進まない足を引きずるように運んで、一方的に交わされた約束通りサクラは今ホテルの前にいた。 いかにもという感じのやたら派手なネオンを前に、サクラは無意識に喉を鳴らす。 正直こういうところは初めてだ。 というか、こういうところに来るようなことだけはしたくなかったというのが本音だ。 もとより身体を売る決意があるのであれば、お金の問題など遠の昔に解決している。 此処を利用する理由はどうであれ、自分の中の崩れかけていたプライドが唯一引きとめた一線でもあった。 どこに足を落ち着けたらいいのかさえ分からず、周りをうろうろするのも気が引けたものの、ただ佇んでいるのもおかしい気がして、こういう場合はどうするべきなのか思考を巡らせていると、ほどなくして彼女の耳殻が不快なエンジン音を捉えた。 遠くのほうから聞こえていたそれは徐々に大きさを上げてきたかと思うと、ゴウンゴウンという地面を打つ衝撃に変わり、サクラの腹を響かせた。 現れた真っ青な厳ついバイクはサクラを素通りして風を切る。 そのまま躊躇なくホテルの駐車場に入って行った。 ようやく音が絞られるが、耳の奥には余韻が残り、軽い耳鳴りさえ覚えた。 この男といると、健康に影響が出そうだと本気でサクラは眉を寄せる。 ヘルメットを抱えた男の顔を見るや否や、 「近所迷惑よ、騒音被害ってこういうことを言うのね」 嫌味のつもりで彼に投げかけたものの、華麗に無視を決め込んだサスケは一度サクラの格好にちらりと目を向けた。 「制服で来なくて一安心だぜ、委員長」 彼女の服は先程店を訪れたままだった。 少々派手な気もするが、未成年丸出しの制服よりはずっとましだろう。 彼女が学生であることを示す物はお洒落なショップ袋に詰め込んだ。 同じ店で働くお姉さんにもらった、所詮サクラには縁のないショップだ。 サスケは先程サクラが躊躇った入口を何の躊躇なく通過した。 慌ててその背を追うと、入ったところはサクラが想像していた通常のホテルのようなカウンターではなく、券売機のようなディスプレイがまぶしいほどに光を放っていた。 築何十年は経っているであろう内装にも関わらず、最新の機械を導入しているあたりに違和感を覚えたものの、下手に人とやり取りをしないでよかったことが、サクラにとって救いでもあった。 これ以上目撃情報は増やされたくない。 ディスプレイに向かって、手際良く手続きを始めるサスケの手元をサクラはただ見ているだけであった。 そうして何気なく視線を彼の横顔に移す。 こんな状況でも再度感心してしまうほど彼は端整な顔立ちをしている。 もちろんこういったところに来ることだって多々あるのだろう。 彼の指がディスプレイを叩くたびに、サクラはなんだか複雑な感情に駆られた。 怒りではない。 かといって哀しみでもない。 表現のできない胸の詰まりを憶えて、サクラは彼から目を逸らした。 あっという間にサスケが手配をしてくれたのは最上階の部屋。 もちろんエレベーターという文明の利器に頼るわけで。 その箱の密室がサクラにとったら落ち着かない空間となった。 回数が上がるごとに表示を変える文字盤をただ黙って見つめているのも気まずくて、かといって他に目をやるところもなく、俯いたり見上げたりを繰り返していると、不意にサスケが尋ねた。 「ラブホテルは初めてか」 あまりにしれっと言ってのけるものだから、言葉を捉え損ねそうになった。 「あ、当たり前じゃない。大体こういうホテル、十八歳未満は入っちゃだめなのよ」 思わず声が裏返ってしまう。 必死になって得意の正論を振りかざしてみたものの、 「俺はもう十八だ」 彼には最早通用しなかった。 「…私はまだ十七よ」 独り言のように呟いたサクラの声は彼に届いたのかさえわからない。 ふわっと浮き上がるような感覚と甲高いベルの音で、エレベーターが最上階に停止したことを知る。 迷うことなく進むサスケに足についていくと、廊下の突き当たりの部屋の前で立ち止まった。 彼が開けた扉の先にはサクラの想像していなかった世界が開かれた。 思ったよりずっと普通な部屋。 むしろ普通のホテルなんかよりも豪華な装飾がリッチな気分にさせてくれる。 サクラは恐る恐る部屋に踏み込んで、ふかふかそうなダブルベッドに腰掛けてみた。 ばねが彼女の体重を緩やかに受け止める。 自在に動くばねの感触を前に、さすがのサクラもポーカーフェイスは気取れない。 もともと好奇心は旺盛な性質なのだ。 ベッドだけに飽き足らず、浴室や冷蔵庫など無邪気に探りを入れていると、 「なんだよ、まんざらでもなさそうだな」 サスケが揶揄した。 はっとしてサクラは彼に向き直ったがもう遅い。 恥ずかしさに少し頬を赤らめて、睨みをきかそうとする彼女は最早小動物にしか思えない。 必死に威嚇して、心は許さないまるで子猫のようだ。 「で、話って何かしら」 急に真面目ぶって、サクラは今自分がここにいる理由の核心をついてきた。 「いきなり本題か、まぁ座れ」 喉が渇いたから水を、と言わんばかりに彼は冷蔵庫に首を突っ込むと、缶ビールのプルタブを起こす。 サクラが眉を寄せたことに気づいて、サスケが彼女の眼の前でふらふらと缶を振ってみせた。 「飲むか」 「結構よ。あなたみたいな人は早死にすればいいんだわ」 何故未成年の飲酒が法律で禁じられているのか、説き明かしてやりたいくらいだが、生憎目の前のこの男に健康云々を語るほどサクラはこいつの老い先に興味はない。 むしろ金輪際関わりたくないと思える男だ。 いつどこで死なれようともサクラには到底関係のないこと。 「私暇じゃないのよ。話てくれないんなら帰ってもいいかしら」 サスケがベッドに腰を据えた。 液体を喉に流し込む、音が鮮明に聞こえる。 再びサクラに目をやった時、彼の瞳は黒々とした光に帯びていた。 やけに真剣なその眼にサクラは思わず息を顰める。 「俺の連れが、お前と知り合いたいんだとよ。連絡とってやってくれるか」 淡々と彼の口から繰り出される戯れ事を真に受けるほどサクラは純じゃなかったし、だからと言って笑いながら受け流せるほど大人でもなかった。 そっと眼を伏せて次に開いたサクラの双眸は冷たい色を纏ったままサスケに投げかけられた。 「貴方、人をからかうの向いてないわ。最高に笑えない」 「お前があまりに怖い顔してるから和ませただけだろ」 「それはどうもありがとう、もう帰ってもいいかしら」 不快感ばかりを溜めて行く男をサクラは嫌いだと思った。 一刻も早く立ち去りたくて出口に向かって身体を捻ったその時。 「麻薬取引が発覚した」 たった一言で十分だ。 サクラの足を止める台詞など。 やおら振り返ったサクラにサスケは続け様に言い放つ。 「ここら一帯虱潰しに警察の捜査が入るそうだ。お前の店が麻薬取引に関与してるかは知らねぇ。が、未成年を雇ってたとなっちゃ間違いなく問題になるだろうな」 「なんであなたがそんなこと」 「言わなかったか。身内に警察がいる」 彼の兄と言っただろうか。 例の事件を担当したと言っていたか。 「警察には守秘義務はないのかしら。こうも身内のあなたに情報が筒抜けっていうのは問題あるんじゃない」 「なんとでも言えよ。お前が不利になる情報でもないはずだ」 確かにその通りだ。 この話が正しいとするなれば、事が発覚する前に店はやめるべきだと思う。 慰謝料を返すあてがなくなったとしても、警察沙汰になり学校にばれることのほうが問題だ。 一生懸命に築き上げた優等生の座からまだ降りるわけにはいかなかった。 しかし、サスケの言うことを何の疑い無く信じてしまえるような間柄でもない。 あと五カ月なのである。 長い長い歳月だった、目の前にもう自由が待っているのに。 「新しいバイト先なら俺が口利きしてやるよ」 サスケの持つ底知れぬ不可思議さがもう怖いとも思わなかった。 そういえば、彼は大きな屋敷にすむお坊っちゃまだった。 小学生の時、彼の家の前に佇んでは、迷子になってしまいそうだと身を震わしたことを思い出す。 「…あなたはどうしてそんなに私にこだわるの」 穏やかにサクラはため息を吐いた。 今日だって、これを伝えたいが為にわざわざ店まで訪れたのだろう。 今まで大した関わりだって持っていなかった女を気に掛けるなど、最早理解不能である。 放っておけばよいのだ、殺人者を兄に持つ女など。 この小さな村に住むのだから彼だって噂を聞いたことくらいあるだろうに。 ぶれることない彼の瞳がやけに真摯にサクラを捉えた。 「あんたは笑ってなきゃいけないからだ、絶対に」 脳裏から離れないのはいつだって彼女の笑顔だけだった。 そんな彼女が勝手に俺の運命を背負いこんで、顔には悲愴を貼り付けて生きていこうとするのならそれを放っておけるはずもない。 駄目なんだ、サクラが泣きながら暮らしていくなど。 散々泣かせた自分なんかが言える台詞じゃないが、だからこそサクラにはもう泣いて欲しくない。 「それに俺の連れがお前を気に入ってるって言ったろ。あんたがこんなことしてるなんて知れちゃあ落ち込みかねないからな、あいつ」 サクラに理想を詰め込んで、勝手に惚れているだけの哀れな男だが、悪い奴じゃない。 恐らくサクラを世界一幸せにしてくれる人。 まぁ落ち込むナルトを見るのが煩わしいというのが本音に近い気もするが。 サクラは静かに目を伏せた。 どうすることが正解で、どうすることが不正解なのか、今は考えあぐねる。 「ちょっと、悩ませてくれる」 「いつ捜査が入るかわからねぇぞ」 「わかってる。明日もシフト入ってるから、それまでに決めるわ」 サクラが肩を竦めると、サスケは少し頷いたような素振りを見せて、缶ビールを飲み干した。 「送ってく」 「ありがとう。でも飲酒運転の共犯にはなりたくないの」 嫌味を含んだ言い方は相変わらずだったが、先ほどよりも幾分か柔らかくサクラは首を振る。 大きな紙袋を脇に抱えたサクラは、引きとめられることを拒絶するかのように背中を丸め、荒々しく部屋を出た。 深夜ということもあり、彼女の帰路は多少気がかりだったものの、飲酒運転の共犯と言われたことはさすがに真っ当過ぎて、サスケはそれ以上サクラを追うことはしなかった。 歩いて送っていくなど口にすれば、それこそサクラに気味悪がられるに違いない。 そもそもそこまで面倒をみる義理だってないし、今回の事が終わればサスケとてもうニ度とサクラに関わることはしたくないとさえ思っていた。 (思い出されたら、困るんだ) 自分しか知り得ない前世の記憶を、彼女が思い出すなど許されない。 誰にも前世の自分は知られたくないのだ。 自分がした過ち、彼らを傷つけた事実。 足元に転がる、誰かわからない屍だって、まるでつい最近の出来事だったかのように鮮明にサスケの脳裏に映し出される。 こんな己を知られてどうなるのだろう。 到底許された前世ではない。 サスケは何の遮りのない部屋の小窓から、ホテルの玄関口を眺めた。 暫くして、淡紅色の髪が現れる。 「春野サクラ」と違いないあの色だけは尚更前世に囚われたくはない。 視界から彼女が消えるのを見送って、サスケが窓から目を逸らそうとしたその時だった。 彼の目の端に男の人影が写りこんで、はっとした。 ホテルの駐車場あたりから姿を現したその人物は、まるでサクラが出てくるのを待ち伏せていたかのように、彼女が消えた道筋を駆け足で辿っていった。 男から漏れる異様さにサスケの直感がシグナルを放つ。 (あいつ!) 咄嗟に身を翻すと、意識するよりも先にサスケは荒々しく部屋を飛び出した。 |