ああ神様、どうかこれ以上彼を絶望に染めないでください。 彼が何をしたというのですか。 理由があるのなら教えてください。 その理由は彼をこんなにすることを許されるほどの理由でしょうか。 いいえ、嘘です。 その理由など私には大して重要ではないのです。 例えどんな理由があっとしても、その理由がいかに残忍だったとしても私は彼を愛しているのです。 私が代わりにどんな罰でも受けますから。 ねぇ、だって万人を愛するあなたなら私の気持ちをわかってくれるでしょう。 そんなことを居やしない神様に向けて祈る少女の夢をサクラは幼い頃から不思議と繰り返しみた。 驚くべきことは、少女が酷く自分と似ていたことだ。 似ているどころの話ではない。 一緒なのだ、何もかも。 薄紅掛かった髪も深緑の瞳も、鼻筋も唇のラインだって、少女を象るパーツは全て自分のものだった。 初めてその夢を見たときは、泣きたくなるほどの懐かしさを覚えた。 しかしそれが繰り返される度、寂寥感はやがて嫌悪感に代わっていった。 誰かの贖いを請う少女はなんとも滑稽で、脆くて、その達者な口を塞いでしまえば、自分があんな不幸な目にあうことなどなかったのではないかとさえ考えてしまう。 けれどもそんな自分はもっと稚拙な存在で、虚しさが心の底に淀みを残す。 夢の中、翡翠の瞳を濡らしながら必死になってお祈りする少女をサクラは涙を流しながら見つめた。 この混沌とした感情をどうやって表現したらよいのかさえわからず、ただただじっと立ち尽くしていた。 電車はとうとう乗客全員を吐き出すと、車庫に向かってゆっくりと加速した。 ホームに降り立ったのは、サクラとサスケの他にサラリーマンが一人あっただけで、ぎりぎり駅として今日も存亡したこの電車停留所には駅員さんの姿さえ見られない。 ついさっきまであれほどに熱を共有していたのが嘘だっのではないかと思わせるほど、あの男はサクラより早く改札をくぐっていた。 あまりの呆気なさに、一掌の驚きは感じたものの特にそれ以上の感情はなく、サクラはゆっくりとした足取りで、駅に一つしかない改札口へ定期券を呑み込ませた。 次に定期券が出て来るまでの一瞬に、サクラはすっかり忘れていたことを思い出す。 (今日給料日だ) 店に寄っていかなくてはならない。 先程までサスケに捕らわれていた左手をサクラは徐にポケットへ突っ込んだ。 戸外に晒されると寒い。 一度熱を知ってしまった手は特に。 廃れたこの町には街灯の明るさがない。 その中で唯一ある色街はまるで世の中から阻害されるかのようにひっそりと存在していた。 ネオン街と呼べるほどではないが、他より少しだけ明るいそこは、サクラを何の躊躇なく飲み込むのだ。 それにしても、とサクラは少し眉を寄せた。 先ほどから腹の底を打つようなエンジン音がサクラの神経を蝕んだ。 耳に不快な音は終電が過ぎ去った駅前には不釣り合いだ。 しかし、ふと顔を上げたとき、とうとうサクラは口を開かざるえなかった。 「免許、在学中に取るのは校則違反だと思うけど」 改造したマフラーを唸らせていたのは他ならぬサスケであったからだ。 当の本人は何食わぬ顔で手にしていたヘルメットをサクラに放り投げた。 その黒い物体が地面に叩きつけられるのを反射的に恐れて、サクラは咄嗟に受け取ってしまう。 「今日のは貸しだぜ、委員長」 (黙っとけってことね) 別にはじめから告げ口をする気はない。 したところで何の利益にもならないし、私は違反に厳格な正義の味方でもなんでもない。 誰が何処で何をしていようとも興味はなかった。 事を荒立てるのは嫌いだ。 しなくてもよい面倒事をわざわざする必要はないと思う。 「心配しなくても、告げ口なんてしないわ。目立つことは嫌いなの」 ずっとそうやって生きてきた。誰に反発もせず、かといって受け入れることもせず。 長いこの年月をたった独りで。 「乗れ」 是も否も答えずサスケがぶっきらぼうに促した。 「方面一緒だろう」 予想外の彼の台詞に、サクラはヘルメットを抱えたまま固まった。 送ってくれるつもりだろうか、いやしかし。 それ以上に予想外だったことは――。 「私、引っ越した、の。中学の時。だから今はこっちに住んでる」 そう言って、サスケが意図した方と逆方向をサクラは指差した。 彼と、いわゆる方面が一緒だったのは、小学生までだ。 サクラ達の通っていた小学校は村にひとつしかなく、その学区は広かった。 一番遠くから来る子の中には、片道2時間近くかかる子もいたりしたので、放課後に友達と遊ぶ約束をするということはほとんどなかった記憶がある。 その中で唯一近いと呼べる所にあったのはサスケの家だったこともサクラは覚えていた。 もっともそれは幼いなりに彼に好意を寄せていた時期であったので、帰宅するサスケと密かにタイミングをあわせて帰ったこともあった。 彼がそれに気づいていたとは到底思えないが、だったら今の言葉はどう解釈したらよいのだ。 一度動揺した心臓は、ひとりでに動きだす。 完全に油断した。 この男の気儘さを私は甘く見てた。 「そっちもこっちも変わんねぇよ」 それでも、サスケは引き下がらなかった。 ゆるりとペースが乱されるような感覚が怖かった。 サクラは慌てて首を振った。 「でも今日は、ちょっと寄らなくちゃいけないところがあるから」 そう言ってしまい、しまったとサクラが口を噤んだときには遅かった。 額を覆う前髪の隙間か覗いた彼の瞳が少し見開いて、さすがに意外そうな色を放つ。 深夜に女子高生が、まっすぐ家にも帰らないで何の用だと続きそうな質問の答えを咄嗟に考えることが出来なくて、馬鹿正直に話しすぎたことをサクラは後悔した。 どうやって誤魔化そうか。 一度俯むくと顔が上げられなくなってしまったサクラは強引に押し付けるかのように、サスケにヘルメットを返却した。 「それにノーヘルは交通規則違反よ。事故したら危ないわ」 大人しくヘルメットを受け取ったサスケが、じっとサクラを見つめる。 その視線がどうも痛くて、ますます顔は上げられなかった。 やがて、一つ溜息を洩らした彼は、押しつけられたそれを自身の頭に被せる。 足でスタンドを弾いて、ごうんごうんと五月蝿いバイクのハンドルを手前に捻る。 と同時に、 「硬い女」 周りの騒音に掻き消されてしまえばよかったものの、ぼそっと彼が呟いた一言はサクラの耳に確実に届いた。 爆音を一際大きく辺りに響かせて、後に残ったのはガソリンの匂い。 嫌味だったのだろうが、ひとまず難を逃れたサクラにとってみれば、最早それをどうとも思わない。 今彼にばれるわけにはいかないのだ。 あと少しで、目標の金額が溜まる。 そうすれば私は晴れて自由になれる。 一切の柵のない世界で、生きていくための大事な資金でもあるのだ。 彼のバイクが闇夜に飲み込まれ、大きなマフラー音も随分遠くに聞こえるようになった時。 サクラは漸く歩き出した。 随分慣れ親しんだ、ネオンの光らないネオン街へ。 掛けていた眼鏡を仕舞い、二つに分けて結っているおさげを手早く解いた。 真っ暗に淡紅色はよく映える。 夢の中の少女と同じ、この淡い色をサクラはあまり好きではなかった。 (どうしても、目立ちすぎるのよね) それは、密やかに生きることを望んだ彼女に必要のない色。 |