▼ 第10話 12月

紙にペンを走らせるかりかりという音が静かな部室に響いている。
すらすらと白い紙を埋めていく数字と記号、長い数式。
全く意味の分からないそれを、俺は身動きもできずに息をつめて見つめていた。

沢口さんは最近、ついに部室でも勉強を始めてしまった。ついに部室でも、というか部室以外の所にいる沢口さんが一体何をしているのかは分からないのでそれ以前も他の所では勉強をしていたのかどうかは知らないけど、大学受験をする以上早めに勉強を始めるものなのだろうと思う。たぶん。
でも沢口さんは今まで試験前でも部室で勉強をすることはなくて、たとえ前日でも好きなことをして過ごしていた。だからそんな沢口さんが勉強しているとなると、受験が迫っているということを嫌でも実感してしまう。

どうして時の流れはこんなに早いんだろう。沢口さんの卒業まであと1年あると思っていたものがいつの間にやらあと8ヶ月、5ヶ月とどんどん短くなり、今やあと3ヶ月と少ししかない。そしてその3ヶ月と少しという時間も、あっという間に過ぎてしまうんだろう。
言いようのない焦りが湧いてくるが、焦ったからといって何をすることもできない。俺にできることは、ただ沢口さんの側にいて沢口さんの役に立つことだけだ。でも勉強面に関しては何の役にも立てないので本当は勉強の邪魔にならないようにここを出ていくべきかもしれない今、沢口さんの側にいるのも俺の自分勝手なエゴでしかない。だからせめて少しでも存在を消すようにと、できるだけ身動きも呼吸もしないようにしている。

ぴたりとペンを止めた沢口さんが、几帳面に並んだ数式を上から視線でなぞる。それから一つため息をついてその紙をくしゃくしゃと丸めた。ぽん、と放られた紙が窓に当たって床に落ち、既にそこに山になっていた丸められた紙の中に混ざる。
それから大きく伸びをした沢口さんは、ペンもテーブルに放り出すと俺を見て、お茶にしましょうか、と微笑んだ。

洗ったビーカーにインスタントコーヒーの粉を入れて、ポットで保温しておいたお湯を注ぐ。
俺の分はミルクを少し、沢口さんの分はミルクを多めに砂糖を少し。すっかりコーヒー専用になっているガラス棒でかき混ぜてから手渡すと、問題集や参考書をまとめてテーブルの上に寄せていた沢口さんは、笑顔でそれを受け取った。

「やっぱり永田くんが淹れてくれたのはおいしいですね」
「いやまあインスタントですけどね」
「でもおいしいです。ありがとうございます」

沢口さんが淹れてくれたコーヒーの方が同じ粉を使っていても百倍おいしいと思う。でも沢口さんに褒められたら悪い気はしない。
いや、嘘だ。たとえ今地球が爆発しても悔いも未練も残らないだろうと思えるほど嬉しい。

にやにやしてしまいそうな顔を隠すためにビーカーに口をつけると、ミルクで少しまろやかになった苦味が喉を通っていく。そんな俺をしばらくの間じっと見ていた沢口さんは、小さく息をつくと脇に寄せていた青い色の問題集を手にとった。来月半ばにあるらしいセンター試験だとかいうものの対策用の問題集らしい。表紙に大きく印刷された数学UBという文字を、沢口さんの綺麗な指が軽く弾く。

「数学って難しいですね」
「あ、難しいんですか」
「永田くんは得意ですか?」
「いや全然。俺は勉強はからっきしです」
「からっきしですか」

小さく笑った沢口さんは、問題集を片手でぺらりと捲った。開かれたページに書いてあった円や直線が絡み合った図形を見るだけで頭痛がしそうになる。顔をしかめていると、沢口さんはそれを閉じて今度はそれより分厚い国語の問題集を開いた。めくられたのは漢字がずらりと並ぶおそらく漢文のページで、意味の分からなさに頭痛プラスめまいがする。

「でも理系はまだマシです。文系はもっと難しいです」
「へえ」
「登場人物の心情なんかは特に。僕は人の気持ちを見抜くのは下手なんです」
「……なるほど」

ということは沢口さんには俺のよからぬ想いは見抜かれていないということだろうか。少し安心しながらコーヒーを飲み干すと、沢口さんは問題集を背後のソファーにそっと放った。ソファーはいつの間にかまた物置化し始めていて、積まれた本やこまごました物の間にその問題集が綺麗におさまる。
それをぼんやり目で追った俺は、沢口さんはもしかしたら不安なんだろうか、と思った。そして、それを裏付けるように沢口さんが困ったような顔で頬杖をつく。

「永田くん、一つお願いがあるんですが」
「あ、はい。何でも言ってください」
「ちょっとぎゅってしてもらえませんか」
「えっ?」

俺の口から漏れた声は、驚くほど間抜けだった。一瞬何を言われたか分からなくて、ぽかんと口を開けたまま固まっていると、沢口さんが俺を手招く。それに引き寄せられるように立ち上がると、沢口さんも立ち上がって俺に近づいてきた。

目の前で、沢口さんのきらきらした髪が揺れた。硬直したままだった俺の腕の下をくぐってきた手が背中に回される。預けられた体を反射的に抱きとめれば、沢口さんは俺の腕の中にすっぽりおさまった。

……これは現実か?

目を白黒させたままひどく混乱していた俺は、肩のあたりに落とされた沢口さんの呟きに我に返った。

「ごめんなさい。最近、勉強すればするほど不安で」
「い、いえ、こんなんで良かったらいつでも、いやいつでもっていうか」
「ふふ、とても落ち着きます。永田くんの体温」
「……っ!」

ほんの一瞬で顔がかっと熱くなった。今のはちょっと反則じゃないかと思う。俺は沢口さんに並々ならぬ感情を抱いていて、いくら夏休みの反省が効いているとは言っても俺の理性なんてたかだか17年しか生きていないガキの、ひどく脆いものだ。
しかし単に慰めを求めているだけの沢口さんの信頼を裏切るわけにはいかないから、必死で耐える。

「永田くん……」

耳元で俺の名前を囁く綺麗な声。かすかに吐き出された吐息が俺の首筋をくすぐる。
落ち着きたい時には素数を数えればいいんだったか。でも素数って何だ。1は入るのか? それとも2からなのか?

「僕、がんばります」
「あ、あの、あんまり無理しないでくださいね」
「はい、でも……」
「沢口さんなら大丈夫です」
「……」
「もし大丈夫じゃなくても……あ、これは不謹慎か」
「いえ、言ってください」
「……沢口さんがもし路頭に迷ったら俺が養いますから」

めちゃくちゃな数字と沢口さんの綺麗な笑顔が飛び交って混乱した俺の頭は、一瞬自分が何を言っているかさえ分からなかった。やばい、と思った時には既に遅く、馬鹿げた言葉は俺の口を飛び出した後だった。
少し顔を離してきょとんとしたように俺を見た沢口さんが、青ざめて固まる俺の顔を見て、優しく微笑む。慈愛を感じさせるような笑顔に状況も忘れて見とれていると、沢口さんはもう一度俺に抱きつき直した。

……いや正直もう、限界というかなんというか。

「嬉しいです」
「え?」
「……」

ぽつりと呟いた沢口さんはそれ以上何も言わなかったけど、それからしばらくの間身じろぎもせずに俺の腕の中にいた。

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