじゃない」
「えっ。そーだっけ」
「そうよ。ほら、あの」

一瞬唇を閉ざしそうになる。
あともうほんの少し詰まったら不自然になるというところで、喉は言葉を押し出した。

「放課後、クラス委員の仕事してたときに、あたるくん達がまた喧嘩して、見回りに来た先生巻き込んで……大変だったわよ、ほんと」

自分で笑ってさりげなく話題を収束さした。
あたるくんは、記憶を手繰り寄せているのか、考える表情をして、くぐもった母音だけ口にした。
私は扉に手をかけて、そろそろと開く。
扉の重さも、小さく響く低い音も、あの頃のままだ。


































あたるくんはHR副委員長だった。
最初は委員長だったのだけれど、飽きたのか面倒になったのかすぐに彼は役職放棄して当時副委員長だった面堂くんにその座を譲ってしまった。そもそも副委員長なんてポストは正式なものではなく、基本的には委員長・書記・会計の三役なのだ。クラス委員なんて何か話し合いのときに多数決の票数を数えるくらいで実務はほとんどない名ばかりの閑職だった――――例年までは。というのも、その年度はなぜか学校が校舎修繕に充てなければならない費用が例年に比べ桁外れに大きく当局で対応しきれなくなったとかいう話で、校舎及び校内備品の修繕・補填費用の申請は半期ごとにクラス単位でまとめて出すようにと夏になってから突如通達されたのだ。一件一件見積もって県に申請を出すのがかったるいから生徒達にまとめて自分でやれと丸投げしたかたちだ。考えてみればとんでもない学校体制なのだが、それでも大概のクラスは書類を1枚書くか書かないかで終わる簡単な仕事だった。
校舎欠損のほとんどの事例の原因を作り出していた、わたしたちのクラスを除けば。


当時書記はわたしで、会計はラムだった。
ラムはあたるくんが委員長に当選したそのときに
「ダーリンがやるなら」
といって会計に立候補、即当選したのだ。
なので放課後の業務はその3人で行われるはずだったのだが、
「面堂のよーな男としのぶが一緒に居残りするのを黙って放っておけるか!」
あたるくんはそう言っていつも私達のいる教室に残った。
その言葉にラムは毎回「しのぶしのぶって、うちはどうでもいいっちゃ!?」と怒って電流を放散した。
ラムに追いかけられながらもしつこくちょっかいを出してくるあたるくんに私は呆れて怒ってよく机を投げてやった。
面堂くんは「仕事の邪魔だ。帰れ」とあたるくんに言う。
それを聞いて「ダーリン。終太郎も言ってるし帰ろ!」とラムがあたるくんの腕を引くと、
「ばかっ。面堂の野郎としのぶを2人きりにできるかっ!」
とあたるくんはその腕を振り払う。
「っていうか、ラムは仕事あるんだから帰ったらだめに決まってるでしょ」
わたしの正論は聞かれない。
面堂くんはため息をついて、
「諸星一人いるせいで、とんだ業務妨害ですよ」
ペンを握った手でこめかみを押さえる格好をした。
「ほんと。迷惑しちゃうわね」
私は違う机に座りなおして、仕事を再開する。(その机もだいたい数分後には宙に浮くことになる)
正当に居座る口実にあたるくんが自ら副委員長を名乗るようになるのはもう少し後のことだ。


同じことの繰り返しを、よくもまああんなに続けていたものだ。
わたしがあたるくんに投げるものが机だったり椅子だったり花瓶だったり、痺れを切らした面堂くんが刀を抜き始めたり、温泉マーク先生が来たり校長先生が来たりサクラ先生が来たり、ラムの友人の宇宙人が来たり妖怪変化が出てきたりと些細な違いはあったものの、同じような質の喧噪が放課後の教室に毎日用意されていた。
仕事は遅々として捗らないからそんな日日はいつまでもだらだらと続いた。
面堂くんの机に積まれた山のような書類の束は一向に減らないように見えた。
いつまでも同じ時間がそこにあるのが当然のように思えたのだ。
何も進まない、なにも発展しない、停滞したままで、濁りも澄みもしない同じ水の底をぐるぐると動き回っているだけの時間が。


































「面堂が刀ぶつけたんだったっけ」

教壇に足を乗せたとき、後ろからあたるくんが声を発した。

「え?」

振り返る。戸口にたったあたるくんは、両手をポケットに突っ込んでいる。
少し猫背で肩を丸めた格好が学生服の彼を思い出させて、ポロシャツにジーパンの格好で教室にいることに妙にドキッとした。
彼は顎で後ろ頭上をさししめした。

「あれ。面堂が刀振り回してたら壊れたんじゃなかったっけ」
「ああ……思い出したの」
「俺じゃないじゃん。壊したの。面堂じゃん」
「原因はあたるくんにあるんだから、間違いじゃないわ」

あたるくんは笑う。

「しっかし、修理費用申請の仕事しながら件数増やしてたらしょーもないよな」

私も笑った。
それはいかにも、当時あたるくん以外の誰もが思っていたことだった。


私はまっすぐに教室を歩いて、真ん中の少し後ろあたりの机の椅子をひいた。
あたるくんはその隣の机に腰をかけた。
蝉は鳴いていない。
翳った教室に、まだ高いところにある太陽は窓際にしか温度を落とさない。
静かだ。静かで、冷たい。
同じ空気のにおいだ。
どうして学校という場所は、こうも空間を気体ごと同じまま閉じ込めておけるのだろう。


「懐かしいわ」

小さく感じる机の木板を、拭くように掌で撫ぜた。
端に彫刻刀か何かで彫られたイニシャルの落書き。
こんな落書きはなかった、と思う。

「そ?」

今度はからかわないかわりに、淡白な相槌が返ってくる。

わたしが迷わずこの席についたのに、あたるくんは知らん振りをしている。
でもきっと覚えているはずだ。
ここは面堂くんの席だった。
あの後何度も席替えをしたし、あれから何年も経ってたくさんの違う生徒がこの場所に座ったはずだ。机もきっと違うものに変わったのだろう。
それでもここがずっと彼の席だ。
私にとって。
そして多分、あたるくんにとっても。

















































「こらっ! 待つっちゃ! ダーリンー!!」



逃げ出したあたるくんを追って、ラムも教室を飛び出す。
2人の叫び声が足音と一緒に遠ざかる。
教室に突如平穏と静寂が訪れる。
いつものことだった。
「やっと静かになったわね」
「どうせすぐに戻って来るんでしょうがね……」
「今のうちにすすめておきましょ」
わたしと面堂くんは一言二言言葉を交わしてから(ほとんどがあたるくんに対する愚痴だった)、熱心に書類に向かう。
あたるくんはきっと本当はラムと一緒にいたいのだとわたしは思っていた。素直じゃないんだから、と。







しばらくしてボロボロになったあたるくんが戻ってくる。

「あー。酷い目にあった。」

面堂くんのと一つ離れたくらいの机の椅子をひいてどかりと座る。

「ラムは?」
「知らん。まだ学校中飛び回ってるだろ」
「どうせまた逃げ回りながら女の子に声かけてたんでしょ」

あたるくんはラムをわざと怒らすようなことをする。いつも。
傍から見ているとそれはじゃれ合いの一貫にしか見えない。
まるで一種のレクリエーションだ。

「仕方ないだろ〜。女の子が寄ってくるんだから」
「何言ってんのよ」
「馬鹿言ってないで早く仕事をしろ!」

あたるくんの目の前にきれいに積み重なった書類の山がドンと音を立てて置かれる。
私の視界にあたるくんの口元が映らなくなる程度には堆い。

「こんな量ひとりでできっか!」

あたるくんがそれを置いた人物を見上げて抗議する。

「お前がさぼってる間にぼくとしのぶさんはその位やったんだぞ」
「じゃ〜ラムにやらせろ! ラムに! 全ての元凶はあいつだぞ!」
「お前がラムさんを怒らすようなことをするからだ、馬鹿者!」

そんな喧嘩をしているうちに校内くまなく周ったラムも戻ってきてまた一騒ぎ。
私は眉間に八の字を濃ゆくつくりながら、黙々と作業を続けようとする。(結果的にそれは長く続かないのだけれど。)





























そんな日々の中で面堂くんは、ラムとあたるくんが口論をしているのを、黙ってみていることがあった。
ラムとあたるくんの喧嘩は日常だ。それはもう、1年生のときにわたしたちの前にラムが現れてからずっとそこにある光景だった。やかましい二人を生暖かい気持ちで見守る、適度な距離の取り方もすっかり身についてしまった。
最初はラムに加勢してあたるくんを批難する面堂くんは、すこしずつ口数を減らして、いつのまにか傍観者になる。刺刺しいかと思うとその視線はすうともの悲しさを濃くして、静かに沈黙を守りながら、ペンを持つ手で頬を支えて遠くのものを見るように、言い合う二人をながめる。二人は気付かずにお互いだけを相手にして口論の範疇を超えた激しさの喧嘩を始める。

そんな面堂くんの様子にわたしだけが気付いていた。面堂くんがラムを見てるのは知ってた。それは誰もが知っていた、ずっと前から、それこそ彼が現れた当初からだ。それでも彼はその感情を深刻にあらわそうとしなかったから、周囲もそういう態度でかまえていた。それは多分あたるくんとラムの関係もそうだろう。私たちはいつだって、影が落ちるような明確な存在を無意識に嫌う。曖昧にぼんやりと楽しい今を、意図せずにわたしたちは統一されたスローガンをかかげていたように思う。
だから、時折面堂くんがそんな目で二人を見ているのを見るとわたしは胸がズキンと痛くなった。そして同時に怖くなった。深刻なものがそこにあるということを認めたくなかった。制服を着て教室に閉じこもって、いつまでも茶番劇は続けていられない、どこかでしっかりと誰かが傷つかなければならないのだと、彼の横顔はわたしに思い知らせた。だって、そんな彼の横顔を見ているわたしは、まったくその時の彼と同じだったから。

自分の苦しみを自分以外に誰も知らないという認識はどこか甘美なものだ。一方通行で、口にも出せない恋というのは、そんな自分を憐れむための自分への恋というのが大概だろう。そうでなければそんな辛いもの、長く続くはずがない。





































黙っている私たちの隙間を暗い教室の空気が埋めていた。
あたるくんの横顔を見る。表情は読めない。
私と同じように、あの頃のことを静かに思い出しているのだろうか。
だとしたら、悲しい思い出としてか、悔やむ記憶としてだろうか――――それとも、私への強い憎しみを伴ういたみだろうか。

そっと私は、不安をはねのける。
あたるくんは私の隣から離れない。私は彼の秘密を飼っているのだから、と言い聞かせて。

「あたるくん」
「ん?」
「今でもわたし、制服着られるかしら?」

あたるくんはジーンズのポケットに手をいれた格好のまま、髪を揺らして笑った。

「きっと似合うよ。」

今度は冗談も言わない。
私は滑稽なほど、彼がこの部屋でやさしく静まり返っていることに安堵する。
彼が何もかもをまだ捨てきれないのだということをひしひしと感じて。

見えないからといって、そこに存在しないわけではない。
見えていたものが見えなくなったからといって、消えたわけではない。
むしろ私は、より確かに感じるのだ。
私には絶対に見ることも触れることも出来ない底の底で、冷ややかに存在し続ける彼の一部の、息遣いを。








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