▼ 第13話 3月

悩んだ末花束を買った。大きなバラの花束なんて大層な物ではないけど、黄色やピンクや白の控えめな花をまとめた綺麗な花束を。もちろん沢口さんには及ばなくても、それでも沢口さんによく似合うと思う。



俺はあれ以来部室に顔を出さなかった。部室どころか学校にも行かなかった。寮の部屋にひたすら引きこもってぼんやりしていた。飯は買い置きのカップラーメン。たまにポットに水を入れる時と風呂に入る時だけ、自室を出る。

非人間的な生活をしながら、俺は沢口さんのことを考えていた。
あんなに綺麗な人はいない。あんなに優しい人は、きっと他にいない。
沢口さんに好きな人がいると分かった今でも、俺は沢口さんが好きだった。
もう顔を合わせずにこのまま別れようと思ったこともあった。しかし、あと一目だけでも会いたいという気持ちもあった。悩んで悩んで頭の中がぐちゃぐちゃになるまで悩んで、それから俺は卒業式の日に最後に沢口さんに会う決心をした。

正直もう合わせる顔はない。俺は沢口さんの役には立てないし約束さえ守れなかったのだから。だが、このまま別れたら俺は一生沢口さんを忘れられないだろうと思った。完全に俺のエゴだが、なにせ優しい沢口さんのことだから俺の最後の我が儘くらい許してくれるんじゃないかという甘えた考えもあったのだ。

顔の腫れと怪我は、もう傍目には分からないほどになっていた。久しぶりに髪を整えて髭を剃り、制服に腕を通す。卒業生に贈るための花束を購買で買う頃には、俺はすっかり緊張していた。だから、式と最後のホームルームを終えて出てきた卒業生の群れの中に沢口さんの姿を見つけ、目が合った時にはなおさら緊張した。

「……永田くん!」

目を見開いた沢口さんが次の瞬間駆け寄ってくる。制服の胸についた花の形の飾りや手に持った卒業証書の筒に、ああこれで最後なんだな、と悲しくなる。目の前で立ち止まった沢口さんに花束を差し出せば、慌てたように筒を脇に挟んだ沢口さんはおずおずと両手を伸ばして受け取ってくれた。嬉しそうに目が細められ、綺麗ですね、と呟いた小さな声が俺の耳に届く。

「卒業おめでとうございます」

情けなく声が震えないようにするので精一杯だった。沢口さんの視線を痛いほど感じて、それを避けるように目を伏せる。

「今までありがとうございました。俺、沢口さんに会えて良かったです。すごく楽しかったし、……っ」

視界が滲んで、言葉が詰まった。ぽたりと落ちた水滴が、足元の土を濡らす。泣くつもりではなかったのに。最後くらい笑ってお別れを言いたかった。大学に行ってもがんばってください、どうかお元気で。どうしてこのくらいのことが言えないのだろう。
どんどん溢れてくる涙で熱くなる目頭を押さえて唇を噛むと、不意にもう片方の手を優しく掴まれた。視線を上げると、沢口さんが綺麗に微笑んでいる。

「場所、変えましょうか」



連れてこられたのはいつもの部室だった。積まれていた問題集や参考書類は姿を消し、沢口さんの私物だったらしい実験道具や用途のよく分からないあれこれも、いくつかある段ボール箱から顔を出している。卒業生が置いていった物はまだ残っているものの、片付けられた室内は沢口さんがここからいなくなってしまうことを嫌というほど示していた。

途端に後悔した。与えられた残り時間を、ここで沢口さんと過ごしたかった。そのためならどんなことでもできると今なら言える。それなのに、どうして俺は沢口さんの恋愛相談を聞くくらいのことが出来なかったんだろう。

止まりかけていた涙が再び溢れ出すのを感じていると、手を引かれて片付いたソファーに座らされた。隣に腰を下ろした沢口さんが、黙ったまま優しく背中を撫でてくれる。暖かいそのぬくもりと、片付いてしまっても変わらず部室に流れる穏やかな空気。全部今日で最後なんだと思うと堪らなくなる。
涙を拭って深呼吸を一つ。言いたいことは山ほどあるはずなのに、何一つ言葉にならなかった。黙りこくっていると、代わりに沢口さんが口を開く。

「永田くん、僕の最後のお願いを聞いてもらえますか」

最後。
その言葉に、胸が引き裂かれるように痛む。もう躊躇いはなかった。強く、何度も頷く。

「はい、何でもします」
「何も聞かずにこれを飲んでください」

沢口さんが胸ポケットから取り出したのは、小さなピルケースに入ったカプセル剤だった。
透明なカプセルの中に淡い緑色の液体。何も考えずに差し出されたビーカーの水で飲みこむと、それを見届けた沢口さんは詰めていた息を小さく吐き出した。

「……僕も永田くんに会えて良かったです」
「はい……」
「とても楽しかった。今まで生きてきた中で、一番楽しい一年間でした」
「俺も、です」
「いつも僕の我が儘を聞いてくれてありがとうございました。僕は永田くんに甘えっぱなしで」
「そんなこと……」
「いえ、事実です。僕は永田くんの優しさに何度も甘えていました。……どうでしょう、何か変化はありますか」

言葉を途切れさせた沢口さんが俺の顔を覗きこむ。いつもの冷静な目ではない、不安そうな表情。少し考えた末、俺はゆっくり首を振った。

「いや、多分まだだと思います」
「そうですか……失敗ですね」

瞳に落胆を滲ませて肩を落とした沢口さんを見て、俺はこっそり唾を飲みこんだ。演技力に自信はないけど、最後の思い出を失敗で終わらせてほしくない。それに、俺自身もそうだ。たとえ沢口さんを騙すことになったとしても、沢口さんとの思い出は綺麗な形で終わらせたかった。
だからさりげなさを装って何の薬だったのかを尋ねると、沢口さんはかすかに苦笑いをして立ち上がった。背を向けて水をくれた時に使ったビーカーを洗いながら、ともすれば水音にかき消されそうな小さな声で呟く。

「惚れ薬です」
「え?」

効果はないのは当たり前だった。俺はとっくに沢口さんに惚れているんだから。
でも何でそんなもの、と考えかけて気づく。

「……そうか、好きな人に使うんですね。でも沢口さんならこんな物なくたって大丈夫だと思いますけど」
「いえ、永田くんが僕に惚れてくれたらいいのにと思って」
「え……」

呆気にとられて見上げると、水を止めた沢口さんは振り返って眉を下げた。目が合うと困ったような顔で目を伏せ、ため息をつく。

「すみません、卑怯なことをして」
「えっ…… 何で」
「永田くんとこれっきりになるのが嫌だったんです。僕は永田くんのことが好きなので」

その瞬間、時間が止まったと思った。息ができないくらいの衝撃で頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。

そんな、何が、今何て、
好きな人って、じゃあ、
でも何で……?

頭の中をぐるぐると疑問符ばかりが回って、次に訳の分からない感情が体の奥から湧き上がってくる。それは、おずおずと視線を上げた沢口さんと目が合った瞬間に爆発した。勝手に動いた体が、驚いたように目を見開いた沢口さんを引き寄せる。抵抗せずに胸の中に飛び込んできた体をきつく抱きしめれば、固まっていた頭はようやく現状を認識しだした。じわじわと、信じられないくらいの歓喜が溢れ出す。

「な、永田くん? ……もしかして薬の効果が」
「効いてません」
「え?」
「……そんな物なくても、俺はずっと沢口さんのことが好きだったから」

耳元で囁けば、沢口さんははっと息をのんで身じろいだ。少し力を緩めれば、潤みかけた目が俺を見上げる。

「ほ、本当ですか」
「はい。……沢口さんこそ」
「本当です。永田くんが好きです。大好きです」
「……っ、マジかよ、すげえ……」

思わず漏れた本音は、もう沢口さんにしか使ったことのない似合わない敬語も全部吹っ飛んでいた。感極まるとはこのことか。泣き出した沢口さんの綺麗な笑顔が、再び涙で滲んでいく。
信じられない。沢口さんの好きな人が俺だなんて。今日で沢口さんに会えるのが最後にならないなんて。

ぎゅっと抱きしめ返されて、体が震える。目を合わせて、お互い泣いていることに少し笑って、
それから初めてしたキスは、少ししょっぱい涙の味がした。

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