▼ 最終話

◇◆◇

僕が永田くんを初めて見たのは、約1年前の冬のことだった。

高校を出たら自活するようにという電話をその日の前日に義母から受け取ったばかりだった僕は、困り果てながら職員室に進路相談に行った帰りだった。エスカレーター式で行ける大学はとんでもなく学費がかかるからどうしても無理で、進路指導の先生が親切に外の大学のことや奨学金のことを調べてくれたおかげでまあ何とかなるかもしれないと道は見えてきたけれど、正直いくら邪魔だからってそりゃないよ、というようなことを思っていたような気がする。
その時の僕は突然一人ぼっちで放り出されたような気分でとても心細く、けれど同時に腹立たしくもあった。今思えば、もしかしたらだから僕は永田くんに惹かれたのかもしれない。

職員室を出て部室のある西棟に向かう途中のことだ。科学部の部室のある三階はどこも静かで、開け放した窓からは喚き声というか怒鳴り声というか、とにかく怒ったような人達の声が聞こえていた。おそるおそる窓側に近づいて見下ろすと、少し離れた所に何人かの集団が見えた。全員髪を染めていて、シャツをだらんと出していたりズボンを腰で履いていたりと制服の着方も適当な人達。本当に素行の悪い人達は旧校舎に隔離されているからこの人達はそこまで悪いわけじゃないんだろうけど、でもどう見ても、いわゆる不良だとかヤンキーだとか言われるような集団だ。

そして彼らに囲まれるように、金に近い綺麗な茶色の髪の人が中心に立っていた。

その時僕は彼のことを知らなかったので、多勢に無勢だと思った。風紀委員に連絡するべきか悩んで、けれど僕が悩んでいる間に事態は一瞬で決着した。中心にいた彼はあっという間に全員を殴り倒したのだ。

眼下で起こった光景に唖然とした僕は、目にも止まらぬ早業とはこんなことを言うんだろうか、と少しずれたことを考えた。その間に、地面に倒れた人達をつまらなそうに見回した彼はおもむろにしゃがみこんで彼らのポケットを漁りだす。何をしているんだろうと目を凝らすと、彼は次々に煙草らしい小さな箱を抜き取り、集めた戦利品を満足そうに自分のポケットに突っ込んで足早にその場を立ち去った。

胸がすっとした、というのがその時の正直な気持ちだった。していることは喧嘩を買ってその後煙草を盗むというお世辞にも褒められた行為ではなかったけれど、それでも僕は彼が格好いいと思った。
それはやっぱりその時の心理状態が関係していたのか、それともそうでなくても彼に惹かれていたのかは、今となってはもう分からないけれど。

翌日同じクラスの友人達に特徴を説明すると、彼が1年F組の永田啓介という人物であるということはすぐに分かった。僕が疎かっただけで、彼は有名人だったのだ。おそらく、色々な意味で。

ワイルドで男らしくて格好いい、と顔を輝かせる人もいた。
目つきは悪いし無愛想だし怖い、と顔をしかめる人もいた。
1回でいいから抱かれたい、と目を潤ませる人もいた。
不用意に近づくな、と忠告してくる人もいた。

でもその時にはもう既に、僕にその忠告を守る気はなかった。彼が放課後は大抵裏庭の辺りか東棟の屋上にいるという情報を手に入れた僕は、雨が降っているにも関わらずいそいそと屋上に向かい、そして前日に見たのと同じ金に近い綺麗な茶色の髪をそこに見つけた。

寒そうに震えながら煙草を吸っていた永田くんは、僕に気付くと一瞬驚いたように目をかすかに見開いた。けれどすぐにその驚きは表情から消えて、代わりに細い眉がぎゅっと寄せられた。険のある鋭い目つきが僕を睨みつける。思わず肩を跳ねさせた僕は、それで何と話しかけようか考えていたことを全て忘れた。

「あ、あの……」
「あ? 誰アンタ」
「え、ええと、2年の沢口と申しますが、あの」
「何か用かよ」

僕を睨みつけたままの強い視線に、緊張のあまりごくりと唾をのんだことを今でも覚えている。下級生相手に敬語を使っているのはただの癖であって別に最初から怯えていたわけではなかったけれど、確かにその時僕は永田くんのことを怖いと思ったのだ。
けれど同時に、永田くんに昨日以上に強く引き付けられているのもまた事実だった。永田くんには、何と言うかくらくらしてしまうような魅力がある。僕はまるで電灯の明かりに引き寄せられて身を焦がしてしまう蛾みたいだな、とまた少しずれたことを考えた。

「あの、あ、僕科学部なんですけど」
「あ? そんなのあんの」
「あるんです。それで、ええと……モニター、そうモニターを探してるんです」
「何の」
「あー……えっと、禁煙するつもりありませんか」
「……」

自分が科学部に所属しているということ以外は全部口からでまかせだった。それが分かったわけではないだろうけれど、途端に永田くんはますます眉間の皺を深めて、僕の胸倉を掴んだ。そのまま乱暴に引き寄せられて、僕はしまったと思いながら反射的に目を閉じた。

でも、殴られると思った衝撃はいつまで経っても来なかった。代わりに手が離されて、おそるおそる目を開けると永田くんが少し困ったような顔で煙を吸って、吐く。それから短くなった煙草を地面に落して踏みつぶした永田くんは、目を逸らしたままで言った。

「……まあ、別に付き合ってやってもいいけど。暇だし」

どうして急に気が変わったのかはさっぱり分からなかったけれど、でも永田くんが言うにはもうこの時には僕に惚れてしまっていたらしい。これは卒業式の日、卑怯な手口を使って告白した僕を抱きしめてキスしてくれた後、永田くんが照れながら教えてくれたことだ。

部室で泣きながら何度もキスを交わした後、僕は永田くんに今までのことを洗いざらい謝った。禁煙のための薬というのはとっさに口から出たでまかせで、本当はただのビタミン剤だったこと。
媚薬だの大人の玩具だの怪しげな道具を試させてもらったのは確かに友人に頼まれたということもあったけれど、大部分が僕の下心だったこと。
その日惚れ薬と言ったのも何の変哲もないただの色水で、それにかこつけないと告白できないほど僕が臆病だったということ。

それら全てを目を丸くしながら聞いていた永田くんは、驚いていたけれど全然怒ったりはしなかった。代わりに、俺も謝らないと、と言って、僕が二次試験を受けている最中に喧嘩を買って煙草も吸ったということを話してくれた。永田くんはものすごく気まずそうな顔をしていたけれど、もちろん僕も怒ったりするはずがない。
いざ傷を作っているのを目の当たりにすると痛々しくて慌ててしまったけれど、元々永田くんが喧嘩をしているところを見て格好いいと思ったのがきっかけだったし、煙草にしてもただのビタミン剤だったのに自力で禁煙してくれたという優しさが嬉しかったからだ。

それに恋愛相談だなんて曖昧な言い方で誤解させてしまった僕が全面的に悪かったわけで、やけになってしまったと言った永田くんを責める気持ちはちっともなかった。

初対面の時にあんなに怖かった永田くんは、正式に入部する頃にはすっかり借りてきた猫のように大人しくなっていた。僕が笑うとつられるように浮かべる穏やかな笑顔は文句なしに格好良くて何度も見とれてしまったし、でもいつの間にか使い出したどこかぎこちない敬語はとても可愛いかった。残念ながらすぐに慣れてしまったのか卒のない敬語になってしまったけれど、その時はもう僕は永田くんに夢中だった。

それまで恋と言えるような恋はしたことがなかったからそれが恋愛感情だと気づくのは遅かったけれど、でも今考えれば僕は初めて見た時からそういう意味で永田くんのことが好きだったんだと思う。そうでなければわざわざ永田くんのことを聞いて回ったりしないし、近づくなと言われてまで会いに行ったりなんかしない。

恋愛感情なんだと気づいた瞬間から苦しくなって、優しい永田くんが僕の無茶な頼み事を全部受け入れてくれる度にもっと苦しくなった。もっと早くに打ち明けておけば良かったのに、とも思うけれど、それは想いが通じ合った今だからこそ言えることだ。僕は弱くて臆病で、無茶なお願いはできるのに肝心なことはもう後がなくなるまで何一つ言えなかった。

でも本当に、勇気を出してもっと早くに伝えておけばこんなに慌ただしく愛を確かめあわずに済んだのに、とは思う。

卒業式の日からわずか数日で、僕は寮を出ないといけなかった。永田くんが僕のことを好きだなんて思いもしなかったということもあって、僕の成績や行きたい学科や学費や奨学金の制度や、色々なことを考え合わせて選んだ大学はこの学園からはとても遠い。そうでなくても永田くんが高等部にいる間は長期休暇くらいしか外出許可が出ないからほとんど会えないのに、卒業してからもなかなか会えないだろう。

けれど出発の日、永田くんは僕に指輪をくれた。ちょっと早いですけど誕生日プレゼントです、と言って。きらきらした指輪はとても綺麗で、見ているだけで幸せになる。光にかざしてついうっとりと眺めていると、永田くんは少し困ったような顔で言った。

「あの、こういうの重いかもしれないけど虫よけっていうか。沢口さんは綺麗だから大学に行ってもすごくもてると思うんで」
「別に綺麗じゃないと思いますけど」
「いや綺麗です! ……ええと、だからあの、一年だけでいいからつけててもらえると嬉しいんですけど……」
「え、一年だけですか?」
「一年経ったら追いかけますから。俺死ぬ気で勉強します。だからそれまで待っててください、お願いします」

きらきら輝く右手の薬指がじんわり熱くなる。嬉しすぎて抱きつけば、永田くんはぎゅっと抱きしめ返してくれた。男らしい少しごつごつとした指が僕の髪をそっと撫でてくれて、それだけでもう幸せだと思えた。

「待ってますから」
「はい。頑張ります、俺」
「浮気しないでくださいね」
「いや、俺より沢口さんの方が心配……」
「僕はずっと永田くん一筋です。卒業したら一緒に暮らしましょう。ね?」
「は、はい!」

たった一年だ。永田くんと過ごした一年間はとても楽しすぎて短く感じたけれど、次にまた永田くんと過ごせるようになるまでの一年はもっと早く過ぎればいいと思う。

たまには指輪でも見て俺を思い出してくださいね、と永田くんが照れたように笑う。
僕も笑って、僕はいつでも永田くんのことを考えています、と答えた。


-完-

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