▼ 第4話 7月

長かった梅雨が明けると瞬く間に暑くなった。校舎を取り囲む木々からはうるさいくらいに蝉の鳴き声が響き、夏の訪れも感じさせている。それは同時に、残り時間が日に日に減っているということだ。

それなのに、と無駄に過ごしてしまった時間を惜しみながらいつもより少し遅い時間に部室の扉を開けると、遅かったですね、と言いながら振り返った沢口さんは途端に目を丸くした。
ぴたりと固まった後、鮮やかな黄緑色をした謎の液体が入ったフラスコを置き、おずおずとその手を伸ばしてくる。

「どうし……大丈夫ですか?」

そっと添えられた綺麗な指先に、触れられた場所、唇の端にぴりっと痛みが走る。思わず顔をしかめると弾かれたように手が引かれ、それでしまったと思った俺は慌てて口を開いた。

「平気です。見た目は派手ですけど、見た目だけですから」
「でも、あ、そうだ。良いものがあるんです」

一瞬泣き出しそうに顔を歪めた沢口さんは、次の瞬間部屋の隅にすっ飛んで行った。壁際の棚からはみ出した物が雑然と床に詰まれた山をひっくり返し、薄くて丸いケースを引っ張り出して戻ってくる。

「傷薬みたいなものなんですけど良かったら……」

そう言いながら蓋をくるくると回して開けた沢口さんは、中に入っていた白い軟膏を指先に取って俺に向き直った。返事をする前に伸びてきた手が、おそるおそるといった様子で軟膏を俺の唇の端に乗せていく。くすぐったいくらいに優しい触れ方に安堵して目を閉じると、しばらくして薬を塗り終えたらしい手のひらがそっと頬に添えられた。

「……喧嘩ですか」

かすかに震えた声に目を開けると、沢口さんはひどく心配そうな顔で俺を見つめていた。心配そうな顔も綺麗ではあるけど、俺がさせてるんだと思うと申し訳なく、心苦しくなる。少し考えてから首を横に振ると、添えられた手がぴくりと動いた。

「転びました」
「……転んでも顔は怪我しないと思いますよ」
「ええと、階段で。手は塞がってたから、荷物で、だから咄嗟に庇えなくて」
「永田くん……」

下手すぎる言い訳をしながら、自分がどんどん情けなくなった。もう少し頭と口が回れば沢口さんを心配させなくても済んだのかもしれないのに。唇を噛んで目を伏せると、沢口さんは少し困ったような声、窘めるような口調で俺の名前をもう一度呼んだ。
それで弁解を諦める。

「すいません、心配かけて。今日は不意打ちだったから避けられなかったけど、でも薬も塗ってもらったしすぐ治りますから」
「実は作ったばかりでまだ使ったことがなくて……ちゃんと効くでしょうか」
「効きますよ、絶対」

傷薬まで作れるのかこの人は。というか一体何と何を混ぜるんだろうか。
と多少気にはなったが、それは今はどうでもいいことだ。大事なのは沢口さんが手ずから俺に塗ってくれたこと。だから効くに決まっている、と頷けば、沢口さんは弱々しい目で俺を見た。きゅっと俺のシャツの腕を握って、上目遣い。正直色々と思うところがないでもないけど、欲望を抑えことだけはすっかり上手になっている。表面上は平静を装って見つめ返せば沢口さんは、どうして喧嘩するんですか、とぽつりと呟いた。

今日俺に声をかけてきたのは、明らかに素行の悪そうな5人組だった。はっきり覚えてはいないが見覚えはあるような気もしたから過去に一悶着があったのかもしれない。外見的には俺も、自分の目つきの悪さは自覚しているから人のことは言えないけど、でも少なくともあんな下卑た笑みは浮かべていないと自信を持って言える。5人は俺に生意気だの調子に乗るなだの言いがかりをつけてきて、だから単に喧嘩をふっかけてきただけかと思いきや別口で沢口さんのファンにも俺を懲らしめるように頼まれていたらしい。

沢口さんは綺麗な人だから、学園内にもひそかに彼を慕う人は多い。けれど沢口さんはそんな奴らが集まって親衛隊だとかいうファン集団を結成したいという頼みをことごとく断っている。時々入部希望者を装ったファンも来るけれど、それも全部断っているようだ。
部室以外の所にいる沢口さんについては知らないが、どうやらあまり人づきあいが好きな方ではないらしい。そんな沢口さんがどうして俺を近くに置いてくれるのかは分からないけど、とにかくそういうわけで俺は沢口さんファン達の恨みを買っているというわけだ。

しかしまさかそんな事情を沢口さん本人に話して煩わせたくはなかったので、俺はまた嘘をついた。

「あっちが売ってくるんです。多分、ええと俺の目つきが悪いから?」
「それは、……でも永田くんは可愛いと思います」
「かわ……」

思わずぽかんとしてしまった。この顔とは17年近く付き合ってきたが、お世辞にも可愛いとは言えない顔だろうと思う。
しかし、沢口さんが可愛いというなら可愛いんだろうと思い直すことにした。なにしろ沢口さんが正しいというなら百人が間違っていると言うことでも正しいのだ。しかしまあさすがに、そうですよね俺可愛いのに、とまでは開き直れない。

「可愛い、かどうかは分かりませんが」
「可愛いです。それなのにこんな痛々しい傷をつくって」

きっぱりと言い切った沢口さんが、少し悲しそうな顔でさっき薬を塗ってくれた唇の端にそっと触れる。触れ方の問題か気持ちの問題か、はたまたもう薬が効いたのか、さっきまでのような痛みは全くなかった。いや、沢口さんが手ずから塗ってくれた薬が効いたに決まっている。

「これからは怪我しないようにします。全部避けます」
「……」

俺もきっぱり言い切ってみると、沢口さんは無言で視線を伏せた。それからはっとしたように俺の右手をとる。やばい、と思って慌てて手を引こうとしたけれど、それより早く両手で握られて引っ込められなくなった。
沢口さんの視線が俺の右手、傷のついた手の甲や指に落ちる。5人組を返り討ちにした時についた返り血はここに来るまでに洗い流してきたはずだったのに、そこからは新たに自分の血が滲みだしてきていた。かすり傷程度だから痛みはないけど、沢口さんはまた泣きそうな顔をしてそこにも軟膏を塗ってくれた。
それから再び俺の顔をじっと見つめる。

「喧嘩、どうしてもしないといけませんか」
「どうしてもということはないです。好きでしてるわけじゃないですし」
「じゃあ、もしやめてくださいと言ったら……」
「やめます」

すぐに頷くと、沢口さんは一瞬きょとんとした顔になった。驚いたように目を丸くして、瞬きを繰り返している。

「やめられるんですか? でも向こうから売られたら?」
「逃げます」
「逃げ、ていいんですか? 僕にはよく分かりませんが、面子というものがあると聞きますが……」
「メンツですか」

困惑しているように揺れている沢口さんの瞳から目を逸らし、天井を見上げて少し考えてみた。けれど考えるまでもなく答はでる。俺は沢口さんにやめろと言われたらやめる。これは最早1+1が2なのと同じくらい当然のことだ。

それに、元々別に好きで突っ張っているわけでもないし、張り合う仲間がいるわけでもない。絡まれて尻尾を巻いて逃げるのは確かになけなしのプライドは傷つくかもしれないが、しかし沢口さんにこんな悲しそうな顔をさせるくらいなら俺のあってないようなプライドなんて犬に食わせてしまえばいい。

だからもう一度、もうやめます、と言えば沢口さんは少し俺の真意を探るように見つめた後、小さく息を吐きだした。それから嬉しそうに口元を緩めて、ありがとうございます、と笑う。沢口さんが嬉しいと俺も嬉しい。笑顔になった沢口さんにほっとしながら、俺は頬を緩めたままで口の端を指先で撫でた。

ここに来る前に鏡を覗き込んだ時は、少し切れたそこは赤く腫れていた。でも沢口さんが薬を塗ってくれたからもう痛くないし、きっと腫れもすぐに引くだろう。

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