▼ 11

狼がいないと上手く息もできない。
そう言った僕を驚いたように振り向いて、けれどすぐに嬉しそうに目を細めたその優しい笑顔を、僕は今でも昨日のことのように思い出せる。

思い出は美化されるというから、もしかしたら僕の記憶も事実とは違うのかもしれない。
けれど確かに、あの頃の僕にとっては狼が全てだった。

狼だけが僕に優しくしてくれた。
何も言わなくても気づいてくれて、助けてくれた。
狼がいれば何もかも大丈夫だと、根拠もないのに安心できた。
狼の隣にいる時だけ、何の心配も不安もなく僕は僕でいられた。

そしてそれは今でもそうだ。
狼なしでも生きていけるようになろうと思ったはずだったのに。





「泰之」

狼が僕の名前を耳元で呼ぶ度、僕の心臓は小さく跳ねる。

僕達が互いにあだ名で呼び合うようになったのは小学生の頃のことだ。
狼が自分の名前が女みたいで嫌だと言うから、名字をもじってあだ名をつけた。きっかけはただそれだけの、単純な理由だった。
けれど付き合い始めてからは一旦はまた名前で呼ぶようになったのに、それから少しして別れた後に再びあだ名で呼び合うようになったのは、わざと距離をとり合うことでお互いへの気持ちを封印するためだった。
狼の口からはっきり聞いたことはないけれど、少なくとも僕はそうだ。
だからこうやって名前で呼ばれると、抑えていたものが全て溢れ出してしまうような気がする。

「泰之……」

きつく吸われて噛み付かれて爪を立てられて、
早々に服を剥ぎ取られた上半身はどこもかしこも熱くて痛い。
殴られてはいない分まだ喚きもせず暴れもせずにいられているけれど、だからと言って逃げ出したくないわけではない。
ただ、狼が優しい声で名前を呼ぶから。

「なあ、泰之」
「うん……」
「どうして俺はお前に優しくしてやれねェんだろうな」

視界はとっくに涙でぼやけていたから狼の顔は見えなかった。
けれど時折ぽつりと呟くように落とされる声は、泣き声のように震えていた。
どんな顔をしているんだろう、そう思って濡れた目元を拭おうとしたけれど、体も腕も動いてはくれなかった。

「時々思うんだよ。いっそお前を物理的に食っちまって、そんで一つになれたら幸せなんじゃねえかって」
「ん……」

怖くて苦しくて痛くて堪らないこんな状況なのに、僕の頬は勝手に緩んだ。
だって、僕も同じことを考えたことがあったから。
いっそ狼に食べられてしまえば、もう痛いことも怖いこともなく狼の中で幸せになれるんじゃないかと、そんな夢を見たこともあったから。

「千紘……」
「……ンだよ」

震える腕を叱咤して、狼の頬をそっと撫でる。引き寄せる力に抵抗せず、狼が触れるだけのキスを一つくれた時、不思議なくらいに体の力が抜けた。
その瞬間、ああもうだめだと思った。
僕はきっと一生狼から離れられない。
たとえ何をされたとしても、僕を助けてくれるのはやっぱりこの世界に狼だけしかいない。

そう気づいた時、嘘のようにするりと言葉が飛び出た。

「ねえ、もう僕に優しくしてくれなくていいよ」
「……あ?」
「僕が泣いても喚いても全部無視していいよ。それで千紘が一緒にいてくれるなら本当に縛ったっていい」
「何言ってんのお前……」

狼が驚いたように目を丸くする。
その表情が、記憶の中のまだ小さかった千紘と重なった。

息を一つ吸った。
狼が僕を、僕だけを見てくれているから、安心して息が吸えた。
僕は上手く笑えているだろうか。ちゃんと、あの頃のように。

「千紘がいないと僕は未だに上手く息もできないんだよ」
「……っ」

その瞬間、僕を真っ直ぐ見下ろしていた瞳がぐらりと揺らいだのが分かった。
小さく息を吸って、吐いて、視線を伏せた狼はぽつりと呟いた。

「……俺は、別にお前を傷つけたいわけじゃねェんだよ」
「うん」
「こうやって泣かせたいわけじゃねェし、我慢させたいわけでもない」
「うん、分かってるよ」
「俺だって本当は」

ーーお前に優しくしてやりたい。

吐き捨てるようにそう呟いた狼の言葉は、聞かなくてもとっくに分かっていた。
言葉にしなくても狼が僕のことを分かってくれているように。

だって僕と狼は同じだ。
物心ついた時から一緒にいて、同じような経験をしながら寄り添って生きてきた。
僕が必要以上に痛みに怯える理由も、狼が愛情やセックスと暴力を切り離せなくなった理由も、元を辿れば同じところに行き着く。
だから狼が本当は僕を優しく抱きしめたいことも、それなのにそうできなくて苦しんでいることも、今さら口にされなくても分かっていた。

「千紘」
「……ああ」
「痛くしていいから」
「……泰之」
「何でもしていいよ。千紘の好きにしていいから」
「……」
「だからまた、千紘と一緒にいたい」

そう言って見上げた先、狼の視線は、けれどふらりと僕から外れた。
さっきよりもさらに、うなだれるように伏せられた目が前髪に隠れる。
そのまましばらく、黙ったまま動きを止めてしまった狼の様子にだんだんと不安がこみ上げてきた頃。

「千紘?」

そうして呼んだ名前が、多分合図になってしまったのだと思う。
不意に小さく息を吸った狼はがばりと体を起こし、そして壁の向こうに向かって声を張り上げた。

「おい羊! 起きてんだろ、来い!」
「え……」

ひやりと体が冷えた。
思わず追うように手を伸ばして、けれどもう狼は僕を見てはくれなかった。
代わりに壁を一枚隔てた共同スペースの方からばたんと何かを倒すような騒々しい音がして、それから勢いよく部屋の扉が開いた。

「どうしたんですか? 何かあっ……、えっ!?」

顔を覗かせた羊くんは狼を見、それから僕に視線を移して目を丸く見開いた。
無理もない、狼に押し倒されたままベッドに横になっていた僕の上半身は裸で、しかも多分先輩につけられたキスマークと、それを上書きするような狼の噛み跡でひどいことになっている。
けれどそれを隠そうと思うよりも、狼を引き止めたいという思いの方が強かった。
今度こそ狼の腕を掴む。
しかしその手はやんわりと、それでいてはっきりと拒絶されてしまった。

「羊、こいつのこと頼む」
「っ、待って千紘」

振り絞った声は狼の耳には届いてはくれない。
いや届いてはいるのだろうけれど、狼を引き止めてはくれない。
呆然と見つめる僕から目を逸らしたまま背を向けた狼は、すれ違いざまに羊くんの頭をぽんと撫でた。

「俺の代わりに優しくしてやって」
「……狼さん」

そして、何か言いたげに狼を見上げる羊くんからも目を逸らし部屋の外へと足を踏み出した。

「待って本当にお願いだから……!」

置いていかないで、とほとんど叫ぶように言った僕の言葉も、やっぱり狼の足を止めてはくれなかった。
とっさにもう一度手を伸ばした僕と、立ちすくむ羊くんを置いて、ぱたんと扉が閉まる。その静かな音は、僕が初めて聞いた狼からの拒絶の音だった。

prev / next

[ back ]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -