またひとりで空まわり

連れて来られたのは然程高くないビルの前だった。
美形さん曰く此処に探偵社の事務所が在るらしい。
今まで気にも留めていなかったが、彼の名前を私はまだ知らない。
私も彼にまだ名乗ってはいないが。
凄く今更だが今此処で聞いても良いだろうか。
然し今聞く必要がない気もする。
抑々名前と云うのはもっと前に聞いておくべきだったのではないのか。
例えばそう、この建物に来る間に聞いておくなど。
そうすべきだったのだが、どうやらうっかりしていたようだ。
一人名前について悩んでいると、彼の方から「お嬢さんの名をまだ聞いていなかったね」とほほ笑みかけてきた。
これぞまさに天の助け。

「みょうじなまえと云います」
「其れは其れは、とても可愛らしい名前だねえ。見目麗しい君にぴったりの名前だ。私は太宰だ」

可愛いだの麗しいだの先刻から云われっぱなしの私はすっかり顔が赤くなっていた。
こういう事に云われ慣れていないのだから仕方ない。
卑下しているわけではないが、別段私自身容姿が良いわけではないと思う。
今まで可愛いと云われた事が殆どないに等しい。
お世辞だと分かってはいるが、慣れていない私からしてみればとても心臓に悪い。

赤面した顔を隠そうと俯く私の手に太宰さんの手が触れた。
そのまま優しく手を引かれビルの階段を上って行く。
事務所と思われる扉の前までやって来た私は思わず目を見開いてしまった。
扉に書かれている文字を何度も何度も読み返すが、どうやら読み間違っているわけではないらしい。
其処に書かれているのは―――武装探偵社
噂程度ではあるが聞いた事があった。
異能力を持った社員が軍や警察の手に負えないような危険な仕事を請け負っている、と。
つまり私の隣に立っている太宰さんも異能力者なのだろうか。

探偵だと名乗っていたからてっきり"普通の"探偵かと思っていた。
そんなまさか連れて来られた先が武装探偵社の事務所だなんて想像出来る筈がない。
警察に行けば何とかしてくれそうな案件を武装探偵社がわざわざ取り合ってくれるとは思えない。
だがしかし、善意で此処まで連れて来てくれた太宰さんに一体何と云えば良いのか。
今更後には引き返せない。
当たって砕けろの精神で乗り切る事を心に誓った私は武装探偵社の門を潜った。

「太宰貴様!!今まで何処をほっつき歩いていた!!」
「やあ国木田君。ただほっつき歩いていたわけではないのだよ。ちゃんと人助けをしていたよ」
「人助けだあ?」

扉を開けて中へ入った途端に怒鳴り声が聞こえたら其れは驚いてしまうに決まっている。
私よりも幾分か背丈のある太宰さんの陰に思わず隠れてしまった。
眼鏡を掛けたこれまた私よりも高身長な国木田と呼ばれた彼に睨まれ余計に足が竦んでしまう。
矢張り入る前に帰れば良かった。
凡人の私が来る処ではなかった。
今すぐにでも帰りたい、帰らせてください。

太宰さんと眼鏡の彼が何やらやり取りをしているが、そんな会話が今の私の耳に入るわけがないのだ。
頭の中は帰りたい、その言葉で埋め尽くされている。
若しや今帰ったとしても二人は会話に夢中で気づかないのではないのか。
名前は云ってしまったものの、何処に住んでいるかや携帯の番号までは知らない。
帰ってしまった者勝ちという解釈で良いのでは。
よし帰ろう。

後ろに数歩下がると丁度ドアノブが手に当たった。
これは幸運だ。
後は回して開けて、逃げるが勝ち。
だが、人生とはそう上手くいくものではない。
ドアノブを回した時に小さな音を立ててしまい、流石は探偵なだけあって会話に夢中だったにも関わらずその音が耳に入ったのだろう、瞬間二人は私に目をやった。
本当に今日は厄日だ。

「貴様、どこへ行く気だ」
「お邪魔かなあと思いまして…あの…すみません…」
「国木田君が大声出すから怖がっちゃったんだよ」

元はと云えば貴様が、とまた云い合いが始まってしまった。
本当にもう帰らせて下さい、私は完全に蚊帳の外だ。
こんな調子でストーカーの話を聞いてもらえるとはとても思わない。
真っ直ぐ警察へ向かうべきだった。
もう二度と探偵と名の付く処へ行かない、絶対にだ。

然しながら帰ろうとしても気づかれてしまっては私はもうどうする事も出来ない。
他に手立てがないのだ。
会話に割って入ろうかとも一寸思ったがそんな度胸があるのなら気づかれても迷わず事務所から飛び出している。
つまるところ如何しようもないというわけである。

「却説、みょうじさん。本題に入ろうか」

手招きされついて行った先はソファーの上。
机を挟んで太宰さんと向かい合わせに座っている。
きちんと聞いてもらえるか怪しいとことだが、人の厚意は素直に受けるべきだと死んだおばあちゃんが云っていた。
此処は素直に事情を説明るすべきだと判断した私は如何してこんな事になってしまったのか詳細に話した。
話していると徐々に彼への怒りがこみ上げてくるが今は我慢するべき時。
全部奴が悪いのだ。
俗に云うドメスティックバイオレンス紛いの事だってされた。
別れ話を持ち出されて当然の行為をしてきたというのに奴は私が悪いと云い張る。
何処までも性根の腐った野郎だ。

「おい太宰、まさか力になるとか云うんじゃないだろうな」
「えー放って置く心算なのかい?」
「此れは俺達ではなく警察の仕事だ。ストーカーなんぞに構っている程暇じゃない」

仰る通りです、言い返す言葉もございません。
武装探偵社が助けてはくれない事くらい分かっていた。
分かった上で私自身も話をしていたが。
心の何処かでは若しかしたら力になってくれるかもしれないと期待していた自分もいた事もまた事実だ。
国木田さんは眉間に皺を寄せつつ太宰さんを諭している。
此れで晴れて私はマイホームに帰れる。
この足で警察へ行こう。
力になってくれないかもしれないが、その時は仕方がない。
そうなればいよいよ引っ越しも考えなければならなくなるが。
殺される危険性を考えれば何処か遠くへ逃げるのが賢明だ。
荷物を持ち直すとソファーから腰を上げた。
けれど太宰さんの静止の言葉により私の動きはぴたりと止まる。

「考えてもみなよ。ストーカーだよ?若し警察が力になってくれなくて明日にでも報道で彼女が殺害されたってやってたらどう?責任感じちゃうでしょ?あの時ちゃんと力になってあげれば良かったってさ」
「其れは…そうだが…」
「此れも立派な人助けだ。困っているご麗人が目の前にいる。助ける理由が他にいるかい?」

太宰さんの力説により如何やら国木田さんは折れたようだ。
仕方ないと云わんばかりに「力になってやる」と小声で呟いた。
あまりにも小さい声だったので、本当に此れが先刻まで大声で怒鳴っていた国木田さんなのかと疑ってしまう。
何はともあれ私は武装探偵社の方が助けてくれるようで一先ず胸を撫で下ろした。
如何いう方法で力になってくれるかはさて置き、悪いようにはされないだろう。
そう願いたい。

「そうは云ってもだな、如何やって助ける。相手はストーカーだぞ」
「まあ色々手はあるけど、此処は正攻法で撃退すべきだと私は思うのだよ」
「貴様の口からそんな言葉が出て来るとはな」

呆れる国木田さんを他所に太宰さんは私の傍までやって来るや否や大きな其の両手で私の手を包み込んだ。
何事かと油断していた私は思わず慌ててしまう。
そんな私を知ってか知らずか優しく手の甲を撫で始める太宰さんは何処か上機嫌だ。
何を考えているのやら皆目見当もつかない。

そして太宰さんがこう云うのをはっきりと聞いた。
聞き間違いではない。
否、聞き間違いであって欲しかった。
そう、彼はこう云ったのだ。

「私が君の恋人になろう」





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