▼ 第3話 6月

俺の生活は沢口さんと狭い部室で過ごす放課後だけで成り立っている。それ以外の全ての時間は生きていないのと同じ、特に何の意味も持たない。

沢口さんとの出会いはひどく寒かった日、つまり数ヶ月ほど前まで遡る。その日は雨が降っていて、俺は屋上の隅の軒下のような所にへばりついてしけった煙草を吸っていた。そうしたらいつの間にかとんでもなく綺麗な人が隣に立っていて、それが沢口さんだった。驚く俺に沢口さんは禁煙薬のモニターをしてくれる人を探している、と言い、一悶着あった後に俺は頷いた。
それが沢口さんとの出会いだった。

ちなみに一悶着というのは俺が沢口さんをあろうことか殴ろうとしたことを指す。結局そうはしなかったわけだけど、俺はその時の自分は百回殴られても足りないと思っている。

さて、俺がなぜこんなことを思い出したのかと言うと、今日もその時のような雨が降っているからだ。部室には、締め切った窓の外からかすかに聞こえてくる雨音をかき消さない程度の音量で、なんとかという俺の知らないジャンルの音楽が流れている。音の出所は沢口さんが隣の部室から借りてきた前時代なラジオで、ちなみにお隣さんは1年のなんとか君を愛でる会という謎の集まりだったらしい。正直部室を貰える意味が分からないけど、何でも表向きは全寮制男子校における学生のあり方を研究する同好会ということになっているようだ。それにしたって全く意味が分からない訳ではあるけど。

とにかくそのなんとか会から借りてきたラジオから流れるゆったりした曲に乗せて口ずさみながら、今日の沢口さんはひたすら顕微鏡を覗きこんでいる。沢口さんは声が綺麗なだけでなく歌も上手い。だから俺はそれに聞きほれながら、彼が時々口にする数字をノートに書き留める係をしている。

ノートにずらりと並ぶ数字は5とか17とか、そうかと思えば2300とか、少なくとも俺には脈絡がないように思える。一度顕微鏡を覗かせてもらったけど、ごちゃごちゃした色とりどりの何かが見えるだけでよく分からなかった。でも沢口さんにはきっと、俺には見えない何かが見えているのだろうと思う。

沢口さんは頭がいい。綺麗で優しいだけじゃなく頭もいいなんてもはや神なのではないだろうか。
対して俺は頭が悪い。沢口さんが見ている物は俺には見えない。

たぶん彼は俺とは違う次元で生きているのだと思う。沢口さんは俺には手の届かない人だから、そのこと自体には何の不思議もないし、勿論不満もない。けれど、そのせいで俺は今困っている。
だから沢口さんが何の気なしに「永田くんは何か欲しいものはありませんか」と尋ねてくれた時、すぐさま返事をした。

「頭が良くなる薬が欲しいです」
「頭、ですか」

小さな呟きと共に沢口さんが顕微鏡から顔を上げる。それから、脇にあったパイプ椅子に腰を下ろして俺に視線を合わせた。

「永田くんは頭が良くなったらどうしたいんですか?」
「……」

答えられなくて視線を下げると、自分の上履きが目に飛び込んできた。踵の潰れた薄汚れた上履き。まるで俺そのものだ。

俺が困っているのは、沢口さんの鞄に入っていたプリントが偶然見えてしまったからだった。進路希望調査と書かれたそれには、この学園の生徒のほとんどがエスカレーター式で上がる大学の名前ではなく、頭の悪い俺でさえも名前を知っている有名国立大学の名前が沢口さんの綺麗な字で書いてあったのだ。

沢口さんは来年の3月には卒業してしまう。
それは当然のことだから覚悟していたけど、1年待てばまた大学で会えるものだと思いこんでいた。しかし沢口さんは他の大学への進学を希望していて、そして俺の出来の悪い頭では彼を追いかけることはできない。

元々ずっと一緒にいたいだなんて分不相応なことを考えていたわけではない。だから俺はいつか沢口さんの側にはいられなくなるわけで、そう考えるとその別れが少し早まっただけのことだ。けれど少なくとも沢口さんが大学を卒業するまでは一緒にいられると思っていたから、突然それが短くなった今、自分がどうすればいいか分からない。

卒業したら沢口さんの行く大学の近くに行くことも考えた。適当な私大に滑り込むとかさもなくば専門学校、もしくは就職、最低フリーターでもいい。けれど近くに住んだからと行って今のようにほとんど毎日会うのは無理だろうし、第一そんなことをしたら沢口さんに不審がられるに決まっている。むしろただのストーカーと思われても仕方がない。何しろ俺と沢口さんは単に同じ同好会に所属するだけの先輩後輩にすぎないのだから。

沢口さんは卒業したら俺のことを忘れてしまうだろう。俺には沢口さんの記憶に残るような価値はない。そんなのはただの記憶容量の無駄だ。沢口さんの素晴らしい頭には他にもっとたくさん、詰めておくべきふさわしいことがある。

「永田くん? どうかしましたか?」
「あ、いえ……」
「中間試験の成績が悪かったんですか? 勉強だったら少しなら僕が教えてあげられるかと思いますけど」
「……」

そう言われて、沢口さんに勉強を教えてもらうことを想像してみる。そうしたら、ただの想像にすぎないというのに嬉しすぎて天にも昇る心地になった。でもきっと、俺がどれだけ勉強したって沢口さんの目指す大学には届かないだろう。そう考えると、沢口さんの貴重な時間を俺に勉強を教えるだなんて無駄なことに浪費させる訳にはいかなかった。だから小さく首を横に振った。

「大丈夫です。成績は…まあ悪いですけど、困るほどではないです」
「そうですか」

沢口さんがふわりと微笑む。
それを見たらなんだか泣きたくなった。
沢口さんが卒業するまであと8ヶ月ちょっと。俺は一体あと何回、この優しい微笑みを見ることができるんだろう。

「ちなみに時間を引き伸ばす道具とかは……」
「うーん、その場合体感時間ということになるんでしょうか。興味深いですね」

腕組みをした沢口さんが、でも今の僕には無理でしょうね、と笑う。
沢口さんにも不可能なことがあるとは、当然といえば当然のことなんだけどなんだか不思議だ。

……それなら、俺のことをほんの少し、頭のほんの片隅にだけでも覚えておいてもらうことは可能ですか。

心の中でだけ、こっそり問いかけてみた。実際には、こんなだいそれたことはとても口にはできない。想像の中の沢口さんも答えてはくれなかった。代わりに、現実の沢口さんが少し心配そうに眉を寄せる。

「永田くん、何か悩みがあるんですか? 僕で良かったら聞きますよ。と言っても聞くだけで役には立てないかもしれませんが」
「……いや、大丈夫です。何もないです」

もう一度首を振ると、沢口さんは釈然としないような表情ながらもこくんと頷いた。相変わらず綺麗なその顔を見ながら、思う。
あと8ヶ月とちょっと。沢口さんの側で過ごせる時間を大切にしよう。
頭の悪い俺なりに、精一杯。

prev / next

[ back ]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -