▼ 13

どうして父さんと結婚したの、と母に尋ねたことがある。まだ幼かった頃のことだ。
愛も恋も知らないのに、母が父を愛していないことだけは分かっていた。
幼い疑問をぶつけた僕を振り返り、母は紅を引いた唇を歪めて諦めたように笑った。
したくてしたわけじゃないのよ、と。
その言葉の意味が分かったのは、それからもう少し後のことだった。





あの日以来、狼はぱったり部屋に帰って来なくなった。

一人の部屋は広くて、ぽっかりと穴が空いたような気がした。
けれど何となく、先輩に会いに行く気にはならなかった。
狼の帰りを待っていたわけではない。
むしろ、狼なしで一人でもやっていけるようになるためにはいい機会だと思った。
だから変な期待をして多めに夕飯を作ることもなかったし、狼の部屋の様子を見に行くこともなかった。
ただひたすら、一人で朝食を食べ、学校に行き、帰ってきてあり合わせの夕食を食べ、暇な時間は仕方がないので勉強をして埋めるという単調な日々を繰り返していた。

帰ってこない狼はどうやら羊くんの部屋にいるらしい。
というのはあの日、夜になってからもう一度戻ってきた羊くんから聞いたことだ。
羊くんは僕の傷の具合を確認しながらその話をし、そして狼に頼まれたという制服や部屋着やその他雑多なものをごっそり持って帰った。
だからもう用事はないだろうに、それからも毎晩僕の様子を見に来てくれる。
初日以来何となく一緒に風呂に入るのが習慣になってしまって、だから僕は風呂を沸かして羊くんが来るのを待つ。

こうなってから初めて僕は、羊くんは意外とよく喋るということを知った。
今までは猫を被っていたのか、それとも反対に僕が塞ぎこんでしまわないように気を遣ってくれているのかは分からない。
けれどとにかく羊くんはよく喋り、くるくると表情を変え、楽しそうに笑った。

そして羊くんは、同時に聞き上手でもあった。
最初は黙って耳を傾けていただけだったのに、いつしか僕も、羊くんに聞かれるがままに色々な話をするようになっていた。
今日学校や部屋で何をしたかという話から、普段作らないけれど一番好きな食べ物はビーフシチューだという話や、子どもの頃好きだったヒーローアニメの話、それから先輩との馴れ初めまで。

そういう風にして羊くんと過ごす時間は、正直とても楽だった。
最初は自分でもその理由が分からなかったけれど、おそらくそれだけ色々な話をしても狼の話題だけは一度も出なかったからだろうと少ししてから気がついた。
それは多分羊くんが上手い具合に話の方向を誘導してくれていたからで、つまり僕は羊くんといるときは狼のことを思い出さなくてもすむから、だから気が休まったんだと思う。
けれどそれは、イコール僕が狼への依存を断ち切れていなかったということに他ならない。
羊くんに甘えていた僕がそのことにようやく気がついたのは、偶然学校で狼を見かけた日のことだった。

その時僕はクラス全員分の課題プリントを集めて職員室に持っていくという面倒な仕事の道中で、一方狼は廊下の隅に立ち止まって窓の外を眺めていた。
放課後になってすぐの時間帯だったから廊下にはそこそこ人通りがあって、それでも遠目に見たシルエットだけでそれが狼だとすぐに分かった。
だから狼がそこで何をしていたのか、何を見ていたのかは分からない。
けれど確かに狼は、ざわめく人ごみの中で一人だけ、鮮やかに色づいて見えた。

息をのんで立ち止まった僕は、気がついた時には既に踵を返していた。
そして逃げるように遠回りをして職員室に行った後、久しぶりに先輩に電話をかけた。





「どうしたの、泣きそうな顔しちゃって」

玄関口で出迎えてくれた先輩は、開口一番にそう言って目を細めた。

「してませんよ、そんな顔」
「ふうん?」

室内はいつも通り静かで、いつの間に購入したのか水槽のエアーポンプの音だけが小さく聞こえている。
広い水槽の中には、半透明の小さな魚がぽつんと二匹だけ。
そういえばいつ来てもこの部屋には人の気配がないけれど、同室者はどうしているんだろうか。

「悲しいことでもあった?」

水槽から現実へと僕を引き戻すその声は穏やかで温かく、頬に添えられた掌は反対にひんやりと冷たい。

「まあ、そんな感じです」

いつものようにごまかさずに頷けば、僕を見上げる目がかすかに見開かれた。

「あれ? 珍しく素直だね」
「僕はいつも素直ですよ」
「はは、そうだったかなあ」

添えられたままの指先が、輪郭に沿ってそっと動く。
目尻から頬、そして唇の表面。

「また慰めてあげようか」
「……」
「それともたまにはゆっくり話でもする?」

冷たい指先が、唇を割って粘膜との境目に滑りこんでくる。
小さく頷くと先輩はかすかに笑い、僕を部屋に連れ込んだ。





長い長い話をした。
僕が狼と出会ってから今まで、いかにして生きてきたかという話を。
先輩は僕の話を黙ったまま聞き、そして聞き終わると僕をベッドに引き入れた。

「今日は一緒に寝てあげる」

優しい手つきで頭を撫でられながら眠った僕はその夜、朝まで何の夢も見なかった。





「一つ黙ってたことがあるんだけどね」

翌朝目を覚ますと、ベッドの隣は空だった。
昨夜そこにいたはずの先輩は既に身支度を整えているところで、僕の視線に気がつくと唐突にそう切り出した。

「何ですか朝から」
「最初に君と寝た時、僕は君に恋をしてた」
「……え?」

寝起きでまだ頭も正常に働いていなかったけれど、さすがに驚いた。
だって先輩は今まで、一度もそんな素振りを見せたことはなかったから。
最初に誘われた時でさえ、ちょっとお茶でもというようなごく軽い口調だったのに。

「もちろん今は違うよ。君があの子のことを好きで好きでたまらないことはすぐに分かったから、諦めた」
「別に僕は、好きで好きでたまらないわけでは」

思わず口を挟めば、先輩は可笑しそうに笑って小さく肩をすくめた。

「今でこそ恋はしてないけど、でも情って言えばいいのかな。君以外にも寝る相手は何人かいるけど、一番大事なのはやっぱり君だよ。誤解を恐れずに言うなら愛と言ってもいいのかもしれないけど」
「……先輩」
「だから僕も、君には幸せになってもらいたいなと思ってる」

ブレザーを羽織りながら、先輩は淡々と続ける。
身を起こしそれを聞いていた僕は、そこでふと首を傾げた。

「僕 "も"?」
「昨日君が寝た後、染谷くんから電話が来てたよ。僕が代わりに出といたけど」
「え?」
「ごめんね。でもあまりに何度も来るからさ」
「それはいいんですけど」

唐突に話が飛んだことに加え、その名前に心当たりがなかったから一瞬戸惑った。
けれど何のことはない、思い返してみれば初対面の時、羊くんが震えながら名乗った名前が確かそれだった。

「君のことをすごく心配してたよ。ぐっすり寝てるって言ったら安心したみたいだったけど」
「そう、ですか」
「どうやったら君達が幸せになれるのか真剣な声で相談されちゃったよ。ふふ、僕に聞かれてもねえ」
「それは……すいません」
「別に謝らなくたっていいけど」

ネクタイの結び目を整えながら先輩は、さらりとした声で続ける。

「僕の個人的な意見だけど、君とあの子じゃ多分幸せにはなれないと思う」
「……」
「平行線ってわけではないんだろうけど。でもそうだな、線でたとえるなら同じ点に向かって進んで一瞬だけ交差して、だからこの先はもう遠ざかっていく一方なのかもね」
「そんな」

反論の言葉がそれ以上何も出てこなかったのは、確かにその通りなのかもしれないと思ってしまったからだ。
一瞬だけ交差したあの時期が、僕の人生で最初で最後の幸せな時間だったのかもしれない、と。

思わずついたため息が、冬の朝の冷たい空気に溶ける。
僕をちらりと横目で見た先輩は、「それにしても」と呟いた。

「本当にいい子だね、染谷くん」
「え?」
「君達がうまくいくためなら何でもするって言ってたよ」

思わず言葉に詰まった。もし逆の立場だったら、僕もそんな風に言えるだろうか。
考えてみるまでもない、きっと無理だろう。
僕なら、狼が他の誰かとうまくいくために何かしようとは思えない。

「すごいよね、僕には真似できないな」

ぽつりと呟いた先輩も、おそらく同じことを考えていたのだろう。

「君を幸せにできるのは僕じゃないことは分かってるけど。かといって君が他の男と幸せになるのを応援しようとも思えない」

しんみりした口調でそう言って、小さくため息をついた。

「ごめんね、不誠実で」
「いや、普通そうでしょう」
「そうかな」
「僕だってそうですよ」

見つめあうことしばらく、探るようだった先輩の表情は不意にほころんだ。

「そっか、そうだよね」

そして、すっきりしたような顔のまま、身支度をすっかり終え、鞄を手に取った。

「じゃあ先に出るけど、もうちょっとゆっくりしてっていいよ。帰る時は電気消してってね」
「あ、はい」
「またいつでもおいで。君を幸せにはできなくても、慰めるくらいならいつでもしてあげられるからね」
「優しいですね、先輩」

そう言って見上げたその人は、そうだよ今更気付いたの? と悪戯っぽく笑った。

prev / next

[ back ]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -