▼ 06

がちがちに緊張しながら声をかけてきた後輩と午後の授業をさぼって空き教室にしけこんで、気づいたらそのまま寝ていた。
目が覚めたら僕1人きり。
静まり返った教室の窓を、いつの間にか降り出していたらしい雨粒がうっている。

制服はおざなりに整えられていて、どうやらそれくらいの気を遣う甲斐性はあったらしい。
でもそれなら起こしていけよと思う。

体は汗でべたべたしていて、雨の湿気も相まってひどく不快だった。
しかも教室の床なんて寝心地の悪い所で事に及んでしまったせいか、体の節々が痛い。
立ち上がるどころか起き上がるのもひどく億劫だった。

連絡したら琢磨は迎えに来てくれるのかな、とちらっと思った。
携帯を見てみれば最後の授業が終わってから少し経った頃。
でも電話帳を呼び出そうと動いた僕の指は、どこかから聞こえてきた音に不意に止まった。

雨音と調和するような、静かな音楽。
たぶんピアノの音。
そういえばこのフロアには音楽室があったっけと思い出す。
選択授業は美術だったから入学以来音楽室には縁がなくて、でも音の聞こえる方向に歩いてみればその音はだんだん大きくなっていった。

音楽には全然詳しくない。
だから曲名なんかさっぱり分からないけど、どこかで聞いたことがあるような曲だった。
静かでゆっくりのその曲はとても穏やかで、でも少し悲しそうな音?
もちろん解釈なんてのもできないからただの想像でしかないけど。

でもこっそり音楽室を覗き込んで、ピアノの前に座っている背中が見慣れたものだったから内心すごく納得した。
普段猫背気味なのにすっと伸びた背筋の上に、本人は無造作ヘアと言い張るこげ茶色のぼさぼさ頭。
琢磨がピアノを弾けるだなんて僕はちっとも知らなかった。

極力静かに開けたつもりだったけど、音楽室の扉はぎしっときしんだ音を立てた。
途端にピアノの音が止んで、琢磨が振り返る。
僕と目が合うと、琢磨は驚いたように目を見開いた。

「由良? 何してんの?」
「それこっちの台詞。琢磨ピアノ弾けたの?」
「弾けないよ」
「でも弾いてたじゃない」
「……こんなの弾けるうちに入んないよ」

苦笑した琢磨がピアノの蓋を閉じる。
その背中が寂しそうで、思わず歩み寄ってこげ茶色の髪をかき回した。

「わっ、何?」
「もっと弾いてよ」
「ええ? 人に聞かせるようなもんじゃないよ」
「聞かせるようなもんだよ。少なくとも僕は聞きたい」
「……」

困ったように僕を見た琢磨は、僕が折れないのを悟ったのか小さくため息をついた。
それから優しい目をして、1曲だけね、と言う。

「リクエストは?」
「僕ピアノの歌なんか知らないよ」
「じゃあそんな由良でも知ってる曲ね」

すっと真剣な顔になった琢磨は、本当に僕が知ってる曲を弾いてくれた。
知ってる曲だけど、僕が知ってるのよりもずっと格好いいきらきら星。
琢磨の細長い指が器用に鍵盤の上を踊って、思わずぽかんと口を開けたまま見とれてしまう。
楽しそうな音。すごく綺麗な音。

弾き終わった琢磨は、これで終わり、とピアノの蓋を閉めてから不安そうな顔で僕を見た。

「どうだった?」
「すごかった」

呆気にとられたまま素直に言うと、琢磨はほっとしたように微笑んだ。
それから椅子から下りて、床に敷かれたカーペットの上で体育座りをしていた僕と同じ目線に座り込む。

「本当は由良に捧げる愛の歌とか格好よく弾けたら良かったんだけどね」
「弾けないの?」
「ピアノで気持ちを伝えられるほど上手くない」
「十分上手かったと思うけど」
「いや、俺なんか全然」

そうなのかな。
僕が音楽を知らないから琢磨が上手に見えたのかな。

首を傾げていると床に放り出していた荷物を引き寄せた琢磨が立ち上がる。

「部屋帰る? 帰るんだったら一緒に帰ろ」
「うん、いーよ」
「あれ、由良荷物は?」
「あ、教室」
「教室? 荷物置きっぱなしで何して……ああ」

不思議そうに僕をまじまじと見た琢磨は、すぐに苦笑して愚問だった、と呟いた。
それで自分の体を見下ろせば、制服は着乱れているしカッターシャツにも皺が寄ってしまっている。
何をしてたのか悟られても不思議はないような格好だった。

途中で僕の教室に寄ると言って歩き出した琢磨の背中に追いついて、右手を握る。
反射的に手を引こうとした琢磨は、僕がその手を目の高さまで上げてまじまじ眺めると、下心があっての行動じゃないことに気づいたのかされるがままに任せてくれた。

「綺麗な手。ピアノ弾いてたから綺麗なの?」
「え? いや普通だと思うけど」
「普通じゃないと思う」
「でも由良の手だって綺麗だよ」

琢磨が微笑んで、琢磨の手を握る僕の手を見下ろす。
そうかな、どう見ても琢磨の方が綺麗。
握り返してくれないかな、と思ったけど琢磨の手はだらんと力を抜いたままだった。
琢磨は僕がそうしろと言わない限り僕に触らない。
性的な意味ではもちろん、ごく普通の意味でも。

「ピアノ習ってたの?」
「……ピアノの話はいいじゃん」
「でも聞きたい」
「由良」

僕の名前を呼んだ琢磨の声はどこか固かった。
怒ったのかな、と思ったけど僕を振り返った琢磨は笑顔だった。

「着いたよ、教室」

……もしかしてはぐらかされた?
なんか悔しい。





降り続いた雨は夜中には雷に変わった。
雷が怖い、と言って部屋を訪ねた僕を、もう寝ていたらしい琢磨は眠そうに目を擦りながらベッドの中に迎え入れた。
背中に腕を回して抱きつくと、布団をかぶせてくれていた琢磨がぎしっと固まる。

「ね、ぎゅってして」
「う、うん」
「頭撫でて?」
「……うん」
「キスして」
「それはだめ」
「ちぇっ」

拗ねてみせると、暗闇の中で琢磨がかすかに笑い声をもらす。
それから、雷が怖いなんて嘘でしょ、と小さな声で呟いた。
それには返事をしないまま琢磨にもっとすり寄って、胸のあたりに頭をぐりぐりと擦りつける。

雷が怖いのは嘘じゃない。
でも本当は子どもっぽくて嫌だから、琢磨が誤解してるんならそれはそれで好都合。
キスは相変わらずしたがらないけど、言った通りに髪を撫でてくれる。
暗いから見えないけれど、白くて細くて長い、あの綺麗な指。

柔らかく抱きしめてくれた琢磨の腕の中は暖かくて、どうしてだかすごく安心して眠れた。

prev / next

[ back ]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -