▼ 08

冷たいコンクリートに腰を下ろしもぞもぞと位置を調整した羊くんは、最終的には自分の膝を抱える体勢に落ち着き、そして口を開いた。

「今の人が狐さんですか?」
「ああ、うん。狼はそう呼ぶね」
「3年の人だったんですね」
「うん」
「付き合ってるんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「……そうなんですか」

それきり羊くんは言葉を切り、目を伏せてしまった。
そんなことを聞きにきたんじゃなかろうに、と思いながら、今度は僕が口を開く。

「羊くん、授業は?」
「……すいません、烏さんが階段のぼってくのが見えたからつい」
「いや、謝らなくても。僕もさぼってるわけだし」
「あ……そうですよね、すいません」

だから謝らなくても、と思ったけれど、それ以上無駄口をたたくのもなんとなく面倒だった。
別に羊くんにどうこう思っているわけじゃない。
ただ、そんなことよりも僕には言うべきことがあった。

「ごめんね、昨日」

短い沈黙を破って呟くと、抱えた膝に視線を落としていた羊くんは横目で僕を見た。

「何がですか?」
「羊くんに意地悪しちゃったこと」
「意地悪?」
「あと、嘘ついちゃったことも」

独り言のように付け足すと、羊くんが目を伏せる。
その反応に、なんとなく違和感を感じた。
あれ、と首を傾げていると、羊くんは小声で呟いた。

「おれもすいません。昨日、実は話聞いちゃって」
「え?」
「狼さんが来たあたりで目が覚めたんですけど、話の流れ的に起きれなくて」
「あ、ああ……そっか」
「あと、興味も半分……、すいませんでした、本当に」

羊くんのいる場所で話をした僕の方に非があるので、盗み聞きを咎める気はない。
けれど恥ずかしさはあった。
なんと言っていいか分からず黙っていると、羊くんの視線が再び戻ってくる。

「やっぱり好きなんですね。狼さんのこと」
「……それは、まあ、うん。前も言ったと思うけど」
「おれ、もう行かない方がいいですか?」
「え、なんで?」
「烏さんにとっては邪魔なんじゃないかと思って……。毎晩どこか行くのって、おれがいるからなんじゃないですか?」

驚いて見返すと、羊くんは予想以上に強い視線で僕を見ていた。
睨んでいるというのとは違うし、挑戦的というわけでもない。ただ真っすぐな、真剣な瞳。
思わず、ふ、と息を吐く。

「もし僕が邪魔だって言ったらどうするの?」
「……え?」
「狼と別れるの? 好きなんでしょ?」
「……」

唇をきゅっと噛んで俯いた羊くんの横顔を見て、ふと我に返った。
違う、僕が言いたいのはこんなことではない。

「ごめん。嘘だよ。別に邪魔なんかじゃない」
「……」
「仮に羊くんが別れたって代わりに他の誰かが来るだけだよ。今までだってそうだったし。狼が羊くんのこと気に入ってるみたいだったから焦っちゃったけど……、でも、だからこそ羊くんが狼といてくれるのが一番いいんだと思う」

羊くんは少しの間、俯いて自分の上履きの先を見つめていた。
それから、顔を上げないままそっと口を開いた。

「何でですか?」
「ん? 何が?」
「だって、狼さんのこと好きなんですよね? それに狼さんだって烏さんのこと好きじゃないですか」
「……どうかな。狼がそう言ったわけじゃないでしょ」
「言われなくたって分かりますよ。あんな呼び方」
「……」

咄嗟に反論できなかったのは、昨夜のことを思い出してしまったからだ。
確かに、狼は今でも僕のことを好いてくれているのだと思う。
自意識過剰だとかではなく、事実きっとそうだ。
けれど、羊くんに対してそれを口に出して肯定するわけにはいかない。

「なんで付き合わないんですか?」
「……」
「おれなんか、邪魔なだけじゃないですか……」

けれど、目に涙を溜めて悲しそうにそう言われてしまっては話は別だ。
ため息をつき、言葉を探す。

「……確かに、昔そう言われたことはあるけど」

やっぱり、と言いたげな羊くんを遮り、僕は続けた。

「でも、駄目だったんだ。どうしても上手くいかなかった」
「何でですか? タチ同士だから? 別に入れなくたっていいじゃないですか」

あけすけなその言葉に、つい笑ってしまった。
むっとした様子の羊くんに謝り、確かにそれもあるけど、と言葉を繋ぐ。

「僕さ、痛いのがどうしても駄目なんだよね」
「え?」
「そんなこと、って思うと思うけど。特に羊くんみたいに平気な人からしたら本当に大したことないと思われそうだけどさ、あ、別に皮肉じゃなくてね」
「いえ……」
「でも、本当に駄目だったんだよ。我慢しようとしたんだけど、どうしても無理で。狼も改善してくれようとしたんだけど……」

例えば狼のそれがただ趣味の範囲内であれば、きっと我慢することだってできたのだろう。
けれど、そうではなかった。
僕も狼もきっと、まだ幼かったあの頃に根底から捻じ曲げられてしまったのだろう。

「……それで結局上手くいかなくて、というか僕が狼のこと怖くなっちゃって。昨日の見てたら分かると思うんだけど、正直今でも触られるだけで怖いんだよ。だから……本当こんな自分が嫌なんだけど……いくら狼のこと好きでも、どうしようもない」

こんなに長く喋ったのは久しぶりかもしれない。
ふう、と一息つくと、吐き出した息は白くのぼっていった。
いつの間にかすっかり冬だ。
初めて狼に好きだと言われてから、3回目の冬。

「……烏さん」
「ん?」

灰色に曇った空を眺めていたら、ぽん、と頭に羊くんの手が乗せられた。
そのままそっと撫でられて、少し戸惑う。
けれど優しい感触にされるがままになっていたら、羊くんはぽつりと言った。

「泣かないでください」
「え、あ、ごめん……」

通りで目が熱いと思っていた。
慌てて手をやれば、涙が溢れるとまではいかずともじわりと目元が湿っている。
思わず擦ろうとすると、その手をやんわりと取られた。
驚いて視線を上げると、羊くんはどこか辛そうに眉を寄せて僕を見ていた。

「おれは……」
「うん」
「おれは、確かにドMのド変態ですけど」
「う、うん……?」
「でも、烏さんに優しくしてもらうのも好きなんです」
「……」
「だから、泣かないでください。辛いこととか愚痴とか、なんでも聞きますから。だから……」
「……うん」
「すいません、こんなことおれが言うなって感じですけど」
「そんなことないよ。ありがとう」

ひどく気まずそうな羊くんの表情につい笑ってしまうと、羊くんもつられたように笑い、そして細い腕で僕を抱きしめてくれた。


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