▼ 第9話 11月
部室の壁には小さなカレンダーがかかっている。月替わりでどこかの山の風景の写真がついているそれを、毎月末沢口さんは丁寧な手つきでめくる。月が変わるごとに薄くなっていくそのカレンダーは、ついに残り2枚になっていた。
11月。この学園のメインイベントと言えばおそらく文化祭だろう。外部から来賓や生徒の家族、友人を呼んで大々的に行われるそれは、今まさに学園中を浮き足立たせている。
しかしここ、西棟三階は例外だった。元々規模の小さい部活や同好会の集まる階だからかどこも精力的に文化祭に参加することはないらしく、部員がいるんだかいないんだか分からないような通常営業が行われているようだ。そして、ここ科学部もその例外にもれていない。
とは言え、部活で何もしないとしてもクラスごとの出し物は存在する。俺は参加しないが沢口さんはどうやらそれに駆り出されたらしい。昼すぎに部室に現れた時の沢口さんは、いつもとは違う格好をしていた。多分制服のカッターシャツに、これは制服とは違う黒のスラックス。腰には足首より少し上までの長い黒のエプロンを巻いている。
いつも綺麗な沢口さんは、今日はどちらかというと格好いい。
俺が誉めると照れたように笑った沢口さんは、僕のクラスは普通の喫茶店です、と言った。
「永田くんのクラスは何ですか?」
「さあ? 何でしょう」
「ふふ、クイズですか?」
「あ、いや俺も知らなくて」
「ああそうなんですか。あ、パンフレットありますよ」
エプロンのポケットから縦に2つ折りにしたパンフレットを取り出した沢口さんは、パイプ椅子を俺の隣に引っ張ってきて腰を下ろした。肩が触れそうなほど近い距離にどぎまぎしながら、流し読みしていた雑誌を閉じてそれを覗きこむ。
2年の模擬店や企画、舞台の出し物なんかが並ぶページを開いた沢口さんは、ええと、と呟きながら印刷された文字を綺麗な指先で辿った。
「あ、ありました。2年F組自主制作映画」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたような言ってなかったような、って、あれ?」
「え? どうしました?」
「なんで俺のクラス……」
言ったっけ、いや、言ってないはず。
思わず首を捻ると、沢口さんは、あ、と口を開いた。それから少し気まずそうな顔で視線を逸らす。
「え、ええと、勘。そう、勘です」
「え、ああ……勘ですか」
「はい。勘です」
そんな馬鹿なとは思ったけど、沢口さんがそう言うならそうなのだろう。なにせ彼の言うことは俺にとっては絶対なのだ。だから頷くと、しかし沢口さんは気まずそうな顔のまま自分の首筋を撫でた。
「すみません。僕、今嘘をつきました」
「……ああ、いえ」
「本当は友人に聞いたんです。永田くんは有名人なんですね、皆永田くんのことを知っていました」
「……」
……有名人。
自分が有名人なのかどうかは定かではないが、それが本当ならまず間違いなく悪い意味の方だろう。なぜなら俺は、例えば生徒会役員や運動系の部活の部長なんかのような人気者とはほど遠いし、別段偉業を成し遂げたわけでもないからだ。
しかし一体どんな噂を聞いたんだろう、と複雑な気持ちで口を噤んでいると、沢口さんは不意にへたりと眉を下げた。
「すみません、気を悪くしましたか?」
「えっ!? いや全然!」
「それなら良かったですけど……でもごめんなさい、勝手にかぎ回るようなことをして」
「いや本当に! 全然構いませんから!」
うなだれてしまった沢口さんを見て慌てた俺は、思わずしょんぼりと落とされた両肩を掴んで叫んだ。そしてすぐさま我に返って、反射的に手を引く。沢口さんに触れてしまった手のひらがじんじんと熱い。内心ものすごくうろたえていると、沢口さんはおずおずと顔を上げた。捨てられた子犬を彷彿とさせる目でしばらく俺を見た後、弱々しく微笑む。
「永田くんは人気者なんですね」
「はい!?」
「同じクラスの人が言ってました。永田くんのこと、すごく格好いいって。永田くんと同じ部活で毎日近くにいられるなんて羨ましいって」
「いや……、え……?」
「その人だけじゃないんです。時々永田くんとの仲をとりなして欲しいって僕に会いに来る人達もいます」
「は、はあ」
何だそりゃ。初耳、というか世の中にはずいぶん酔狂な奴がいるもんだ。しかも、ということはつまり沢口さんをパシリに使おうとする輩が存在するということだ。普通にありえない。
許せん、と内心憤っていると、それが表情に現れてしまっていたのか、沢口さんは泣きそうな顔できゅっと下唇を噛んだ。
「……重ね重ねすみません。本当はきちんと永田くんに話を通すべきだということは分かっていたんですが」
「あ、いや」
「つい勝手に断ってしまって。その、永田くんを、……」
「え、俺を?」
「……あの、他の人に取られたくなくて」
「えっ!」
沢口さんに男を紹介されるなんて嫌すぎる、と沈みかけた俺の心は、続いた言葉で一気に浮上した。俺を他の人に取られたくないだなんて言葉が沢口さんの口から聞けるなんてこんなに幸せなことが他にあるだろうか。俺が大人だったら、大事にしまっていた高価なワインとかをいそいそと出してくる場面かもしれない。いや、そんなレベルじゃきっとおさまらない。
「あの、怒ってますか?」
「え!? 全然! すごく嬉しいです!」
「……え?」
「あ」
ふわふわした気持ちのままぼんやりしていた俺は、沢口さんの怪訝そうな顔を見て我に返った。慌てて咳払いをして取り繕おうと口を開くが、俺の口は勝手にぺらぺらと喋った。
「沢口さんに男紹介されたりしたら俺、ショックで寝込みます」
「えっ……」
「全部断ってくれて良かったです。俺、沢口さん以外と仲良く……というかええと、関わるつもりはないので」
「……本当ですか?」
「本当です。沢口さん1人いてくれたらいいです。いや、むしろ沢口さん1人がいいです」
言いながら思う。
さすがに重すぎやしないか、これ。気持ち悪いと引かれたりしないだろうか。
黙ってしまった沢口さんを見ながら今さら青ざめて口を噤んでいると、沢口さんはそっと俺の手を取った。触れ合う手のひらがまたじんじんと熱くなって、息が少しだけ苦しくなる。どくどくとうるさい心臓の音が聞こえやしないかと心配になる。
「僕はこれからも永田くんを紹介してほしいという人達を断ってもいいんでしょうか」
「……ぜひ、そうしてください」
「……良かったです。僕も永田くんと2人がいいです」
「……!」
握られた手に、きゅっと力がこめられる。繋がる手を呆然と見下ろしていたら、沢口さんは俺の視線を捉え、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔があまりにも綺麗すぎてくらくらした俺は、その場で卒倒しそうになったのだった。
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