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コピーを取りに行く仕事はたいてい私が請け負っていた。
面堂くんは書類の山を減らす第一戦力だったし(というか私か面堂くんしかほとんど役に立っていなかったのだけれど)、彼にばかり仕事をさせたくないという思いからだった。



生徒が自由に使えるコピー機は図書室の前と職員室の中にある二台で、わたしはほとんどの場合階段を登らなくてすむ職員室のコピー機を使っていた。
職員室のドアをノックし、コピーを取りに来た旨を伝える。放課後は先生方は科準備室にいる場合もあるので室内の面子は時によってまちまちだった。
この日は丁度、温泉マーク先生が一人で部屋番のように何もせず座っていた。冷房のない部屋でシャツをまくって、汗だくになってひたすら日誌で扇いでいる。
「お〜三宅か。どーだ進捗具合は」
「やっと終わりが見えてきたってところです。」           
「そーかそーか、いや、校長からも再三催促されてるもんでな〜先生も心配だったんだ」
「心配なら先生もあたるくんにサボらないように言ってやって」  
何が心配よ、ただの保身じゃない……緩んだ笑顔に呆れる。それなら少しは手伝えって話だわ。まあ、先生が来たって余計教室が仕事どころじゃなくなるのは身をもって知ってるから遠慮しておくけど……。 
コピー機の上蓋を開いて書類をセットして、ボタンを押す。相当古いものらしい機械は、音をたててがたがたと前後左右に小刻みに揺れる。蓋の隙間から緑の閃光が一筋漏れて、左へすうと動いていく。微かに聞こえる電子音と同時にトレイに刷り立ての印書が滑り落ちたのを確認して、また上蓋を開ける。
すっかり慣れたものだ。30枚以上あったものを同じ手際ですぐに終わらせる。

「じゃあ先生、失礼しました」
「問題起こらんよーにな」

ドアを出ると、廊下のほうが静かで涼しかった。
誰もいないまっすぐな廊下をひたひたと歩く。
なーにが、問題起こらんよーにな、よ……。担任のくせに心配して手伝うどころか自分かわいいだけの事なかれ主義ね。だいたい問題って、何か起こるとでも思ってるのかしら。ただあたるくんとラムが騒いで、私と面堂くんが倍の仕事をやってる、それだけなのに。ああ、この前はたしかに、教室表示札を壊してサクラ先生に怒られたけど……
私たちはいつもふざけてばかりだ。本当の問題なんて怒るはずがない。だれも触れようとしないんだもの。
魚、そう、同じ水の中を一生ぐるぐる回っているあの魚みたい。居心地の良い、どこか綺麗すぎて変なカルキのなかで、ぐるぐるぐるぐるぐるぐる泳いで、毎日同じ面子で同じことの繰り返し。
廊下を折れて教室棟へ入る。人の声が控えめにあちこちから届く。日の角度が変わって、こちら側は少し温度が上がる。
でも、誰も触れようとしないなんてのも変な話よね。触れるも何も、現状が答えなのに……。面堂くんはラムのことが好きで、でもラムはあたるくんが好きで、あたるくんもラムが好きで……、私は面堂くんが、好きだけど……、言わないのは、怖いからだし、それに、面堂くんの恋を、わたしは否定できないからだ。本当は私だって面堂くんに見てもらいたいけど、ラムのことだって、あたるくんのことだって、嫌いにはなれないもの。でも、面堂くんは、ラムがあたるくんを好きでいることを、否定する権利があるんじゃないかしら。だって彼はいつもあたるくんといがみ合っているし、大好きな相手をいつも目の前で適当にあしらわれている。面堂くんはいつからか冗談でだってラムに好きと言わなくなった。そうまで本気なら、言えばいいのに。ああして黙って、二人を見つめるくらいなら、壊してしまうために何か行動すればいいのに。
2-4の表示に近付く。閉められたドアの前に立ち止まる。
あれ、それってもしかして……――――あら、そういえば、来る前はあたるくんと面堂くんが丁々発止やってたのに、随分静かだわ、またあたるくんがいなくなったのかしら――――、面堂くんが二人を見つめる表情は、ぼんやりと虚心したようにも切ない悲しさを湛えたようにも、イライラしたようにも見えた。その目が見ていた先をわたしは正確に見定めようとしたことはなかった。考えたこともなかった……、面堂くんはどうして、黙っているんだろう、おかしいわ、あたるくんよりもラムを大事にする自信があるのなら、奪ってしまえばいいのに、それをしないのって、つまり……
私は考え事に夢中になりながら、そろりと扉に手をかけた。だからそっと開いたドアの隙間から見える教室の電気が消えていたことに、すぐ気が付かなかった。ひやりと鼻先が触れた静かな冷たさに驚いて視線をあげたとき、思い至った答えが、ネガみたいに一瞬で焼き付いた。

――――それってつまり、面堂くんにとっては、ラムよりもあたるくんのほうが大事だってことじゃないのかしら。






































隣の机が小さく音を立てた。あたるくんが体を離したようだ。

私は今でも、あの時のことを、鮮明に覚えている。
静かで冷たいこの教室のまさにこの席。扉の隙間から見えた、あたるくんの前髪、横顔。白い額、夏になって少し痩せた指……。

「あたるくん」

静かだった。今みたいに。私は目を伏せて、時間が巻きもどるような錯覚に浸っていた。

「あの時、――」

冷たい手が手に触れて、私は言葉を止める。立ち上がった彼が膝の上にあった私の手を取って、

「帰ろう。しのぶ」

その手をやさしく握って、笑った。もちろん、握るだけ。

「……うん」

私も笑った。多分精一杯に。冷たい指と指の間に絡むように手を握り返して、座っていた椅子を直しもしないで、彼に寄り添う。机と机の間を、縫うように扉まで歩く。
あたるくん、扉の前で小さく呼ぶと、少し止まって首を小さく回した。こんなに背伸びが必要になったのはいつからだったろう。せつないくらい、触れるだけのキスをする。涼しい彼のシャンプーの匂い。茶色い目が私を見る。その円周が滲むように優しくなって、もう片方の手が、頬に触れて、あたるくんが少しかがみこんだ。冷たい大きな手のひらの奥の温度を感じながら目を閉じて。私たちはもう一度優しいキスをした。











































あの時、扉の細い隙間からはっきりと見えた。
影の落ちた横顔が愛おしむように、ペンを握った細い指先に口づけをしたのが。
冷たく、澄んだ、確かな温度で、彼の強い感情は切ないほど教室に満ちきっていた。
時間を止めたように鎮まった、水底みたいに冷ややかな空間。
私は思わず息を止めた。

見たことがなかった。
彼のそんなに深い場所を。
彼はそんなに深い場所に私を呼んでくれたことはなかった。
私だけじゃない、恐らく、誰も。四六時中傍にいる彼女も、もちろん彼にその場所から呼ばれ続けている当の本人も。

誰に聞かせるでも、見せるわけでもないのだ。
私は彼のあまりにも贅沢な孤独を、苦痛と快楽の狂おしい独占を、――――彼の一番の秘密を、あの時見てしまった。






















































「何もなければって、思うことある?」

去年の夏、大学の近くに新しく出来たカフェに行ったときのことだ。薄い磁気のカップアンドソーサーに、アートされたラテ。全体的に白色に統一された明るい店内は内装もスタイリッシュで、赤い小物がアクセントになっている。わたしたちは壁際に並んだ丸テーブルの一つに向かい合って座っていて、あたるくんはTシャツに薄手の黒いカーディガン、わたしはたしか水色のワンピースを着ていた。

「どういう意味?」
「まんまよ」

熱心に見つめていた携帯をあっさり膝に置いて浮かせた視線を、斜めに追ってみ
る。どこに辿り着く宛てもなかったのだけれど。
以前だったらこんなところには入りたがらなかった彼は、その頃には何も言わずに向かいに座ってアイスコーヒーを頼むようになっていた。夏のような陽射しだった。その頃あたるくんは髪色を少し濃く染め直したばかりだったから、ときどき、横顔が別人のように見えることがあった。前髪も少し短くなっていて。

「はじめから?」
「そうね、はじめから」
「なら、ない」
「どうして?」

私の視線を受けとめずに、彼はまただらしない座り方で携帯を打つ作業に戻ってしまう。

「はじめからないなら、わかんないから。」
「分からない。」
「そー」

彼はクレバーだ、と私は思っていた。
主語のないような端的な言葉は投げやりなわけではなく相手を選んで削ぎ落としているのだということには、大学生になってからはっきりと気が付いた。だから彼はだんだんと確実に寡黙になるのだ。それが分かってからわたしは、彼との会話に適度な緊張と、面白みを感じていた。

――分かるだろ?
という傲慢さと、必要以上に分からせようとしないゆかしさ。それは一見勝手気ままなようにも見えるけれど、その哲学の根本に流れる寂しげな冷たさが、私は好きだ。今も。

ひらけた軒先からぬるい風が一筋届いた。液晶を見ていた彼が一瞬だけ気持ちよさそうに目を細めた。それを見てわたしはいつか見た海の底の魚を思い出す。熱い陽を隠れて、冷たい静けさのなかでだけ自由な、青い魚。

あの教室で、彼はまさしく、あの青い魚だった。夜に泳ぐように、静謐のなかでだけ彼は、どこまでも綺麗なままで自由だった。
それは思わず見惚れて冷たいガラスの鉢に閉じ込めておきたくなってしまう程に、綺麗だったのだ。































「寝てやんの、こいつ」

よ、おかえり、しのぶ、と、へらりと相好を崩した彼が、まだ寝息を立てている面堂くんをからかうように指さした。
動けないまま直立していた私は、その瞬間、全て分かってしまった。
あたるくんは、私が笑わなかったから笑ったのだと。
だから私がすべきことは一つしかなかった。

「…寝不足だって言ってたもん、疲れちゃったのね」

同じように微笑んで暗い教室に踏み込んだ。
「先生、もうすぐ終わるって言ったら安心してたわよ。校長先生にお咎め受けずに済むって」
冷たい空気は弾力を持つように入口で硬く感じたけれど、笑って踏み込むとまるでゼリー状のものがナイフで切れるようにするりと私を受け入れた。内部の息苦しさに従うのはある種心地よくも思えた。

「なんだあいつ、なら手伝えっつの」
「あなたが言えたことじゃないけどね……、電気、つけてもいいかしら」
「うん」

あたるくんが消したの? と聞こうとしたけれど、あたるくんの「うん」に何の気配も感じられなかったから私は無言でスイッチに手を伸ばした。
カチと音が鳴って、薄暗かった世界はまるで魔法を解くように、色を変えた。





















委員の仕事は、夏休みに入る直前に終わった。
あっけなかった。
最後の書類に委員長が認印を押して、校長に提出。
終礼が終われば鞄を持って各々教室を騒がしく出ていく、私たちはもとのとおり名ばかり役員に戻った。

程なくして私はあたるくんと正式に恋人同士になった。
蝉の鳴く公園ですぐ隣を歩いていたあたるくんは平然と
「面堂じゃなくていいの」と言った。
面堂くんは、別の人のことが好きなんだもん。
それは紛れも無く事実のはずだったが、最低な工作をした言葉でもあった。
白い詰襟を、実直な眼差しを、黒いえりあしを、あのしなやかで、でも男性的な節を持った指を、放課後に教室に二人でいたときの静けさとペンを走らす音、遠く聞こえるグラウンドの掛け声、まだ盛りでない蝉たちの声を、風に揺られてカーテンレールのたてる音を、思い出しながら、木陰の道で、わたしはあたるくんと手を繋いだ。
もうあの時間には戻れないのだと、はっきり分かった。
長いようで短い夏休みの終わり頃だった。
あたるくんの口から、彼の名前が出た。それだけで温かい指が触れたとき少しだけ泣きそうになった。






































「なんで?」
「え?」
「さっきの質問」

いつのまにか携帯を畳んだ彼が、アイスコーヒーの空になったグラスのストローを音を立てて啜りながらこっちを見ている。

「いま読んでる本に出てきたの」
「ふーん」

嘘でも本当でもそんなものはさした違いはないのだということをお互い分かっていたから儀礼的な嘘には儀礼的に相槌を打たれた。
彼が私の隣にいる事実も、私が彼を捕まえている事実も、なにひとつそんなちいさな虚実で揺らぐことはないのだから。

「……そうね、もう一つ聞いていい?」
「なに?」

私は耳の片方崩れたラテアートのウサギを眺めながら言った。

「いま持ってるもの、全部なくならないでいてくれたらって、思うことは?」

あげられた彼の茶色の瞳孔に私が唐突に映りこむ。

私は認めなくてはならなかった。この目が私を映し出すたびに、私は少しずつ逃げられなくなる。どうしたって欲のないその目が追う先にいたいと思ってしまう。
私は、あたるくんのことがすごく、好きだ。
あたるくんの全てを私だけが知っていたい。
あたるくんの、あたるくんだけがもっている冷たさに――――あのとき、一瞬だけ触れたあの、冷たくて深い、青い密室に、いつかもう一度わたしは、触れてみたいのだ。そこに閉じ込められた、――この手で閉じ込めた私でさえ輪郭も知らない――誰も知らない彼の本当を、できたら抱きしめて優しく撫でてあげたい。
彼の贅沢な寂しさをわたしだけが分かちあいたいと、さみしいくらい思うのだ。














ふっと、砂山を崩すように彼が笑った。

「持ってるもんは、自分の意思では捨てらんないよ。逆もそう」
「……そう?」
「そーだよ」

机の向こうから手が伸びて、ぴんと額を弾かれる。

「?! 痛っ!」
「しのぶ、また前髪伸びたな、切れば」
「そんなのびてないわよ、まだ目にかからないもの」
「切ったほーがかわいいよ」

――…もう、またからかって…。戸惑いを悟られないように睨みつけると予想通り、屈託なく笑った。

彼が私の隣にいてくれるのは、わたしが彼の秘密を飼っているからに違いない。
それなのにできたらそれが私への本物の笑顔であってほしいと思ってしまういまの私にはもう、彼が私にどんなふうに笑っているのか見極めることができない。


顔をあげた彼が、向こうの通りに大学の友人を見つけたらしい、
「あ、あいつ彼女連れてる」
悪戯っ子のように笑った。
前髪が光って揺れるのを、いつも私はすぐ横で見る。


はじめからないなら、分からない。
あたるくんの言葉はきっと嘘じゃない。私は時々どうしようもなく彼に負い目を感じる。あたるくんが笑うとき。あたるくんが手を繋いでくれるとき、あたるくんが電話をかけてくれるとき。
間違ったことをしたとは思わない。……だけどあの時面堂くんが目を覚ましていたらと、どれだけ考えないようにしてきただろう。
その答えを分かってしまって、私は無意識に閉じ込めたのだ。

――――もしかしたらとんでもないことをしてしまったのかもしれない。
あの時私は自分の卑劣さに内心怯えつつ、何故だか無性に、感動していた。
あたるくんは私が笑わなかったから、笑ったのだ。いつものように茶番劇に濁してしまわなかったから。それは、本物であることを静かに認める行動だった。そしてその共有を私に余儀なくさせた。
あの時、何故かあたるくんに自分の片想いを知ってもらいたいと思った。地に着いた足がじれったいくらい、今すぐ全て語り尽くしたいと思った。彼に思いを伝えるよりも、あたるくんにこの気持ちを知って欲しいと強く感じた。寂しそうな横顔が、夕日に光った髪の色が、真剣な目をして対峙した気概が、彼というパズルが解かれるように、あの瞬間にあてはまっていった。どうしてかあたるくんが心底、いとおしいと思った。
彼のさみしさには勝てない。
今なら分かる。彼なら私の寂しさを全部分かってくれると、奇妙な情熱であの時確信したのだ。

間違ったことをしたとは思わない、だけどやっぱり冗談のように笑ってあげればよかったと、思う。今も隣で笑っているこの人に、時々、膝をついて縋り付いて、謝りたくなる。(もちろんそんなことはできないのだけれど。)



「しっかし暑そうだなー、そと」
「出たくないわね。」


夏の匂いをさせた陽射しは店内までは入りこまず、冷房のひややかさは私達を快適にそこに留まらせた。惰性で抜け出せない、夏の日のプールみたい。
もうぬるくなったカフェラテのカップをそっと置いて、心の奥で静かに息を吸い込む。

捨てられないのなら、もっていればいい。いたみつづけることも忘れるほど深く沈んだ場所で、彼のためだけに光る星。わたしが永遠に鍵をかけさせた部屋で、かなしいほど消えそうなほど光り続けるそれを、彼が捨てられないというのなら、私は彼ごと、守ってみせよう。
だから彼が笑わなくなるそのときまで、私はそ知らぬ顔をして、笑えばいいのだ。そうすれば私さえ知らない彼の秘密は彼だけのものとして保たれつづけるのだから。


通りを走った車のミラーに反射した光に刺されて瞳を眇める。網膜に焼き付いたみたい。
この一瞬も、いつか思い出すことがあるだろうか。
辛い思い出として?幸せな瞬間として?はじめから何もなければよかったのにと、いつか思うだろうか。捨てられなくて嘆くのだろうか。嘆くことも諦めて、笑うだろうか?
彼の手が伸びる。変になってる、笑いながら横髪を撫でてそっと離れた。思わずその手を追いかけそうになって、静かに私はその衝動を抑える。

(ねえ、何を思って笑っているの?)

カラン、と溶けた氷がグラスを落ちる音がした。
名残惜しい。水に潜ってきたみたいに、冷たい指先だった。






































目を開けたまま眠る秘密を見せて
そして 君が最期に笑う理由を見せて



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