夜のバイト、なんて口にすれば揃いも揃ってみんな眉を潜めるのだろう。
まだ十八に満たない少女が三歳偽って踏み込んだこの世界は、知れば知るほど底が深くて暗い澱みを持っていた。
だからサクラは出来るだけ目を伏せて、耳を塞いでその闇だけは決して覗かない努力をした。
こんな世界、すぐに逃げ出すのだから、知ってはならないことを知る必要はない。
余計な会話はすることなく、下手に自分をさらけ出さないで、幾つもの仮面を用意した。
その中で一番上等な笑顔をいう面を貼り付けて、今日も私は笑う。



従業員入り口からまるで忍び込むように潜りこみ、サクラは目的地の部屋をノックする。

「おはようございます」

時間帯に不釣り合いな挨拶を述べると、中の男は少しばかり驚いた顔を作った。
口にくわえた煙草を外す。

「今日シフト入ってたっけ」
「ちがうんです。お給料受け取りに来ました」

にっこり笑ってサクラが言うと、男は大げさに、ああと手を打った。
鍵一つ掛かっていないアルミ製の引き出しをがらがらと開け、中から茶封筒をとりだした。
それもまた、封さえされていない。
自分の給料の不用心さに心配になる。

「はい、今月分」

分厚い茶封筒をサクラの手に納め、男は目を細めた。
来月もがんばってね、と何の面白味ない激励の言葉を貰い、同じくサクラも面白味のない笑顔でありがとうございますと頭を下げた。

「そういえばね」

男は一度口から外した煙草を再び吸い込むと、ふぅと煙を浮かばせて、眉を寄せた。

「昼間、またあの男が来たみたいだよ。君の連絡先教えろって」

ちくんと胸の奥に細い針を突き立てられたらような悪寒。
さすがのサクラも笑えなかった。
そいつは半年前まで常連の男だった。
いつもサクラを指名して、高いお酒も良く開けてくれたこともあって、従業員は皆、何処かの社長かとも思っていたのだが、どうやらそれが社長どころか会社をリストラされて自棄になった元平社員だったらしい。
今や貯金も底をついたらしく男が店へ来ることはなくなったのだが、たまに昼間にやってきて、雑務係のボーイを捕まえてはこうして執拗にサクラの連絡先を教えて欲しいと言ってくるのだそうだ。
とてもじゃないけど、喜ばしいことではない。
煙草を口で遊ばせていた男はため息と共に肩を大袈裟に上下させた。

「ま、これ以上しつこいようならちょっと彼には痛い目見てもらうことになるけど、念の為、あの男には注意しといてね。表沙汰になったら、君もうちも只じゃすまないから」

付け加えた笑顔の嘘臭さが背筋に冷たいものを走らせた。
警察沙汰になろうものなら、未成年でこんな所で働いてるサクラも、雇った店側もどうなるかなんて容易く想像できた。
いつもより用心深くなる必要がありそうだなとサクラは内心ため息を付く。
自分が踏み込んだ世界はいつだって綱渡りのようだ。
数センチ足の置き場を変えるだけで簡単に落下してしまう。
深い深い闇の底へ。

「わかりました、気をつけます」

がさがさとスクールバッグに分厚い茶封筒を突っ込みながらサクラは頷いた。
用件は済んだ以上長居は無用だとばかりに、くたびれたスチールの取っ手を捻らせる。

「お疲れ様です」

出て行き際に飛び切りの笑顔で会釈をすると、飛び切りの笑顔で返された。
後ろ手にバタンと締まるスチールドアの音を聞いた。
ローファーでコンクリートの階段を叩きながら、一歩一歩踏みしめる足は何処か軋んでいるようで。
首に巻き付けたマフラーにサクラは顔をうずめ、寒風が頬を打つ痺れた痛さに目をぎゅっときつく瞑った。

今日給与として受け取ったお金は、もれなく銀行の機械に吸い込まれたまま帰ってこない。
でもそれもあと五回で終わり。
その後には自由の世界が待っている。
汚れた此処からは足を洗って、今まで扱ったことのない自分の時間が手に入るのだ。
誰に後ろめたい思いをして生きることも、きっと、無くなる。

(――無くなるんだ)

それは自身に言い聞かすように、心の中で呟いたサクラは星の瞬く夜空を仰いだ。
柵から解き放たれることの期待と、矛盾して浮かぶ罪悪感はいつだって気まぐれに顔をだして、サクラの心を蝕んでいくのだ。
何よりも望んだ自由を前にして、たまにどうしようもなく怖くなる。
自分が呪縛から解かれる陰でずっと、苦しんでいる人がいることに。





今から十年ほど前。
ある一人の青年が捕まった。
罪状は一家全員殺人。
両親も容赦なく死に至らしめた青年は、尊属殺人罪を問われた。
当時は世間を湧かせたこの事件は最早人々の記憶の片隅に追いやられているだろう。
恐らく、この事件では齢六歳の少女が唯一生き残ったことさえも忘却の彼方へ。
少女は捕まった青年の実妹にあたる。
名前は公表こそされなかったが、小さな村で起こったこの事件の詳細は三日と経たずして千里先の村まで広がる勢いであった。







あの桜色の髪した子が可愛いとナルトが非常用の螺旋階段からグラウンドを眺めて言うもんだから、ついサスケはその視線の先を追った。
間違いなく、あの目立つ髪は春野サクラのもの。
下校時間。
帰路へ着く生徒の中に彼女は紛れていた。
どれどれ、とキバがナルトを押さえつけて、身を乗り出す。
誰の目でも、どんなに遠くからでも直ぐに見つかる薄紅は今日もお行儀よく、彼女の肩に三つ編みをこさえている。

「あいつって、確かサスケのクラスじゃなかったっけか」

右手を額に垂直に宛てて、キバがサスケを振り返る。
サスケは余計な事は言うなと言わんばかりの鋭い視線をキバに寄越したが、時すでに遅し。

「そうなのか、サスケ!」

ほら言わんこっちゃない。
サスケはキバを睨みつける。
妙にテンションの上がったナルトは非常に面倒臭い。

「なぁなぁ、名前はなんていうんだってばよ」
「春野サクラだろ」

しかし。
此処でサスケのものじゃない声が助け船を出してくれた。
彼らの足元にしゃがみこんでいたシカマルがグラウンドにいたサクラの姿を見ていないにも関わらず、さらりと答える。

「お前ら、仮にも成績学年トップのやつの顔と名前くらい覚えとけよ」

呆れかえったシカマルの台詞に、コンマ三秒。
ナルトが飛びあがる勢いで驚いてみせる。

「ええ!あの子ってば学年トップの優等生かよ」

これぞまさに身分不相応の恋だな、と常に学年最下位のナルトをキバが笑った。
キバとて似たり寄ったりの成績だろうと思ったがサスケは突っ込まないことにしておいた。
ほう、とナルトが階段の手摺りに頬杖を付いて恋する乙女のようにため息を漏らす。
とうにサクラが居なくなったグラウンドを遠い目をして見つめた。

「でも可愛いよな。どんな顔をして笑うんだろう」

呟いたナルトの言葉で、無意識に浮かんだある少女の笑顔をサスケは春野サクラに重ね合わせてしまう。

――サスケくん。

かつての俺の名を呼ぶ声。
上気した頬。
屈託のない笑顔はこそばゆくなるほど純真で。
何度も何度も傷つけた、少女の面影は春野サクラに顕著に現れた。

「好きな食べ物とか何だろうな。絶対ショートケーキかプリンだってばよ」

フィルターが何枚も掛かったナルトの目は彼女をこれでもかと言うほど美化している。
一度目を伏せたサスケがナルトを見やった。

「あんみつ」
「は?」
「意外にあんみつとかが好物だったりしてな」

真実を冗談で包んで言ってみた。
ぱちくりと目を瞬いたナルトだったがすぐに一笑する。

「ないない。サクラちゃんに限ってあんみつはない」

ばっさりと否定してそこまで笑われると、さすがにいい気はしなかったので仕返しとばかりにサスケは言わないでおいた。
まさかその彼女が得意とするのが、手芸ではなく空手だということをナルトは知る由もない。






あれはそう、物心がついた頃だったか。
決まって同じ夢を見た。
何処かに心を置き忘れてきたことに気付かないまま、暗闇の中で、ただ血の臭いを感じていた。
裏切り、裏切られ。
憎み、哀しませ。
硬い殻に必死に身を押し込んで、哀れすぎる己はただ一人で泣き続けている。
そんな、遠い日の記憶はいつしか、鮮やかなものにすり替えられた。
人を傷つけて平気な顔をしている己も、その行為自体に縋っているような己も。
どれも今の自分とは違うのに、まるで根深いところで融合される。
自分でないのに、間違いなくそれはサスケであった。
取り巻く友人も誰一人違わない。
此処まで運命に翻弄されることがあってもよいのかというほどに。

そんな中、春野サクラと再会した。
自分の知っている彼女とは正反対の印象をした女だった。


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