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 翌朝は珍しくアラームなしに目が覚めたが、生憎目覚めはすっきり爽快とはいかなかった。昨夜散々泣いたせいか瞼が腫れぼったくて視界は狭く、同様に散々喘いだせいか喉も渇ききってひりひりと痛んでいた。さらに腰を中心に全身が重くて全く力が入らず、そして何よりひどい賢者タイムに襲われていた。
 正確な統計を取ったわけではないので実際のところは定かではないが、俺の見立てではこの学園の高等部に在籍する男の半数以上は男性経験がある。仮にその全員が一対一対応で性行為を行っているとすればすなわち生徒の四分の一は男性器を挿入された経験があるということになるわけだ。ただし実際には一人で何人もの男と性行為に至った男もいればプラトニックな恋愛を貫いているカップルもいるだろうから多少の誤差はあるだろうが、しかしそう大きな乖離はないだろうと思う。だとすれば少なくともこの近辺においては、尻に男性器を挿入されるという経験は少数派ではあるがそう珍しいものでもないと推測できる。
 などとつらつらと考えてはみたが、かと言ってそれが何の慰めになるわけでもなかった。
 俺はなぜ抵抗せずに大人しく守山に抱かれたのだろうか。分からない。そしてなぜ守山に抱かれてあんなに幸福感に満たされたのだろうか。全く分からない。分からないこと尽くしだった。
「あー……アホか俺は……」
 呻いた声は昨日同様、いや昨日よりはるかに掠れていた。喉はますます痛み、端的に言って死にたくなった。
「あー……」
 もう一度掠れた声で呻いた時、俺がくるまっていた布団がもぞりと動いた。視線を向けると、俺の隣からうつ伏せの後頭部が覗いているのが見えた。染色をしていない黒髪は見た目にも触り心地が良さそうで、そして確かにさらりとした滑らかな触り心地だったような気がする。気がする、と言うのは、実際に昨夜触ったどころか掴んだり引っ張ったり色々したはずだが、正直余裕がなくあまり覚えていないからだ。かと言って別にわざわざ確かめたいわけでもないので一部寝癖のついたその後頭部を眺めていると、再び布団がもぞりと動いてその下からにゅっと裸の腕が一本飛び出してきた。飛び出した腕はぱたぱたと辺りを触り、何かを手探りで探している様子だった。眼鏡でも探しているのか、しかし守山は眼鏡をかけていないはずだったが、と思っていると、枕元をぐるりと一周したその手は最終的に俺がいる方とは反対側の、少し離れた所に転がっていた煙草の箱を掴んだ。ぼんやりとその動きを見守っていると、守山は手探りのまま片手で箱を開け、煙草を一本取り出し、ついでに中に入っていたライターも取り出し、そしてそこでようやく俺に背を向けたまま身を起こした。同時に布団が乱暴に剥がされ、守山の広い背中と俺の何も着ていない上半身があらわになった。途端に襲ってきた寒さに身震いしながら剥がされた布団をもう一度引き上げなおすと、守山がゆっくり振り返った。そして俺を見つけ、眠そうに細めていた目をぱちりと瞬かせた。
「……」
「……」
「……」
「あ……? あー……ああ、そうか……」
 低い声で唸りながら昨夜の記憶を探っていたらしい守山は、ようやく事の次第を思い出したのか一人うんうんと頷くと寝ぼけまなこを掌で擦った。寝起きだからか普段よりも表情は緩んでいてどことなく幼くも見えたが、次に顔を上げた時はいつも通り、たいへん意地の悪そうな具合に口元が引き上げられていた。
「よう、どうよ気分は」
「最悪に決まってんだろ」
 即答した俺に、守山はひょいと片眉を上げた。
「あ? 何言ってんだ、あんだけよがっといて」
「だから最悪なんだ」
 極力言葉少なに答える俺の声ががらがらに枯れていることに気づいたのだろうか、守山は火をつけていない煙草を咥えたまま立ち上がり、そして部屋から出て行ったかと思えばミネラルウォーターのペットボトルを手に戻ってきた。守山の癖に中々気が効く男である。手渡されたそれを受け取り一口飲むと、ひんやりと冷たく気持ちが良かった。渇ききっていた喉が潤うと若干気持ちが落ち着き、落ち着いたついでに俺は尋ねた。
「何で俺と寝たんだ」
「お前こそ何で抵抗しなかったんだよ」
 間をおかず即座に返答があったが、しかしこの男は質問に質問で返すなと教わらなかったのだろうか。
「何でって……傷心中だったからかな」
 だが一々咎め立てするのも面倒だったので答えれば、守山は自分で尋ねた癖に気のない返事を寄越し、かと思えば続きを促してきた。だから続けた。
「昨日生徒会室の空調が壊れたんだ。それで時間が空いたから、付き合ってるやつの部屋に行った」
「へえ」
「連絡はつかなかったんだが、部屋に行ったら出てきた。で、先客がいると言われた」
「先客」
「そう。それから、3Pがしてみたいから良かったら交ざっていけと言われた」
 淡々と説明していたはずが、若干声が沈んでしまったのが自分でも分かった。だからつい言葉を切ると、煙草を手の中で弄びながら俺の話を聞いていた守山は怪訝そうに顔を上げた。
「付き合ってたんじゃねえの?」
「……と俺は思ってたんだけど、違ったのかな。手続きはちゃんと踏んだつもりだったんだが」
「手続き? 何だそりゃ」
「つまり告白して、付き合ってほしいと伝えた。相手はそれに頷いた。だから付き合ってると思ってたんだけど」
「ああ、そりゃ付き合ってんだろ」
「だよなあ……」
 だが実際昨日、武井は悪びれもせずに乱れた格好で俺の前に現れ、そして先客がいると言い、俺を他の男も交えた行為に誘った。俺の常識ではそれは甚だ不誠実な行為だと思っていたのだが、あるいは俺が世間と乖離していたのだろうか。
 などと一人思い悩んでいたら、不意に守山がふんと鼻で笑った。
「つうか誰だよ、そいつ」
「……」
 少し悩んだ。俺が名前を出すことで武井に何か迷惑がかからないだろうかと思ったのだ。だが俺が口ごもったからなのかどうか、守山が何というかたいへん恐ろしい表情で俺を睨んだので、俺は諦めて武井の名前を告げた。すると守山はその瞬間表情を緩め、というよりむしろ憐れむような視線を俺に向け、言った。
「別れろ」
「は?」
「手を切れ。できるだけ早く。いや、もう今すぐここで電話しろ」
「え?」
 さすがに戸惑った。おそらく客観的に見れば武井とは別れた方がいいのは確かなのだろうが、何もそこまで急かさなくてもと思ったのだ。だが、それには理由があったらしい。守山は困惑している俺の視線を受けると小さくため息を吐き、呆れたような声で言ったのだ。
「つうかお前知らなかったのかよ。有名なビッチだぞ、そいつ。風紀のブラックリストにも入ってる」
「え……」
 守山率いる強面揃いの風紀委員会が擁するブラックリストという世にも恐ろしい響きはともかくとして、全く知らなかった事実に困惑して目を白黒させていると、守山は俺の目の前に、一体いつ守山の手に渡ったんだか知らないが俺のスマートフォンを突きつけてきた。
「あいつのセフレ同士での刃傷沙汰がここ一年だけでも三回起きてる。刺されたくなきゃさっさと手を切れ」
「……」
 どうやら武井は魔性の男だったらしい。そうと知って改めて思い返してみれば、昨日部屋から出てきた時の色香や悪びれなさや、それでいて全く憎む気にもなれない不思議な愛嬌や、その他それ以前のあれこれからもさもありなんと納得できる気もした。
 もちろんショックもあった。なにせ何も知らなかったとは言え、いや知らなかったからこそなのかもしれないが、とにかく一度は好きになった男なのである。武井の相手が俺だけではなく、そもそも武井が俺をもしかしたら恋人としてではなくそういう相手の一人としか見ていなかったのかもしれないという事実は、だから非常に衝撃ではあった。しかし思っていたほどの、それこそ昨日守山の前で泣いてしまったほどの悲しみはなぜか感じなかった。一体どうしてだろうか、悲しみよりも驚きが上回って麻痺してしまっていたのか、それとも、
「おい、何ぼけっとしてんだよ。お前が言わねえなら俺が言うぞ」
 たいへん恐ろしい顔に戻って俺のスマートフォンを勝手に操作し始めたこの男のせいというかおかげというか、とにかく昨日守山と一夜を過ごしたことが原因なのだろうか。さっぱり分からなかったが、しかし今はそんなことよりも大事なことがあった。
「いやおかしいだろ。お前が何て言うんだよ」
 慌ててスマートフォンを取り返すと、守山は視線を上げ、元々寄せていた眉間の皺をさらに深めた。そしてきっぱりと言った。
「お前は武井と別れて俺と付き合う」
「……は?」
「大体前々から思ってたがな、危なっかしいんだよテメェは。何も知らねえくせにあっちこっちにふらふらした上ろくでもねェのに捕まりやがって。いっそ俺のもんだっつっときゃこれ以上変な虫もつかねえだろ」
「いや……え……?」
 この男は一体何を言い出したのだろうか。いや言葉の意味は分かるが、俺が? 守山と? 付き合う? なぜ?
 いくつも頭の中をよぎったクエスチョンマークに首をひねり、するとその時俺の口からは自分でも思いつきもしなかったような言葉がするりと飛び出た。
「お前もしかして俺のこと好きなの?」
「……ハァ?」
 言った俺でさえ驚いたし、言われた守山も驚いたように目を丸くした。そのまま無言で見つめ合うこと数秒。守山はすっと目を細め、そしてゆっくり口を開いた。
「アホか、んなわけねえだろ。まだ寝ぼけてんのかお前」
「……」
 正直困惑した。守山が俺の言葉を否定したからではない。守山が、俺の言葉を否定したくせにどこか見覚えのあるやたらと慈愛に満ちた表情で微笑み、そして俺の頭を優しくぽんと叩いた、というよりむしろ撫でたからだった。こうもちぐはぐなこの男の言葉と行動のどちらを信じればいいのか、分からいまま俺は口をつぐみ、そして守山もそれ以上何も語らずに黙ったまま煙草に火をつけた。

 以上が俺が覚えている限りの、俺と、俺の天敵である風紀委員長守山が付き合い始めるまでの顛末である。

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