▼ 第8話 10月

昨夜少しだけ降った雨はどうやらすぐに止んだらしい。早朝に打ち上げられた花火は、体育祭が無事開催される合図だった。
今頃競技が行われているだろう第一グラウンドは、部室からは見えない。しかし風に乗って音楽やら実況やらは時折かすかに聞こえてきて、残暑も厳しいのにご苦労なことだと思う。

体育祭をさぼった俺は、朝から部室にいた。
少ししてから現れた沢口さんは赤いジャージの上下を着ていて、どうやら律儀に開会式に出たらしい。ジャージのポケットからは黄色いはちまきの端が飛び出していて、ということはクラスはGかHかIだということだ。
だからどうと言うこともないけど、また少しだけ沢口さんのことを知ることができたようで嬉しくもなる。

知識の有無と恋愛感情は関係ないと思っているのには変わりないが、やっぱり沢口さんのことを知ることができるのは嬉しいことだと夏休みに分かった。
ちなみに沢口さんの好きな食べ物はチーズ、嫌いな食べ物はヨーグルト。どっちも乳製品なのにとは思うが、沢口さんに言わせればチーズとヨーグルトの間にはものすごく高い壁があるらしい。

さて、今日の沢口さんはテーブルに乗せた分厚い本を眺めている。開く時にこっそり表紙を覗きこんだら、西洋のお化けがどうこうという内容だった。一応科学部のはずなのになぜオカルトなのだろうとは思わないではないが、しかしその脈絡のなさも素敵だ。
卒業生が置いていったらしい漫画雑誌を読みながら、真剣な表情でページを捲る綺麗な横顔をこっそり盗み見ていたら、不意に沢口さんが顔を上げた。

「そういえば永田くん」
「はい」
「もうすぐ誕生日じゃありませんでしたっけ?」
「あ、そういえばそうですね」

言われてみて思い出したが、確かに来週には俺の誕生日がくる。しかしそれを教えたことがあっただろうかと首を捻ると、沢口さんは少し気まずそうに苦笑した。

「実は夏休みに永田くんの部屋にあったアルバムを見てしまったんです」
「ああなるほど」
「すみません。勝手に見るのは良くないと思ったんですが、好奇心に勝てなくてつい」
「いや、構いませんよ」

すっかり忘れていたが本棚にそんな物もあったかもしれないと思い出す。多分それに小さい頃の誕生日の写真でも入っていたのだろう。それからふと、そういえばおねしょ写真なんかも入っていなかっただろうかと思い出して少し恥ずかしくなった。
が、考えてみれば沢口さんには散々恥ずかしいところを見られているから、今更子どもの頃のおねしょ写真くらいで騒ぐことでもないかもな、とも思う。

そんなことを考えながら一人で青くなったり赤くなったり普通に戻ったりしていると、沢口さんはぱたんと本を閉じて俺に向かい合った。
分厚い本の上で組んだ手がやけに白くて綺麗だなあと思っていると、沢口さんが真面目な顔で口を開く。

「永田くんは何か欲しい物はありませんか?」
「欲しい物?」
「誕生日プレゼントに」
「え! いやそんな」
「前に聞いた時はお役に立てませんでしたが、今回は頑張ります」

にこっと笑った沢口さんが、胸の前できゅっと拳を握る。
普段綺麗な沢口さんは、時々ものすごく可愛い。

でれでれしそうになる顔を引き締めつつ、一応欲しい物を考えてみた。頭の中にはすぐに浮かんだけど、それは頭の良くなる薬や時間を延ばす道具と同じくらい現実味がないので自分で却下する。
しかし沢口さんが俺の誕生日を覚えていてくれたというただそれだけで天にも昇りそうなほど嬉しいので、正直それが誕生日プレゼントでもいいんじゃないかと思う。
そして、そう思った所で1つ思いついた。

「あの、じゃあ」
「はい、何でしょう」
「俺も沢口さんの誕生日が知りたいです」
「僕のですか? 3月26日です」
「え……」

……3月26日。
卒業式の正確な日付は知らないが、さすがにその時にはもう終わっているだろう。ということはつまり沢口さんもとっくに卒業してこの部室からもいなくなってしまっている。
お祝いをしようという俺の目論見は見事に外れてしまった。もっと早く聞いておけば前回祝えたのに、と心底後悔しながら肩を落としていると、沢口さんはきょとんとしたように首を傾げた。

「僕の誕生日がどうかしましたか」
「……いえ、ありがとうございました」

頭を下げると、俺を見ていた沢口さんはわずかに目を見開いた。それから驚いたように、もしかして今のがプレゼントですか、と尋ねてくる。頷くと、大きな目がさらに真ん丸になった。

「そんなことでいいんですか? どうして……」
「俺も沢口さんのこともっと知りたかったんです。……だめでしたか?」
「いえもちろん構いませんが、そうですか、そういうことでしたらもっと他にも聞いてください。何でも」
「え、何でも?」
「はい、何でも」

思わずおうむ返しに呟くと、笑顔になった沢口さんは一つ大きく頷いた。その綺麗な笑顔を見ながら、思考を巡らせる。沢口さんのことなら何でも知りたいけど、いざこうなると一体何を聞けばいいか分からなくなってしまう。
しばらく考えた末、じゃあもう一つだけ、と前置きしてから口を開いた。

「あの、沢口さんの下の名前が知りたいです」
「えっ、……もしかして僕名乗っていませんでしたっけ」
「あ、はい」
「そうですか……」

しまったというような顔をした沢口さんは、それは大変失礼なことをしました、とわざわざ頭を下げてくれてから、慌てた俺に少し笑いながらフルネームを紙に書いてくれた。受け取ったそれの中央に並ぶ、ちんまりした可愛らしい丸文字。ようやく知ることのできた沢口さんの名前を口の中で転がしてみた後、思わずため息をついた。

「綺麗な名前ですね」
「え、そうですか?」
「です。沢口さんにぴったり」

きらきら輝く文字列は、綺麗な沢口さんそのものだ。
そう思って頷けば、沢口さんはどこかほっとしたように眉を下げて微笑んだ。

「……嬉しいです。この名前、母がつけてくれたんです」
「あ、そうなんですか?」
「僕がまだほんの小さい時に他界したんですけどね。だから忘れ形見です」

懐かしむように遠い目をした沢口さんが、優しい人でした、と呟く。それから、ぽつりとぽつりとお母さんとの思い出を話してくれた。きっと大事な思い出なのだろうそれを、俺に話してくれることが嬉しい。

綺麗な声で紡がれる沢口さんの思い出を一言一句聞き漏らさないように耳を傾けながら、貰った紙を大事にポケットにしまいこむ。それから、布越しにそっと撫でてみた。
名前を教えてくれたことを、それからこうして俺に思い出を話してくれたということを、一生の宝物にしようと思いながら。

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