俺はいつだって完璧であることを望んだ。 小学校の頃から、宿題のノートは余すことなく綺麗に使う性質であったし、消しゴムだって丸く小さくなったものを最後の最後まで使い切ることにこだわった。 それを人が完璧だと呼ぶかどうかは別として、ノートは最後の一行まで使い、消しゴムは使い古しが出ないようにすることで、俺は俺を保っていたのだとも思う。 中学、高校とそれなりに成長し、ときにそんなこだわりを見せながら、周りからは変わり者だと言われたりもして、俺は社会に出ることになった。 何て事のない、いわゆるサラリーマンとしての生活は始めこそ気楽に思えてたものの、だんだんそれは俺の適正でないと感づき始めた。 会議での資料をまとめる際、全部同じ位置でホッチキスで止めることにこだわっていると作業が遅いと上司に酷く怒られたこともある。 毎日乗車する6時32分発の電車が台風の影響で遅れた際、いつもと同じ時刻の電車に乗れないのなら乗車する意味がないと会社に欠勤の電話をすると、もうお前は会社に来る必要がないと言われた。 いわゆるリストラだった。 俺の完璧さは社会に通用しない。 そう確信していた矢先、見つけたのだ。 良肩におさげを流し、眼鏡をかけた堅苦しい女を。 髪色こそ派手に思えたが、制服であるスカートの丈、シャツのボタン、座り方、足の揃え方、電車で開く書物、全てが完璧に優等生であった。 俺の降りる駅には現在時速80kmで走行中のこの電車だとあと二分ほどで到着するのだろうが、俺はこの女の行く先が気になったので、降車予定の駅を通りすぎることにした。 電車に乗る時間が長ければ長いほど乗客の数は減っていく。 終点の駅は田舎町の寂れた駅であることを俺は知っていた。 少女は恐らくそこで降りる筈。 どこからどう見ても田舎くさい生娘なのだからそうに違いない。 車両にはとうとう彼女と二人になった。 参考書を読み耽る女を俺はじっと見つめていた。 白く綺麗な肌をしている。 眼鏡の奥で瞬く睫毛は割と長いほうだ。 書物に落とされた瞳の色は独特なものだったが、肌の白さにとてもよく合っているように思えた。 長い間俺は彼女を観察していた。 それこそ見惚れていたといっても過言ではない。 電車はついに終点に近づくために加速していく。 彼女がパタンと参考書を閉じた。 ゆるりとした手つきで鞄を開けると、ノートやら筆箱やらが整頓されて入っていた。 そうして参考書を俺の思った通りの位置に仕舞う。 この女はどこまでいっても俺の期待を裏切らない。 それが俺には嬉しかった。 車内に終点を告げるアナウンスが流れると、彼女は立ち上がり、ドア付近でそれが開くのをじっと待った。 やがて空気音と共に扉が開くと、まずは右足からホームに降り立つ。 鞄の外に付いている小さなポケットから定期券を取り出して、改札口に吸い込ませる。 俺が乗越清算をしている間はもちろん待ってなどくれるはずもない。 彼女が消えた方向へ俺は一足遅れて身を向ける。 しかし、そこは廃れたネオン街。 彼女の完璧さが、一気に崩れ去った気がした。 その女は店と店の間に押し込まれたような細い階段を慣れた調子で上がって行った。 ローファーの音が耳に張り付く。 気が付けば俺は彼女が働いているであろう店の扉を潜っていた。 煌びやかに化粧を施した女にちやほやされるのは気分がいい。 今日はお金だってたくさんある。 せがまれる酒はどんどん入れて、次第に酔いも回り始め、先の女のことなど忘れ去りそうになっていた時。 あの鮮やかな髪色が視界を捉えた。 俺は自分の目がまるでそこに張り付いてしまったかのような錯覚を覚えた。 彼女から目が離せなかったのだ。 完璧に優等生だったあの女は、完璧な風俗嬢に変身していたのだから。 俺はそれからというものほぼ毎日その店に通っては彼女を指名して、他愛ない会話を楽しんだ。 元が優等生だけあって彼女との会話はこの上なく面白い。 高い酒を頼むことに躊躇だってなかった。 ズボンのポケットにボイスレコーダーを忍ばせて彼女の声を記録したり、仕事上がりの彼女の後をついていき何枚も写真を撮った。 彼女の家だって知っている。 こうして俺のコレクションは増えていった。 しかし。 まだ余裕があったと思っていた貯金はとうとう底をついた。 頼った親からは生活するのに必要最低限の金額しか支援してもらえなかったこともあり、店に通うことは出来なくなった。 毎日電話で働けと怒鳴る親の声。 それを聞いた後にボイスレコーダーの彼女が話す声は凛としていて癒しでもあった。 これからどうしようかと考えていた時、俺はひとつ大事なことを思い出したのだ。 彼女の生年月日、好物、趣味、特技、身長から住所まで全て知っているのに、彼女の声を聞く携帯番号を俺は知らなかった。 彼女のデータを完璧にするために、また店に赴いた。 一番弱そうな掃除係を捕まえて、彼女の連絡先を訪ねたが、全く教えてはもらえなかった。 それどころか次来ると痛い目を見てもらうぞと脅されたのだ。 俺の完璧はあいつらには理解されないことはもう知っていたので、ここまで来ると自力で解決するしかなかった。 そうして思い立った。 彼女ごと俺のコレクションにすればよいのだ。 そうすれば声なんていくらでも聞けるし、写真だって何枚も撮れる。 完璧な彼女を完璧なまま手元に残せばいいのだ。 我ながら名案だと思い、用意したのはスタンガンだった。 これで彼女に少し眠ってもらっている間に家に連れて帰ればいい。 いつものように店の影に息をひそめて、彼女が出てくるのを待った。 予定よりも五分遅れたが、彼女が出てきた。 その足音ですぐにわかる。 俺は彼女の後ろからゆっくりと近づき、タイミングを見計らった。 が、彼女の様子がいつもと違うことに気づいてしまったのだ。 いつもなら着替えを済ませてから店を出る筈の彼女だが今日はドレスに身を包んだままだ。 それに彼女の家までの帰路と違う道へ曲がったのだ。 俺は暫く様子を見るために、そのあとをつけていくことにした。 彼女の足は、とあるホテルの前に止まった。 俺は息がとまるかと思うほど驚いた。 何故、完璧であるはずの彼女がこんなところにいるのだろうか。 まさに想定外である。 ラブホテルなど、彼女が行くべきところではない。 しかしそれだけではなった。 暫くすると大きなバイクに乗った男が彼女の前に現れたのである。 鼓膜が破けるかと思うほどにバイクをうならせる男はろくな奴じゃない。 それなのに彼女は男とホテルの中に消えたのだ。 ああ、おかしい。 俺はその場で蹲った。 俺が知っている彼女はこんな女じゃなかった。 欲望に勤しむような、そんなふしだらな女になりうるはずもないのに。 少し、俺が目を離したすきだった。 誰かが俺の彼女の完璧さを崩し始めたのだ。 あの男か。 初めて俺は憎しみというやつを覚えた。 これは一刻も早く彼女を連れて帰らなければ。 完璧な彼女のまま保存しなければならない。 彼女がホテルから出てきたのは、それから数十分後のことであった。 しかも一人である。 これはチャンスだ。 きっと神も、彼女が完璧でなくなることを惜しんだのだろう。 ここで彼女にばれては終わりだ。 俺はひとつ深呼吸をすると、十分に彼女と距離を開けた。 引きずるような足取りが角を曲がったのを見計らい、俺はその背中を追った。 否、正確には追おうとした。 後ろから、思いがけない力が俺の肩を引きとめなければ。 「あんた何やってんだ」 咄嗟にホテルの警備員か誰かと思ったが、とてもじゃないがそうは見えない男が眉間に皺を寄せて立っていた。 この男は先程彼女と共にホテルに入って行った男だ。 見るからにろくでもなさそうな顔をしている。 年齢だって俺よりも二回りは下であろう。 答えないでいると、男が乱暴に俺の胸倉をつかみかかったのである。 「何やってたかって聞いてんだよ」 これだから頭が悪いやつは嫌いだ。 後先も考えずにすぐ拳にものを言わせようとする。 もし俺が銃でも持っていたらこいつは即死だろう。 生憎だが銃は持っていない。 しかし。 手の内に顰めていたスタンガンを、俺は思い切り男の腹に押し当てた。 「ぐっ!」 思いのほか大きな電撃音と共に、男が崩れ落ちるかのように地面に蹲った。 電撃が走った箇所を抑えて、悶えているではないか。 「どうしてだ!」 俺は咄嗟に叫んでしまった。 何故この男は気絶しないのだ! 映画ではあんなに簡単に大の男が情けない姿で失神していたというのに。 痛みで動けなくなるだけだと。 そんな話は聞いていないぞ。 「くそ!」 なんてついてない日だろう。 これは予想外だ。 また計画を練り直さなければならなくなったではないか。 俺はスタンガンをポケットに戻し、痛みに呻く男の隣をすり抜けた。 ああ畜生。 胸糞悪い。 いや待てよ。 思い返せばこれはなんて運がいいんだ! ダメージは少ないと言えど、男を再起不能にすることが出来たのだ。 それにスタンガンを彼女に使う前に欠点が見つかったのだ。 きっと、彼女に傷が付かないように一番ボルトの低いのを選んだからいけなかったのだ。 仕方ない。 明日にでももっと威力の強いスタンガンを買いに行こう。 何、予定が一日ずれただけだ。 気にすることはない。 明日があるのだから。 |