▼ 12

昔一度だけ、迷子になったことがある。
まだ僕の両親も狼の両親もそれなりに仲が良くて、家族ぐるみで出かけた時のことだ。
連休中の大型ショッピングセンターは人で溢れていて、気がついたら隣にいたはずの両親達も、それから狼もいなくなっていた。
大勢の他人の中で、僕は一人ぼっちだった。

そんなことをふと思い出してしまったのは、あの時と同じような心細さに襲われたからだった。
けれど決定的に違うのは、あの時僕を探し出してくれた狼は、もう僕を迎えに来てはくれないことだ。

「……寒い」

無意識のうちに口から出ていた言葉で初めて、手が震えていることに気がついた。
昨日見た天気予報では、確か今週はずっと雪マークだったはずだ。
カーテンが閉まっているから分からないけれど、外は今日も白いのだろうか。

「烏さん」

震える手でボタンを閉めようと苦戦していると、不意に呼びかけられた。
顔を上げればいつの間にか目の前に羊くんが膝をついていて、そしてそっと手を取られた。

「痛くないですか?」
「うん……」
「消毒しないと」
「いいよ、このままで」

痛くないはずがなかった。
けれどいっそもう治らなくてもいいと思った。
狼が去ってしまった以上、これがきっと、狼が僕に残した最後の傷痕になるから。

「烏さん……」

僕の両手を握ったまま、窘めるようにもう一度僕の名前を呼んだ羊くんは、泣き出してしまいそうな顔をしていた。
僕に同情してくれているのだろうか。
無理もない、きっと哀れまれても仕方がないような顔をしている。

「ねえ、羊くん」
「はい」
「僕は大丈夫だから、それより狼のところに行ってあげてくれないかな」
「え?」

羊くんはかすかに目を見開き、それから首を横に振った。

「駄目ですよ。狼さんにも言われてるし」
「僕は一人でも平気だから。それより狼を一人にしないであげて」
「でも……」

握られた手に心なしか力がこめられたのが分かった。それでも、僕の心は変わらなかった。

「側にいてあげてくれないかな」

重ねて頼むと、羊くんの瞳は一瞬迷うように揺らいだ。
それを見ていたら、ふと申し訳なくなった。
狼の言葉さえなければ本当は、羊くんにとって僕と狼のどちらが大事かなんて考えるまでもないだろうに。

「でも烏さんもこんな状態のまま一人にできません」
「いいよ、僕のことは。だって、」
「良くないです」

僕の言葉を遮り言い切った羊くんは、僕が、「でも、じゃあ狼は?」と続けるとぐ、と言葉をつまらせる。

「僕が羊くん取っちゃったら狼にはもう誰もいないんだよ」
「……」

そして今度こそ俯き考えこんでしまった。
それでも結局ぎゅっと目を閉じた後、羊くんは僕を真っ直ぐ見つめて言った。

「……分かりました。じゃあとりあえず烏さんが寝るまで一緒にいます」
「え?」
「こんな状態だし、今日学校休みますよね? だったらまず風呂入って、消毒して、何か食べて、それからゆっくり寝ましょう。そしたら狼さんのこと探しに行きますから」

正直戸惑った。
だって羊くんは狼のことが好きなのに、どうして僕に優しくしようとするのだろう。
たとえ狼がそうしろと言ったとしても、本心では狼を追いかけたいはずだ。
僕なんて邪魔者にすぎないはずなのに。

「何で?」

だから思わず尋ねると、羊くんは不思議そうに尋ね返してきた。

「何でって?」
「狼が僕に優しくしろって言ったから? 同情してくれてるなら別にいらないし、狼が言ったことを気にしてるなら僕がちゃんと言い訳するし……」

言いながら自分でもそんな機会がはたしてこの先あるんだろうかと不安になったけれど、羊くんは今度は迷いなく首を横に振った。

「違いますよ」

そして不意に、優しく微笑んだ。

「確かにおれは狼さんのことが好きで、だから今日もこの部屋にいるわけですけど。でも今は同じくらい烏さんのことも大事なんです」
「大事……」
「言ったでしょ、おれはドMのド変態だけど烏さんに優しくしてもらうのも好きだって。辛いこととか愚痴とか、何でも聞くって。覚えてます?」
「覚えてる、けど……」
「だから同情とかそういうんじゃないんです。おれは烏さんのことも好きだから、烏さんにも幸せになってもらいたいんです。そのためには多分おれは邪魔なんだと思いますけど、でももしおれにできることがあるならしたいし、そりゃ確かに狼さんのことも心配だけど、泣いてる烏さんも放っとけない」
「……」
「こんなん誰かに聞かれたら気が多いって怒られちゃいそうですけどね」

はは、と笑った羊くんは、手を伸ばしてそっと僕の頬を拭った。
その手もその笑顔もあまりに優しかったから、思わず胸がつまった。

「泣いてないよ」

返す言葉が見つからないままそう強がってはみたけれど、そんな嘘がばれないはずもない。
羊くんはもう一度柔らかく目を細め、そして僕の手を引いて立ち上がった。

「じゃあまずは風呂。一番風呂じゃないですけど一応溜まってるんで、もし傷にしみなければゆっくり温まってきてください」
「うん」
「一人で入れます? それとも一緒に入りましょうか」

冗談めかして笑う羊くんの優しさにまた胸がつまった。
だから、僕の手を引く羊くんの手を、そっと握り返してしまった。

「一緒に入ってくれる?」
「えっ?」

驚いたように羊くんが振り返る。
目を丸くして立ち止まった羊くんは、それでも僕が撤回しないのを見ると、また僕の手を引いて歩き出した。





ぬるめのお湯は、それほど傷には沁みなかった。
浴槽の中で羊くんは、ずっと他愛もない話をしてくれた。
例えば同じクラスの友達の話、それから昨日見たテレビの話や、好きな漫画の話、あるいは最近発売された靴が欲しいけれど高くて悩んでいるという話なんかを。
僕は心地良いぬるま湯の中で膝を抱え、黙ったままそれを聞いていた。

風呂から出てからも羊くんは、甲斐甲斐しく僕の世話を焼いてくれた。
ドライヤーで僕の髪を乾かし、傷の手当てをし、慣れない手つきで料理をして遅めの朝食をつくってくれた。
僕はされるがままに体を温め腹を満たし、そして食後にホットミルクを飲んだ後、また手を引かれてベッドに戻された。

「眠れそうですか?」

カーテンを引いたままの薄暗い部屋で、羊くんはベッドの下に腰を落ち着け僕の手を握ってくれた。
きっと羊くんに甘やかしてもらったからだろう、その時には既に、僕の心はだいぶ落ち着いていた。

「うん」

かろうじてそう答えた時にはもう、心地良い眠気に襲われていた。
狼にはもう見限られてしまったし、こんなに優しくしてくれた羊くんも僕のものではない。
だから寂しさはもちろんあったけれど、でも大丈夫だと思えた。
狼と一緒にいられないのも、羊くんが狼のところに行ってしまうのも、言ってしまえば今まで通り、何も変わらない。
だからきっと大丈夫。
今度こそ狼なしでも、一人でちゃんと生きていける。

ありがとう、と呟くと、そっと髪を撫でられた。
その柔らかい感触に、ひどく安心した。

「狼のことよろしくね」
「……はい」

小さく答えた羊くんは本当に僕が眠るまでそこにいてくれて、だから僕はその後、幸せな夢を見た。
狼と羊くんと僕の三人で食卓を囲む、とても幸せな夢を。

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