▼ 第5話 8月

今目の前にランプの精がいたら、俺は躊躇わずに夏休みの廃止を頼むだろう。
いや、ランプを擦るだけなんてけちくさいことは言わない。そのためなら例の不思議な球を7個集めるために世界中を駆け回ったっていい。

しかし現実にはそんな虫のいい話はないから、俺は部室の窓からからっと晴れた水色の空に浮かぶ入道雲を睨みつけていた。
蝉の鳴き声はおそらく最盛期。夏真っ盛りだ。

もちろん夏に罪はない。夏休みにも、本来なら罪はないのだ。授業を受けなくていいのは喜ばしいことだし、おかげで終業式の後、7月いっぱいは沢口さんと部室で普段よりも長い時間を過ごすことができた。今思い返しても素晴らしい日々だった。

だが8月の強制退寮期間、これは駄目だ。
なにしろその間中沢口さんに会えない。

強制退寮期間というのはその名の通り、全員実家に帰れと寮を追い出されてしまう期間のことだ。なんでも毎年その時期に業者を入れて寮の改修やら一斉清掃やらをするらしいが、今年に限ってはなんでわざわざそんなことをと言わざるをえない。
校舎に隠れておいて部室でこっそり寝泊まりしてはどうかと考えてもみたが、どうやら校舎も同様に閉鎖されてしまうようだ。
それにそもそも、肝心の沢口さんが帰省してしまえば俺1人学校に残ったところで何の意味もない。

そんなわけで、今日がその前に設けられた帰省期間の最終日だった。俺の足元には荷物を適当に詰めたボストンバッグが投げてあり、その隣には一回り小さいリュックがちょこんと置いてある。そしてその持ち主である沢口さんはと言えば、さっきから色とりどりの液体を入れて並べた試験管と難しい顔で向かい合っていた。荷物を取りに来たついでに何かの実験を始めて、すっかり夢中になってしまったらしい。
俺が少し前にここに来た時には既にこの状態だったから直接聞いたわけではないけど、この推測はおそらく外れていないと思う。

ちなみに俺が部室を覗いたのは、もちろん最後に沢口さんに会えないかと思ってのことだ。そして、思った通り沢口さんはいた。だから嬉しいはずなのに、これからしばらく会えないと思うと心は沈んでいく。何しろ俺は沢口さんの家や地元どころか、未だに携帯の番号も知らないのだ。

連絡先については聞こうと思ったことがないわけではないが、おそらく聞いたところで色々考えてしまって電話もメールもできないだろうと思ってやめた。色々というのは沢口さんの迷惑にならないだろうかとか時間帯とか用件とかそういったことだ。
それに、もしメールを送って沢口さんが返してくれなかったら俺はものすごくショックを受けるだろう。
沢口さんが携帯を触っている所を見たことはないけど、そういうことにマメなタイプではないと思う。というかほとんど毎日一緒にいるのに携帯を触っている所を見たことがないという時点で無頓着さが窺える。

おそらく俺は夏休み中沢口さんのことを考えているだろうから返信を待って沢口さんのことで頭がいっぱいになってしまうのは構わないが、迷惑だったかもだとか嫌われたかもだとか不安になったり心配したりするのは嫌だ。
それよりは沢口さんの笑顔だとかを思い出して幸せな気持ちになっている方がずっといい。

そう思いながら実際に沢口さんの綺麗な笑顔を思い浮かべてこっそり幸せになっていたら、いつの間にか隣に本人が立っていた。薬品か何かで汚れた白衣のポケットに手をつっこんで、ぼんやりと空を見上げている。
晴れた空と真っ白な入道雲、その横に一筋の飛行機雲。そして眩しすぎる太陽。少し目を細めた沢口さんは、けれど俺がさっきまでしていた想像とは違う憂いを帯びたような表情で小さくため息をついた。

「夏ですねえ」
「……夏嫌いなんですか?」
「嫌い、ということはないですけど」

沢口さんが言葉を切って、地面を見下ろす。つられて視線を下せば、眼下には色とりどりの服で大きな荷物を抱えて帰省していく生徒達と、それを迎えにきた高級車やバスの群れ。少し後には俺もあの中に混ざるのか、と憂鬱な気持ちを思い出していると沢口さんは再びため息をついた。

「どうして強制退寮期間なんてあるんでしょう」

ついさっき俺が考えていたことと同じ呟きにはっとして顔を上げると、目が合った沢口さんは困ったように苦笑した。まさか沢口さんも俺に会えなくなるのが寂しいと思ってくれているのだろうかと思いかけて、瞬時にその考えを打ち消す。そんなわけはない、いくら俺の頭が悪いとはいえこの考えは頭が悪すぎる。
気を取り直して事情を聞くと、沢口さんは寂しそうな顔で実は家族と折り合いが悪いんです、と言った。

「すみませんこんな話。家庭の事情を人に話すだなんて恥ずかしい事だとは分かっているんですが」
「いえ、……帰りづらいんですか?」
「ええ、まあ。父の再婚相手とその子どもがいるもんですから。僕が帰っても新しい家族の邪魔になるだけですし」
「……」

何と言えばいいか分からなくて黙っていると、沢口さんはかすかに口元を引き上げて目を伏せた。その辛そうな微笑みに胸が痛む。俺だったら沢口さんを邪魔にするなんてありえないのに。俺だったら……

「あ」
「何ですか?」
「あの、もし良かったらですけど。あ、気が進まなかったら断ってもらっても全然構わないんですけど」
「はい」
「もし良かったら俺の家に来ませんか」

思いついてそう言うと、驚いたように顔を上げた沢口さんは目を丸くして俺をじっと見つめた。綺麗な薄い茶色の瞳が、困惑に揺れている。ゆらゆらしていた視線を捉えると、沢口さんはかすかに首を振った。

「……永田くんのご家族にご迷惑をおかけすることになります」
「父は今地方勤務で、母は父について行ってます。兄も独立してますから、家は俺1人です」
「え……」
「三食昼寝つき、家事は全部俺がします。部屋はたくさんありますし、沢口さんの好きな実験なもし放題です。一軒家なんでちょっとくらい爆発したって近所迷惑にもなりませんよ」

今以上必死になったことはたぶん俺の人生にないと思う。
頭を高速で回転させながら思いつく限りの利点を挙げ、他にもっとないかと考えていると、沢口さんは呆気にとられたような顔で「爆発……」と呟いた。

「あ、すいません例え話です。沢口さんが失敗するってことじゃなくて」
「ふふ、分かってます」

慌てて弁解すると、沢口さんが口元を綻ばせる。ついさっき想像していた通りの笑顔にほっとしていると、ちらりと俺を見た沢口さんは小さく首を傾げた。

「でも永田くんのご迷惑にはなりませんか」
「ありえません! 俺は沢口さんがいてくれるだけで、……」
「永田くん?」
「あー……いや、ぜひ好きなだけいてください……」

沢口さんがいてくれるだけで幸せです、と叫びそうになったところで慌てて口をつぐんで言い換えた。さすがにそれは重過ぎて引くんじゃないかと思ったからだ。
それが功を奏したのか、沢口さんは少し泣きそうな顔で、でも嬉しそうに微笑んだ。

「じゃあ、お言葉に甘えていいですか?」
「はっ、はい! あ、ここにあるのも好きなだけ持ってきてください。俺持ちますから」
「そうですか? じゃあ、どうしようかな」

弾んだ様子で沢口さんが部室のあちこちに点在している実験道具を振り返る。転がっていた空の段ボール箱にいそいそと荷造りを始める沢口さんの背中を見ながら、俺は内心ふつふつと湧き上がってくる歓喜にうち震えていた。
夏中会えないと思っていたのに、それどころかなんと夏中沢口さんが俺の家に来るのだ。これ以上に幸せなことがあるだろうか、いやない。
喜びのあまり叫びだしたいような気持ちを必死で抑えていると、不意に沢口さんが振り返って言った。

「あ、でも家事は分担しましょう」
「え?」
「恥ずかしながら料理はしたことがないんですけど……教えてもらえますか?」
「よ、喜んで!」

夏休み万歳。強制退寮期間万歳。
今目の前にランプの精がいたら、俺は躊躇わずに夏休みの延長を頼むだろう。

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