▼ 10

明け方部屋に帰ると、作りかけだった鍋の中身は綺麗になくなっていた。
きっと羊くんが洗ってくれたのだろう、食器も全てきちんとしまわれ、シンクも水滴一つなく磨かれている。
朝ご飯はどうしようと思ったけれど眠気に勝てなかった。頭も体もずしりと重くて、全く気力がわいてこない。
結局そのまま、ベッドに潜りこむことにした。





「おい、朝飯は?」

目が覚めると、ベッドの脇に寝間着姿のままの狼がしゃがみこんでいた。
起き抜けなのだろう、頭の右側が寝癖でぴょこんと跳ねている。

「ああ、うん」

起き上がろうとしたけれど、体の重さは回復していなかった。
布団の中に逆戻りして、もう一度目を閉じる。

「ごめん、何か買って食べて」
「は? どうした、体調でも悪ィのか」
「そういうわけじゃないけど、もうちょっと寝る……」
「あァ? 学校は?」
「ん……」

答える口も瞼も重くて、そのまま目を閉じる。けれど睡魔に身を任せようとしたところで狼の声が聞こえてきたから、もう一度目を開けた。

「お前な、アイツんとこ行くのはいいけど支障が出るほどヤってんじゃねえよ」
「どうしたの、もしかして妬いてる?」

冗談で紛らわそうと微笑むと、狼は小さく舌打ちをした。

「だったら悪ィかよ」
「……」

ふざけているわけでもないらしいその言葉に、正直驚いた。それでもやっぱり眠気には勝てなかった。だからなのかもしれない、たまには取り繕わなくてもいいだろうと思ってしまったのは。

「そっか、嬉しいな」

するりと口から滑り出てきたそれに、狼が目を見開く。あどけない表情が可愛く見えたけれどその表情は一瞬でかき消え、代わりに細い眉が訝しげに上げられた。

「……お前なんか変じゃねェか?」
「ん? 何が?」
「何かいつもより雰囲気が妙な……おい待て、どうしたこれ」
「え?」

眉間に皺を寄せた狼が、僕のパジャマの胸元に手をかける。
驚きはしたけれど体が竦む前に掛け布団を剥ぎ取られ、それからボタンをむしり取るようにがばりと前を開かれた。

「ちょっ……何……」
「お前……」

目を丸くした僕に構うことなくひゅっと息を吸い込んだ狼は、そのまま言葉を失い黙りこんだ。
その視線を追って自分の体を見下ろした僕までつられて口をつぐんだのは、そこに赤い鬱血痕がいくつも散らばっていたからだ。
悪戯っぽく片目を瞑ってみせる先輩の顔が頭をよぎった時、狼はすっと表情を消した。

「……あの狐男にどこまで許した?」
「え? どこって別に……」
「ヤらせてんのかって聞いてんだよ!」
「……っ」

鋭く放たれた怒声に、今度こそ反射で身が竦んだ。それから両肩を掴まれた時には、もう恐怖しかなかった。
怖いのは狼ではなく、正確にはこうして怒りを露わにする「男」だ。
けれど今はそんな分類には何の意味もない。
肩に指がくいこむくらいのその強い力に、体がびくりと跳ねた。

「俺はダメでアイツならいいのか?」
「ちが、違う」
「ざっけんなよ、俺が一体どんな思いで……!」
「ねえ、ちがうからちょっと離して……」

僕が頼れるのはこの世で狼ただ一人だけなのに、その狼から助け出してほしいという矛盾がひどく苦しい。
前もそうだった。
そして、きっと狼も狼で苦しんでいたのだろう。
だからお互い耐えかねて、一度は繋いだはずの手を結局は放してしまった。
それなのにこれじゃあまた同じことの繰り返しだ。
そう思った時、狼は唸るように呟いた。

「もういい」
「え……」

苦しげに絞り出されたその声に、何か返さないとと思った。けれどもう、僕の口も舌もぴくりとも動いてはくれなかった。
喉の奥が熱くて、胸のあたりも締め付けられるように痛い。かろうじて目だけは動いたからおそるおそる視線を上げると、狼は怖いくらい真剣な瞳で、僕を睨むように見つめていた。
視線が交わって一瞬、瞬きを一つした次の瞬間に、視界がぐるりと回った。
何が起こったのかすぐには分からなくて、気がついた時にはもう、シーツに頭を押さえつけられていた。

「もうお前の言葉は聞かねえ」
「な、何……」
「これ以上他のヤツに好き勝手させてたまるか。お前が泣いても喚いても、いっそ縛り上げてでも俺のもんにしてやる」
「え、……っ!」

噛まれた、と気づいた時にはもう、首がじくりと熱くなっていた。
薄い皮膚一枚隔てて気管や血管に固い歯が食い込む不安と恐怖と、それからひりつくような痛み。
一瞬目の前が真っ赤になって、それから遅れて視界がじわりと濡れる。

「いっ、つ、……」
「……」
「待っ、きいて、お願い」
「うるせェ。黙ってろ」
「っ……! いやだ、やめて……」

首に刺さっていた歯は甘噛み程度に変わったけれど、今度は脇腹に強く爪を立てられた。
逃げ出したいのに体重をかけてのしかかられたらもう身動きもできなくて、ぼろりと涙が零れた。

「やだ……、いやだ、狼、怖い……」
「怖いことなんか何もねェよ」
「っ、ねがい、許して、ごめんなさい……!」
「ちゃんと目開けて見ろ。お前の目の前にいんのは誰だ? あのクソ野郎じゃねェ、俺だろうが!」

僕を見下ろして苦しそうに叫ぶその声は、音としては耳に入ったけれどもう上手く理解できなかった。
分かるのはただ、僕が縋れるのは昔も今もたった一人しかいないことだけだ。

「……助けて、千紘……」

震える声を絞り出した途端、目の前の顔はくしゃっと歪んだ。
見上げた先、泣き出しそうに震えた口元が無理矢理笑みを形作る。

「悪いな、泰之。俺はもうお前のこと助けてやれねェわ」

ああ、と漏れたため息は僕のものだったのか、それとも狼のものだったのか。
最早それさえ分からないまま、僕はゆっくり目を閉じた。

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