▼ 14

屋上には人っ子一人いなかった。
空は灰色、眼下の校庭は真っ白な雪に染まっている。
短い梯子をのぼり、給水塔の影へ。
ポケットに入れておいた煙草の箱は、先輩の部屋から勝手に拝借してきた。同じく借りてきたライターで火をつけ、一口。苦味のある煙は、灰色の空に溶けて消える。

教室に行かずにここに直行したことに特に理由はなかった。ただ何となく足が向いて、気がついたらここにいた。

そのまましばらく、白い校庭を見下ろしながら、この先どうしようかな、と考えた。
先輩の言う通り、僕と狼の進む道はこの先きっと離れていくばかりなのだろう。それならばやっぱり、僕は今度こそ狼なしで生きていけるようにならないといけない。

そう思う一方で、果たしてそんなことができるのかな、とも思う。この先ずっとそうやって生きていくことを考えただけで目眩がしそうだ。
先輩にだって、いつまでも頼るわけにはいかないだろう。今朝はああ言ってくれたけれどもうすぐ卒業してしまうわけだし、そもそも気まぐれな人だし。
やり場のない思いでいつの間にか短くなっていた煙草をもみ消していると、梯子をのぼってくる足音が聞こえた。

「……あ」
「……おう」

朝別れたばかりの先輩や、羊くんなら良かった。
あるいは全く知らない人なら。
けれど顔を出したのは紛れもなく狼で、思わず逃げたくなったけれどもうしっかり目が合ってしまった後だった。

「久しぶり」

なんとか平静を装いつつ言葉を絞り出した喉は、いつの間にかからからに渇いていた。
緊張しているのかもしれない。そう思ったら、そんな場合ではないのにおかしくなった。
緊張するような間柄ではなかった。
一番心を許せる仲だった。
少なくとも、少し前までは。

「だな」

短く答える狼の声は、いつも通り。
緊張しているのは僕だけなのか、それとも狼も平静を装おうとしているんだろうか。
何でもないような顔をしたまま梯子をのぼってきた狼は、僕の隣に腰を下ろした。

「元気?」
「まあぼちぼち」
「そう」
「お前は?」
「うん、ぼちぼち」
「そうか」

ぽつぽつと積み重ねる短いやり取り。
互いに相手の出方を探り合うようなこんな会話も、今までなら必要なかった。
沈黙だって気まずいはずはなかったのに、今はやけに手持ち無沙汰だった。
手元の箱から新しい煙草を引き出すと、ライターを持った狼の右手が口元までやってきた。
火をもらって一口、からからに渇いたままの喉に、苦い煙がこびりつく。

「……」
「……」

手持ち無沙汰でなくなった分だけ少し楽になった気がするけれど、それでもやっぱり沈黙は相変わらず重い。
羊くんがいてくれればいいのにな、とふと思う。

「羊くんは? 一緒じゃないの」

だから尋ねると、狼はかすかに眉を上げた。

「ちげえよ。授業中だろ」
「そっか」
「あいつは俺らと違ってマジメだからな」
「はは、そうなんだ」

その割には前にここで会った時も授業中だったような気がするけど、と思ったけれど言うのはやめた。
代わりに苦い煙をもう一口、吸って吐く。

「お前は?」
「僕?」
「なんでサボってんの」
「特に意味はないけど」
「へえ」
「狼こそどうしたの」
「俺も別に意味なんかねえよ」

狼は答えて、そしてすぐに付け足した。

「悪い。嘘ついた」
「え?」
「お前昨日あいつんとこいたんだろ」

思わず顔を上げたけれど、視線は合わなかった。狼は俯いたまま、短くなった煙草をもみ消し、また新しい煙草に火をつけた。

「羊くんに聞いたの?」
「まあな」
「そっか」

部屋にいない僕を心配してくれたのだろう、何度も電話をくれたらしいということは先輩から聞いた。
そういえばそのまま、まだ連絡をしていなかった。

「今さら取り繕っても仕方ねェから言うけど」
「うん」
「……いや、やっぱやめとく」

咄嗟に緊張していたけれど、肩すかしを食らってしまった気分だった。

「言えばいいのに」
「言ったところでな」

確かにそうだ。狼が何を言ったって、僕が何を言ったって、多分どうにもならない。
でもそれならば、言ったって仕方ないけれどどうせこれ以上悪くならないならば、言うだけならタダだ。

「あの人とは何もなかったよ」
「は?」

間違えた。さすがに何もないは言いすぎた。

「ええとつまり、抱かれてはないってことだけど」
「……へえ」
「さっき言われた。最初は僕のことが好きだったけど、すぐ諦めたって」
「何で」
「僕が狼のことを好きで好きでたまらないのがすぐ分かったからって」
「……」

長い沈黙。

「お前さあ」
「うん」
「俺のこと好きなの?」
「好きだよ。何を今さら」

答えると一つ、長いため息。
それから狼は、小さな声でぽつりと呟いた。

「生まれ変わってもう一回初めからやり直してェわ」
「え?」

さすがに戸惑った。話の切り替えについていけず置いていかれた僕に構わず、狼はしみじみと続ける。

「まともな家に生まれて、お前と普通に仲良くなって、告白して、付き合って、普通に幸せにしてやりたい」

思わず言葉に詰まった。
確かにそれは理想で、とても眩しい。
でも。

「僕は狼といられればそれだけで幸せだよ」
「……」
「でも、もう大丈夫だから」
「あ?」
「狼がいなくても一人で大丈夫」

言った端から取り消したくなった。
やっぱり無理だ。たとえこの先道が離れていくばかりでも、どうにかして側にいたい。
でも、それを言ってしまってはまた同じことを繰り返すだけだ。
だからこっそり拳を握って、口から出そうになる言葉を飲み込んで、だというのに。

「俺はダメだわ」
「え?」
「お前がいないと無理」

ぽつんと落とされた呟きはしんとした屋上に弱々しく響いた。
胸がぎゅっと締め付けられて、飲み込んだはずの気持ちが逆流してくるような気がした。

「何でそんなこと言うの」

絞りだした僕の声も、予想以上に弱々しく響いた。
それに気づいた時にはもう駄目だった。

「僕だって無理だよ。帰ってきてよ」
「一人で大丈夫なんじゃなかったのかよ」
「そんなの嘘に決まってる」

結局全部言ってしまった。
狼は驚いたような顔をして、それから少し考えるような間をおいて、ゆっくり口を開いた。

「何度も考えた。お前んとこ帰って、何事もなかったことにして今まで通り生活することもできんじゃねえかって」
「うん」
「でも無理だろ。さっきの話、やっぱ言うけど今さらもう取り繕えねえよ。お前が他の男んとこ行くの見てもう平気な顔なんかできねえ」
「じゃあもう行かないよ」
「あいつに限った話じゃねえよ。俺とお前がどうにもなんねえ以上、いずれまた誰かしらとどうにかなるだろ。それを止める資格は俺にはねえし」
「狼が嫌だっていうなら僕は、」
「俺のことだってそうだろ。お前は平気なのかよ。羊に妬いてたんじゃねえの?」

言いかけていた言葉を飲み込んで、考えた。
確かに僕は羊くんに嫉妬していた。僕にできないことができる羊くんに。でも。

「でもいい子だからなあ」
「いい子って、お前」
「いい子でしょ」
「そういう問題じゃねえだろ」
「そういう問題だよ。羊くんならいいよ。また前みたいに3人で仲良くやっていけばいいじゃない」
「仲良くって」
「また一緒にご飯食べたりさ、そういう普通の、なんていうか今まで通りの……」
「でもそれじゃまた同じことの繰り返しだろ」
「違うよ。僕はもう他の人のところに行かないから。そうしたら繰り返さない」
「それでお前だけが我慢するわけ?」
「でも今よりはるかにいいよ」
「言ったろ、俺は別にお前に我慢させたりしたいわけじゃねえって」
「今してるんだよ!」

思わず飛び出た大声に、狼が驚いたように目を丸くする。
当然だ、自分でも驚いた。
けれど、昂ぶってしまった気持ちはもう止まらなかった。

「僕だって一緒にいたいのに」
「おい、待て泣くな」
「我慢させたくないんだったら帰ってきてよ。狼が僕のこと好きじゃなくても、他の人と付き合ってても、一緒にいてくれたらいいから、それだけでいいのに」
「待てって、ちょっと落ち着け」
「だって」
「分かった、分かったから。頼むから泣くなって」

伸びてこようとした狼の手が、けれど躊躇うように宙で止まる。
いつのまにか滲んでいた視界の中、その動きをぼんやりと目で追いながら、ふと思い出した。
確か羊くんと知り合ったばかりの頃の言葉。悲しそうな顔の1つでもしてくれりゃお前のことも可愛がってやれんのに、だったか。

「……興奮するから?」

だからつい尋ねてみると、狼は苦々しい顔で僕を睨んだ。

「アホかお前、犯されてェのかよ」
「されたいよ。何でもしていいって言ったでしょ」
「お前……」

今度こそ伸びてきた右腕が、僕の肩を掴んだ。
肩にくいこむ指の熱さ、それから乱暴に押し倒されてコンクリートにぶつけた背中の痛み。
ひゅっと喉が鳴る。堪えるためにきつく唇をかむと、僕を見下ろす狼は盛大に舌打ちをした。

「違うだろ、こうじゃねえんだよ」
「じゃあどうしたいの」
「ちゃんと、話を」

言葉を切った狼はぐしゃっと自分の髪をかき回し、体を起こした。
僕を押さえつけていた手が、ポケットの携帯を引き抜く。

「悪ィ、羊呼ぶ」
「待って」

考えるより先に手が伸びた。
僕に掴まれた右手を見下ろし、狼が目を丸くする。

「何だよ」
「だって、またいなくなる……」

言いながら、ぼろりと涙がこぼれたのが自分でも分かった。
もう置いていかれたくなかった。
あの日のようには、もう二度と。

狼は躊躇うように僕と携帯の間で視線をさまよわせた。
そして、最終的には意を決したように言った。

「羊は呼ぶ」
「……」
「でももうお前置いてはいかねえから」
「…うん」

その言葉だけでももう十分幸せな気になってしまうだなんて、最早末期なのかもしれなかった。

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